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#161 キャロルさんの奇跡講座レッスン

奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖お手元にワークブックを準備してお聞き(お読み)ください♪

※奇跡講座ワークブック編 中央アート出版社を参照しています。

キャロルさんの奇跡講座レッスン161

元の講義はこちら→ https://youtu.be/swDV7-U9HsM


※今回、キャロルさんのコメントには訳出が難しいところがあちこちに多々ありましたが、162回も続けて来て、訳する際に私もだいぶ思い切りが良くなりました(良し悪しは別)!そして今日は私の業から来る思いに引きずられつつ、何とか抜けた感がある1日でした。
ではでは、どうぞ今日のレッスンをenjoy♪

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皆さんこんにちは♪
今日もいらしてくれて有難うございます。

レッスン161
聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。

今回はある特定の人に向けての練習となります。最初に、なぜそうなのか理由をお話ししましょう。

このレッスンでは練習として、あなたを何らかのやり方で不当に扱った人を一人選ぶよう、指示します。そしてその人があなたに与える祝福を持っていると言うのです。

その人があなたに対して言った言葉、とった行動によって、彼らが損なわれたということにはなりません。そしてもしその人が、その言動にも関わらずやはり神聖で素晴らしく、ひとつにつながっていて崇高なものであるなら、あなたもまた、そうであるということなのです。
それがこのレッスンが伝えたいことです。

私たちがたくさんの間違いをしたからといって、そして私たちが罪悪感や無価値感を持ったからといって、それで私たちの真実の姿が損なわれることは全くないのだと理解する手助けを、このレッスンはしているのです。

では、始めましょう!

「今日はこれまでと異なったやり方で練習し、自分の怒りに対して断固とした立場をとる。それによって、恐れが消え、愛に場所を空けるようになる。
今日は、救済が簡潔に表現されたこの言葉で、主題概念を練習する。

これが誘惑に対する答えであり、かつて恐れとは 怒りが蔓延っていたところに、間違いなくキリスト(愛)を迎え入れる。」

誘惑とは、幻想の中で見ているものを現実に生じさせようとする欲求です。

「こうして世界を安全に通り過ぎ、天国(すべてが統合された状態)が取り戻され、贖罪(我が家から離れたことはなかったという自覚)は完了する。

天国は壊れたことはなく、それが私たちの気づきの中に取り戻されるということです。そこに修正がなされるのです。

「ここに、神に代わって語る声の答えがある。完全な抽象性が、心の自然な状態である。」

抽象性とは、特定の物事と結びついていないことですね。

「しかし今は、心の一部が不自然になっている。その部分は、すべてのものをひとつと見ていない。その代わりに全一なるものの断片だけを見ている。それ以外に、今あなたが見ているような断片的な世界を作り上げることはできない。

『見る』という行為はすべて、自分の見たいと願うものを自分に見せることを目的としている。『聞く』という行為はすべて、あなたの心が聞きたがっている音を、あなたの心にもたらすだけである。」

分離した状態の中では、私たちは分離の状態を欲していると考えます。私たちは〈特別性〉を見たいと欲し、さまざまな別々の形態を見たいと欲し、その上でどうにかしてそれらを組み合わせて自分たちが幸せで安全になれるようにしたい、と考えます。

「こうして具体性のある個別のものが作られた。だから今、私たちの練習において、具体的なものを使わなければならない。私たちはそれらを聖霊に預ける。」

「聖霊に預ける」というとき、それは「完全に受け入れる」という意味です。なぜなら聖霊はあなたの中に存在していて、それはあなただからです。ですから、「何かを聖霊に預ける、明け渡す」という時、それをありのままに、ジャッジせず、排斥しようとせずに受け入れるということなんです。

「そうすれば、私たちが与えていた目的とは違った目的のために、聖霊がそれらを使えるようになる。しかし、聖霊が私たちに教えるために使えるのは、私たちが作り出したものだけである。それを使って、異なる視点から私たちに教え、私たちはすべてのものに異なる用途を見ることができるようになる。」

私たちの、自分の思い通りにしようという目的で作った個別の具体的な物事の代わりに、私たちが元通りになるため、兄弟たちとひとつになるためにそれらを用いるのを助けてくれるのです。

「一人の兄弟は全ての兄弟である。どの心もすべての心を含んでいる。どの心も一なるものだからである。これが真理である。

しかしこのような考えが、創造の意味を明らかにするだろうか。あなたはこのような言葉によって、完全に明瞭な理解を得られるだろうか。

それはただ空ろに響く音としか思えないはずである。聞こえはよく、感覚的には正しく感じられても、根本的には理解されず、理解不可能なのではないだろうか。

具体的な考え方をするように自らに教えた心は、もはや、全てを包含するという意味の抽象性を把握できない。だから私たちは多くを学ぶために、わずかなものを見ていく必要がある。

