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内なる音楽としてのアート

内なる音楽のアート ~ あなたの音色、波長をどのように調和させるか

今回は「クジラと泳ぐ ダスカロスと真理の探究者、その教えと実践」の著者であるダニエル・ジョセフさんによる講義の抜粋を翻訳してみました。私の主な精神的支柱はダスカロスとレスター・レヴェンソンの教えなのです。ダスカロスの言う「エレメンタル」「アトワンメント」についてはここでは説明しませんので、関心のある方は是非ダスカロスの教えを学んでみてくださ~い(丸投げ!)
最近またドン・ミゲル・ルイスの「四つの約束」や、息子であるドン・ホセ・ルイスとの共著「五つの約束」を読み返していますが、そこでも同じことが言われていますね。。。


私たちは自分が人生でおかす過ちは取るに足らない些細なものとみなし、他人のそれは大罪に値すると考える。だが、私たちは正しい尺度を用いなければならない。そしてたったひとつの黄金の尺度とは、もちろん愛だ。
子供たちや誰に対しても、罰することで助けることはできない。
非難することで彼らを助けることはできない。
私たちがそのような方法を用いれば、彼らが進歩するのがより難しくなるだけでなく、彼らにとってあなたの言うことを受け入れるのがいっそう難しくなるだけだ。
その代わりに、愛のゴールデンスタンダードを使うのだ。つまり、愛をもって物事をやさしく表現し、物事を指摘するのだ。そうすれば、彼らがあなたの助けとガイダンスを受け入れやすくなるだろう。
もちろん保証はできないが、可能性は高くなる。
あなたが人々を責めても、彼らはあなたが言おうとしていることを拒絶したくなるだけだ。

そして私たちは、助けたい相手のキャラクターを研究する必要がある。つまり、その人特有の心理を理解する必要がある。

私たちが彼らから得た情報を、彼らを変えるために使うという意味ではない。そうではなく、彼らに何が起こっているのかを理解する手助けをするために使うのだ。そうすることで、彼らがより幸せになり、より自由になれるように。
誰かをより良く変えようとしているつもりなら、それは助けていることにならない。その時、私たちは相手のために尽くしているのではなく、自分のエゴイズムに尽くしているだけなのだ。

ここで注意しなければならないのは、私たちのエゴイズムは、思っている以上に狡猾だということだ。エゴはあなたとそれ自身に、自分は神に仕え、善良で慈愛に満ちた存在であるかのように見せかけたいのだ。

キリストはこれについて言及していた。つまり、悪魔は「命の天使」のように自分を見せかけるのだ。

だから、私たちは注意しなければならない。それに邪魔をさせてはならない。利他的なふりをしたりしないようにしなければならない。善なるものに自己犠牲を払っている気分になってはならない。その裏に何があるのかを注意して見なければならない。そしてそのトリックに騙されないようにしなければならない。

私たち自身のエゴイズム、他人のエゴイズム、そして高次の存在に見せかけた存在は、多くの労力を費やして、私たちを惑わし、欺き、私たちを足止めしようとする。私たちを道から逸らそうとしている。

ほとんどの人は、ビーイングとエンティティの違いを認識できない。
ビーイングとはスピリット・ビーイング(生命)のことであり、人間(human being ヒューマン・ビーイング)や大天使のような存在である。
エンティティとはエレメンタル(想念形態)のことだ。それは生きた存在である。しかし、ほとんどの人はビーイングとエンティティの声を聞いても、その違いがよくわからない。それらを見分ける能力を身につけるには時間がかかる。だから、多くの欺瞞が起こっているんだ。

(生徒からの質問)それらに何か質問してみたら区別がつきやすいでしょうか?

いや、それらの話し方を学べばいいんだ。エンティティはあなたを騙そうとして、たくさんの言葉を口にする。これを説明するのは難しいのだが、エンティティの言うことには本物の持つ質が欠けているんだ。エンティティは同じ言葉を繰り返すが、ビーイングならとても簡潔に、その時々に特有のことを述べるだろう。

エンティティはたくさんの言葉を並べてあなたのエゴを強めようとする。あるいは、潰そうとして嫌な気分にさせようとすることもあれば、実にいい気分にさせようとすることもある。それもすべて、ごまかしの一部だ。
そしてこれこそが、観察と内省、特に自分自身に対する正直さが必要なところなのだ。
自分の人生に何が起こっているのか、どれだけ自分に正直でいられるか。

