#271 キャロルさんの奇跡講座レッスン
奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖お手元にワークブックを準備してお聞き(お読み)ください♪
※ ワークブック訳は「奇跡講座 ワークブック編」(中央アート出版社)を参照しています。
キャロルさんの奇跡講座レッスン271
元の講義はこちら→https://youtu.be/9mUuU5xoV68?si=uw_9LNc_HuvmtkAU
ハロー皆さん!来てくれてありがとう✨ワークブック第二部のミニ・セクションである今回のお題はこちらです。
6.キリストとは何か
かなり重要な問いかけです!
キリストとは人のことではありませんでしたね。それは、知性では計り知れない〈在りてあるもの〉のことでした。私たちが導かれていくにつれて、それを体験するのは容易くなっていきます!そのためのコンディション作りをしなきゃいけないんですね(笑)
これは、思考のための何かではないんです。理解するためのものではないんです。
すべてが善であり、私たちすべては正しい方向に向かっているのであり、必要なものはすべてここにあり、私たちはよくやっているのだと、わかってください。
存在するのはワンネスだけです。
思い出してください。レッスンは初めから、想念は源を一度も離れたことはないと教えています。今それを確かめることができます。あなたにとって、とても大事な何かを友達に伝えたいと思ったとします。その思いを共有したからといって、その思いはあなたの心の中から消えますか?かえって逆に、いっそうその思いはあなたにとって真実となるのではありませんか?
ですからキリスト、つまりこの集合的な私たちの〈臨在〉は、
キリストである私たちのワンネスは、源から離れてはどこにも行けない想念なのです。そもそも、私たちの創造主には境界線というものはありません。限界がありません。神が終わり私たちが始まるという地点があるわけではないのです。
ですから、神の心の中で生きるという選択肢があるのみです。
キリストは創造主である愛とあなたをひとつに保つ絆です。そして分離というアイデア、つまり私たちは小さくて切り離されていて、安全ではない存在だというアイデアは、単なる幻想に過ぎません。
神の答えが内在する部分とは、私たちの叡智がある場所であり、私たちの無垢性のある場所であり、私たちの真実の姿であるところです。そこでは時間は終わっています。この、狂った考えは終わっています。
肉体の目は、見ないようにするために作られたということを覚えていますか?それらは形象を見るためのものです。咎めを見るためのものであり、過ちを探すものです。しかしそれらに意味はありません。何かを変えることもありません。
これがいったい何を意味するかと言うと、「何も問題はない」ということ!あなたは何も損なっていません。
これはいずれ、すべての人たちに必ずやって来る運命です。ありがたいことにね!
私たち全員の集合的プレゼンスであるキリストから神の声である聖霊が私たちの夢に達し、この悪夢を翻訳して、入れ替えてくれるのです。
悪夢は清められ、美しいものに入れ替わります。私たちの真実の姿に近いものになるのです。
裁くことはなく、咎めることもなく、すべての人に神聖さを見るのです。私たちはまだ個々の存在としてあり続けるでしょう、しかし、私たちが皆同じ共通の無垢性を分かち合っているのです。
キリストの顔とは、誰か個人の顔を指すのではなく、神聖な光景を目にすると言うことです。そして、贖罪とは単に「私は一度もわが家から離れたことはなかった」と認めることでしたね。罪悪感なんて、馬鹿げてます。間違ったことなど起こりませんでした。私は家から離れたことなどなかったからです。
言葉にするのは不可能な体験を語っています。私たちにとって、過ちを探すよりも真実を見ようとするほうが遥かに重要になったとき、必ずここにやってくるであろう体験のことを言っているのです。
レッスン271
今日、私はキリストのヴィジョンを使う。
1.私は毎日、毎時、刻一刻、自分が見たいものや聞きたい音を選び、自分にとって真理であってほしいものの証拠を選択している。
お気づきになりましたか?ここに過去が入り込む余地はありません。過去は氷がお湯の中で溶けるように消え去っています。そう、あなたは真新しい決断を今日、下すことができるのです。毎時間、毎瞬間が新しくまっさらなモーメントです。再び新しく、何を求めるかを決めるのです。
私はこれまで1000万回も対立を選んできたかもしれません。今日、私は平和を選びます。すべての人の素敵なところ、美しいところを見ることを選びます。
無垢性と真実の姿と善を探します。必ずそれが見つかるのだと、知っているのだから。
私たちの無垢性と真実、そして完全に清められたバージョンの世界を見ることができるようになったとき、この夢の中のすべての形象が無意味となるのです。
裁きや咎め、形でしかものを見ない視覚で見るときに私たちが目にするのは恐れ、死、醜さです。愛を持って見ていないからです。
しかし神聖さと無垢性を見ようと求めるなら、それを見ることができるようになるのです。私たちの体験はもっと美しく清らかになり、より平安に、より充足感のあるものになるでしよう。そして私たちは安心を感じます。
そうです。それこそまず第一に求めるべきものです。私たちは安心と愛を感じたいのです。
今日、私が見ると決めたものは、自分への贈り物です。神聖で無垢で善なるものを見るとき、その中に私も含まれているのです。
さあ、素晴らしい練習を重ねてください。覚えていてね、あなた自身の麗しさを!いつもそれを覚えていてください。そこに意識を向けていてください。より有益で、精密に、愛を込めて脳の配線組み替えを続けていきましょう。私たちはよく頑張っていますよ!
明日も会えるのを楽しみにしています。
とっても素晴らしい1日を過ごしてね!
バ〜イ♪