私たちには、肉体こそが自分の自由を制限し、苦しみをもたらし、最後には生命を消し去るもののように思える。しかし肉体とは、恐れに具体的な形を与える象徴に過ぎない。」

思い出してください。恐れとは、愛が欠如している状態のことでした。テキストは、私達が見ているものはすべて、私達の恐れと罪悪感が私たちに見える形になるように外側に現れたものだと説明しています。

「そうした無意味なものを表すことのできる象徴がなければ、恐れは反応を必要としない。」

象徴も肉体も持たない恐怖は、何の反応も求めないということですが、ちょっと想像してみてください。あなたが抽象的なものに恐れや不安を感じているとします。つまりそこには肉体も物もありません。あなたはどう反応するでしょうか?
もしそれが、どんな形態とも無関係の内面的経験だとしたら、反応すべき対象がありません。しかし、象徴/記号、つまりここでは主に肉体のことですが、私たちは肉体を無意味なものの象徴/記号にすることができるのです。5という数字は5つの物を表します。それは記号です。そして私たちは、何も表さない記号を作ることが出来るのです(笑)、だって、私たちは幻覚を見ているんですからね。

その一方で、
「愛は真実であるから象徴を必要としない」
喜びや安全、深い平安を感じることには、象徴/記号を必要としません。愛には具体性は要りません。

「だが恐れは虚偽であるので、具体的なものに付随する。肉体は攻撃するが、心は攻撃しない。」

私たちは他人の行動や言葉が私たちを攻撃していると見ますが、相手の心が私たちを攻撃しているのだとは思っていません。

「この考え方は、「テキスト」で何度も強調されていることに通じるものである。これこそが、肉体が恐れの象徴となりやすい理由である。
あなたは今までに何度も、肉体を超えたところを見るようにと促されてきたが、その理由は、目に見えている肉体は、愛の「敵」の象徴を提示するものであり、その象徴はキリストのビジョンに見えないものだからである。

肉体が攻撃の標的となっている。それは、誰も自分が心を憎んでいるとは思っていないからである。だが、肉体に攻撃するよう命じるのは、心である。」

前に話しましたが、肉体とは電話機のようなもので、コミュニケーションの装置です。それ自体はメッセージではなく、メッセージを伝える道具です。

「恐れについて考えている主体以外の何が、恐れの温床となり得るだろうか。」

肉体は恐れを作り出しません。肉体は自分がそうしていると考えていますが、実際は心の中にあるものを表現しているに過ぎません。

「憎しみは具体的なものである。そこには必ず攻撃の標的とされるものがなければならない」

そうね。その辺の空気を標的にできないものね(笑)

「敵は、触れたり見たり聞いたりできて、最終的には殺すこともできる形として知覚されなければならない。」

文字通り物理的でなくとも、自分の意識の中で、何らかの方法で最終的にそれを滅ぼす形で。

「憎しみが具体的なものに向けられている時には必ず死を要求するが、」

あなたは「私は本当に誰かを憎んでるわけじゃない、ただ好きじゃないだけ。」と言うかもしれません。でも、憎しみの程度は問題ではありません。どんなに綺麗な言葉を使おうが、憎しみは憎しみです。

「それと同じく確実に、神の声、聖霊は死は存在しないと宣言する。

恐れは貪欲で、目にするものを悉く食い尽くす。あらゆるものの中に自分自身を見るので、自分自身に襲いかかって破壊したくなるからである。」

鏡の例で話しましたね。私たちが外側に見るものは、私たちの内側で起こっていることなのです。ですから目が見ているものは、私たちが自分の内側で恐れているものなのです。

「兄弟を肉体と見なす者は、兄弟を恐れの象徴として見ている。そして彼は攻撃する。なぜなら、彼が見ているのは自分自身の恐れであり、」

何度も何度も繰り返しになりますが、この世界にあるものは全て、私たちの内面を外側に見ようとして映し出した鏡なのです。

「それが自分の外側にあって、攻撃の構えをとり、再び自分の一つになろうとして叫んでいるさまだからである。投影された恐れが次から次へと引き起こす怒りの激しさを見誤ってはならない。それは猛り狂って金切り声をあげ、自分を作り出した者に飛びかかり食い殺したいと思うあまり、狂ったように空中に爪を立てる。」

罪悪感による自己嫌悪は私たちを絶え間なく襲ってきます。私たちはいつも他人がやって来て私たちをやっつけようとしていると信じていますが、実際は、私たち自身が想像する恐怖が私たちを捕まえに来ているのです。