そうすることで、私たちの人格に識別力が養われ、誰からも欺かれなくなるのだ。
多くの欺瞞が起こっている。
実に多くの欺瞞が起こっている、
偽の存在やネガティブな存在が私たちを欺こうとする。彼らは私たちに反対し、妨害し、欺こうとする。

そしてそのような存在があなたを捉えようとする一つの方法は、人、特に霊媒を操ることによってである。

霊媒に、その人自身がやっていると思いこませて、人々を癒したり、人々にポジティブな結果をもたらしたりもする。それは人々の注意を引くためだ。あなたたちの注意を引くために、あなたたちに彼らの言うことを聞かせるために、このようなことをするのだ。

だからこうしたこと全てに重要なのは、私たちの人格を形成していくことなんだ。良い人格を養っていく必要がある。

それはどのようなものなのか?
人格形成とは?

私はそれを音楽という芸術に喩えたい。ハーモニーを認識するためには訓練が必要だという意味で、それは音楽の芸術のようなものだと思う。

スーフィーの神秘主義的な伝統では、人はそれぞれ固有の音色を持っていて、その音色は人々が抱く感情や思考から生まれ、彼らの行動によって表現される。

すべての人間を音符のように見てみれば、その音符がシャープかフラットか、低いか高いか、どの音程に属するかを認識することができる。

このようにして一人一人の人間について、その人がどんな人間であるかを知ることができるだろう。それによって異なる対処の仕方が学べるだろう。

そして私たちは自分という芸術を、話し方や行動に表し、出会う人々一人ひとりの音色や、今この瞬間のリズムに調和させることができる。

つまり同じ言葉をそれぞれ異なる人に対して異なるトーンで話す。トーンの違いでその人にとっての意味が変わるということなんだ。

音楽において新しい音と音の間に沈黙があるように、私たちは適切なタイミングで言葉を発することも、適切なタイミングでないときに言葉を保留することもできる。生命という音楽を完成させるには、静寂と音の両方が必要なのだ。

私たちの目標はより洗練された人格になろうと努めることであり、それは実際、調和のとれた音楽を作り出すようなものなんだ。

言い換えれば、個性の表現において芸術的になることであり、美を生み出そうとするこの内なる傾向が、人格形成というアートにおいて人を助けるのである。

人は内面を磨くよりも外見を磨こうとする傾向が強い。自分の感情や人格を洗練された感情や思考に磨いていくよりも、物質的な身体を着飾ることにはるかに気を配る。

しかし、繰り返しになるが、内面的な洗練と美意識がなければ、外見的な洗練は意味をなさない。だから、私たちはすべての行動において美を追求しなければならない。

私たちの表現における美しさは、霊的「アトワンメント(一体化)」の証となる。美しい音楽を想像できるだろうか? ハーモニーこそが美しい音楽の要である。ハーモニーのない美しい芸術は想像できないだろう。建築もそうだ。各部分に調和、ハーモニーが必要なのだ。だから、私たちの人格の中にもそれが認められなければならない。

そして友愛は親切な考えや言葉、行動で表現される。それこそが洗練された人格を形成するのに最重要なものである。どんなに洗練され、進化した人間であっても、洗練と優しさには常に改善の余地がある。

優しさとは、行動する前に物事を考えることから生まれる。言い換えれば、何か言ったり行ったりする前に考えるということだ。さらに言い換えるなら、自制心を養う修練をするということだ。

自分をコントロールできない人間には優しさがない。優しさの欠如を示す個々の民族や国家には、その進化のレベルが如実に表れている。

ダスカロスがよく言っていたように、人は物質に酔っている。言い換えれば、商業主義によって、私たちは物質的な所有物を得ることに囚われてしまっている。

物質的な所有物が悪いわけではない。物質的な所有物が私たちを所有し私たちを奴隷にしてしまうとき、私たちは間違った方向に進んでしまうのだ。

そして、特に西側諸国、特にアメリカの人々は、所有物を持つためだけに借金奴隷になる。
奴隷の時代は終わったと思っていたかい?しかし、今は奴隷制度がさらに悪化し、すべての人に影響を及ぼしているんだ。これには本当にキリがない。

人生において日用品などを得ることはパーソナリティ(小我)にとって必要であるが、その追求にとらわれると、魂にとっての必要性である美を失ってしまうこととなるのだ。

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