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とうもろこしと記憶

フルーツコーンなるものを頂いた。
フルーツのように甘く、生のまま食べられるというトウモロコシ。

ひげがついたその穂は美しい緑色のグラデーションをしていて、皮を一枚一枚剥いていきながら(わあ、きれいね。美しいね!)と、とうもろこしに向かって心の中で語りかけていたら、やがて中からぴかぴかの白っぽい粒々がぎっしり詰まった実が現れた。

その実と出会った瞬間、彼(なぜか男のような気がした)の記憶の奥の奥にある、彼の祖先の記憶と瞬時につながってしまった。メキシコの土地で生まれた古い古い起源、とうもろこしの神のような。みなもと。

きっと私がその美しさへの素朴な畏敬のきもちを持って触れたから、彼は心を開いて私に見せてくれたのだと思う。いや、たぶん、こちらが心を全開にしていれば、こんなものは秘密でもなんでもなく、いつだって繋がれるのかも。私たちの祖先はそうやって自然の様々な存在の中の神を当たり前に感じとっていたのかも。


その存在の源に出会うということは、私自身の遺伝子の中の古い古い記憶を思い出すことでもある。きっと私の中にはマヤの土地でいただいた肉体だった時の記憶が遺伝子の中に組み込まれている。私は約10年前にやはりメキシコの小さな名前も知らない町を通り過ぎた時のある光景、ある出会いがあった場所に瞬時に引き戻された。とうもろこしの瑞々しく爽やかな甘さを味わいながら、私の意識はあの時のバスから見た光景、名も知らない、目的地に向かう途中でちょっと立ち寄った町で歩いた時に足の裏に感じた道路の固さ、埃っぽい乾いた空気、気怠い昼下がりに休憩中のタクシー運転手たちが道端でカードゲームに興じている傍を通りかかった時に嗅いだタバコの煙、コーラの香り。その全てに、今この瞬間、取り囲まれていた。


その町を歩きながら、私は妙な気がしていた。懐かしい。重苦しい、でも不快ではない、よく知っているこの空気。そして誰かがずっとこちらを見ている、視線。誰だろう?不思議に感じていた時に、あっ!と理解した。


その町の大通り(といっても、小さな町なので目抜き通りと言ってもささやかなもの)に並ぶ建物は、どれも17世紀を思わせるスペイン様式の建築で、きっとここは昔、スペイン人がこの土地を征服した後に現地の人々を殺しながら建てた町だったのだろう。その石の建造物は今もこうして残っているけれど、それらの古い建物や道のあちこちの石を突き破って根を張り枝を伸ばしていたのは、ガジュマル達だった。この土地に昔からいるガジュマル達が、征服者の暴力によって数百年前にこの土地の様相をすっかり変えてしまった建造物群を今や打ち壊さんばかりに、あちこちのひび割れから暴力的といっても良いくらいに力強く生えて勢力を増してきていたのだ。


私が嗅いでいたのは血の匂い。この土地で生まれ育まれた人々が、よそからやって来た者たちの圧倒的暴力によって虐殺されてゆく、その血が染み込んだ土の匂い、空気の匂い。ガジュマルは見ていた、そしてかつてこの土地に生きて死んでいった人々の血が染み込んだ土の中にその根を伸ばして、記憶を吸い取って、時間をかけて枝葉を伸ばし、そうして征服者たちが我が物顔で作って建てた石の建造物を、今こうしてゆっくりと破壊しつつあったのだ。


そしてガジュマルは私を知っていた。私はその時はっきりと知った。世界中のガジュマルは1つの集合体の意識の中でつながっていて、私が沖縄の地でガジュマルと築いているつながりをこの土地のガジュマルも知っていること、幼いときに、私がほんとうにガジュマルを「見た」、そのことをガジュマル達は知っていること。忘れないこと。つながりができてしまっていること、忘れないこと。


そしてこの町に不思議な懐かしさを感じたのは、私が生まれ育った土地がやはり征服者達によって蹂躙され暴力的に流された血が染み込んでいる、そのことを土地が、木々が、記憶していて、その中でこの私という肉体が作られてきたから。この一回きりの生を生きる私という「個人」が直接経験していなくても、私という「人」はもう知っていたのだ。私たちは記憶の海の中を泳いでいて、記憶の中で出会っている。


何も忘れ去られることはないし、そしていつも「見られて」いる。



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pink cashmere
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