「このようなものを、肉体の目は兄弟の中に見ているが、その人は、天国が愛おしみ、天使が愛し、神が完璧に創造した者である。それが彼の実相である。だからキリストのビジョンにおいては、彼の麗しさはその足元に跪きたくなるほどに神聖にして美しい姿に映し出される。しかし彼をそのように見る視覚の中では、あなたも彼と同じ麗しき者であるから、あなたは跪く代わりに彼の手を取る。」

あなたが相手をどう見ているかは、あなたがあなた自身をどう見ているかと同じです。なぜなら、これはあなたの心の中で起きていることだからです。

「彼を攻撃することは、自分を敵とすることである。攻撃しているあなたは、彼の手の中に自分の救済があることを知覚しないからである。」

言い換えると、相手を攻撃することは、あなた自身を傷つけるということです。結局、負けるのはあなたなのです。

「彼に対し、ただ救済だけを求めなさい。そうすれば、彼はそれをあなたに与えるだろう。彼にあなたの恐れの象徴を求めてはならない。あなたは愛が愛自体を滅ぼすようにと要求したいのだろうか。それとも、愛があなたの前に顕現し、あなたを自由にしてくれることを望むのだろうか。

今日、私たちは以前にも行った形で練習する。」

見ての通り、レッスンは何度も何度も繰り返し、私たちの注意をひいて、私たちが心を入れ替えるよう試みています。

「今では、あなたにはさらに準備が整ってきたので、今日はキリストのビジョンにさらに近づくだろう。それに到達することに専念するなら、今日あなたは成功する。そしてひとたびそれに成功したら、自分の肉体の目が見せる証拠(恐怖、攻撃、醜さ、そして分離、憎しみ)を受け入れることをよしとしなくなるだろう。

あなたの見るものが、あなたがいずれ思い出すことになる往古の旋律を奏でてくれるだろう。

天国はあなたを忘れてはいない。」

あなたは〈全一〉から忘れられていません。取り残されてもいません。そしてレッスンは、それを思い出す選択をしてほしい、と願っているのです。

「あなたは天国を思い出したくないだろうか。
一人の兄弟を、他の兄弟たちの象徴として選び、その人に向かって救済を求めなさい。まず、できる限りはっきりと、あなたが見慣れている姿でその人を思い描く。その人の顔や手足、服装を見る。その人が微笑むのを見つめ、その人のいつものしぐさを眺める。

その後、次のように考える。
『あなたが今見ているものは、あなたの罪を全て赦せる人の姿をあなたから隠している。
その人の神聖な手が、あなたの手に打ち込まれた釘を抜き取り、あなたの血まみれの額から、あなた自身が被せた茨の冠を取り外すことができる』と。

その人があなたを自由にしてくれるように、次のように頼みなさい。

聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。私はあなたをキリストの眼差しで見て、あなたの中に私自身の完璧な無罪性を見たいのです」

〈鏡よ、鏡、鏡さん。〉
このレッスンの冒頭に述べたことを、もう一度繰り返して言いますね。
私たちがある人から祝福を願う時、言葉に出さずに「私に祝福を与えてください」と述べます。そして、その人の言動に関わらず、その人が与えるための祝福を持つとするなら、私たちもまた、与えるべき祝福を持っているということ。

だから、あなたがどんなにその人の言動が問題だと感じていようとも、その人が祝福を持っているとすれば、同じことがあなたにとっても当てはまるのです。まったく、有り難いことと言えます!

「そうすれば、あなたが呼びかけた相手であるキリストが答えてくれるだろう。キリストはあなたの中の神に代わって語る声を聞き、あなた自身の声で答えるからである。」

愛が、あなたの中の聖霊の声を聞き、答えてくれます。

「あなたが今まで単なる肉と骨のかたまりだと見ていた兄弟を、今、よく見てみなさい。そしてキリストがあなたの元に来たことを認識しなさい。」

肉と骨の塊と言っていますが、それはあなたの気に入らないことを沢山やってくれる肉と骨ね!

「今日の主題概念は、あなたにとって怒りや恐れからの安全な脱出法である。」

私たちが今まで採用して来たやり方より、はるかに安全な脱出法です。自分の怒りや恐れを外に投影して、自分にはそれが無いようなフリをしてきたけれど、それによって事態はさらに悪くなるばかりでした。ですからこれは、あなたの偽りの脱出法に取って代わる安全な方法となります。

「兄弟を攻撃しそうになったり、彼らの中に自分の恐れの象徴を知覚してしまいそうになったら、必ずただちにこの概念を使うようにしよう。」

兄弟を不当な扱いのシンボルにしないこと。

「そうすればあなたは、彼が瞬く間に敵から救済者へ、悪魔からキリストへと変容するのを見るだろう。」

全てのレッスンと同様、とても大事なレッスンです。楽しんで練習してくれるといいわね!
また明日会いましょう。
バ〜イ♪


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