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禅僧の言葉⑤~道元禅師語録

道元禅師語録

一、眼横鼻直

 人は如何に生きるべきであるか、という問いに対して、あらゆる常識の答へる答は、正しい思想によって正しく生きるべきであるというにあろう。
 ところが禅家は、その思想なるものを否定する。思想というものがそもそも迷いであると彼は言うのである。その汝の思想を一擲(いってき)し去ってはじめて道の何たるかを知り得ると彼は言うのである。
 ではその道なるものは何であるか、私たちはこの問題を道元禅師の有名な眼横鼻直の提唱の中にこれを聞こう。

  山僧業林を歴ること多からず、只是れ等閑に天童先師に見えて当下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞せられず、便乃ち空手にして郷に還る。所外に一毫も仏法なく、任運に且らく(しばらく)時を延ぶ。朝々日は東より出で、夜々月は西に沈む。雲散って山骨はれ、雨過ぎて四山低し。畢竟如何、良久して云く、三年には一閏に逢う、鶏は五更に向かって鳴く。
久立下座

 この語は道元禅師が宇治の興聖禅寺においてはじめて開口された開宗第一声である。したがってその語気において、まことに颯爽たるものを感せずには居れぬ。

 さて、語の表面的意味のみを、現代語に訳してこれを見るならば、
 拙僧は仏道の道場を遍歴したことは多くない。只、偶然に支那天童山の如浮禅師の会下に参じて、そこですぐさま、眼横鼻直、則ち眼は横に切れており鼻は真直ぐについているということを、はっきり認得したおかげで爾来他人の言説思想に騙されないようになっただけである。
 則ち空手で日本に帰って来たわけだ。だから拙僧には一毫も所謂仏法というものはなく帰来しばらく運に任せて時を過ごしているわけである。
 見るがいい、毎朝太陽は東から出て、夜夜月西にしずんでゆく。雲が散るというと山の骨が現れ、雨が過ぎるというと四方の山が低く見える。畢竟どうだ。(それからしばらく黙っていてさて言うのに三年目には一度閏月に逢うし鶏は毎朝五更(※)の天に向かってコケッコッコーと啼く。(またしばらく立っていて座を下られた)

 というのである。
 ところでこれはどういう意味であろうか。ここで問題になるのは眼横鼻直の語である。

 道元禅師は天童山で如浮禅師に相見して、はじめて眼横鼻直ということを認得されたという。眼が横に切れていて鼻が真直ぐについているということを支那まで行って知って来られたというのは、まことに愚かなことであるように思われる。
 そう考えてゆくと朝々太陽が東からのぼるのも夜々月が西に沈むのも、雲が散ると山の骨があらわれるのも、雨が過ぎると四方の山が低く見えるのも、三年目にいっぺん閏年があるというのも、鶏が東天に向かってコケッコッコーと啼くのも、すべてみな眼横鼻直的な当然事であって、何一つ変哲ないことばかりではないか。
 この何一つ変哲もない当然事を道元禅師は開宗第一声として揚げられたのである。そもそもこれは何の意味であろう。凡見から見ると全く何のことかわからない。人を馬鹿にした宣言のように見える。しかし事実はそうではない。ここに偉大な真理が道破されているのである。
 
さて問題は眼横鼻直にもどす。道元禅師の言われる眼横鼻直とは如何なることか。

 それは文字通り字義通りで、眼は横に切れて鼻は真直ぐについているということである。これを認められたというのであるが、それなら誰でもがこれを認めているではないか。それとこれと、どう違うのであるか。

 それが事実は、その内容がまるで違うのである。我々もそれを認めていると思っている。しかし我々は実はそれを認めていないのである。普段は漫然とそう思っているが、さて一朝事があると眼が縦について見え、鼻が横について見えるのである。杉の木が松の木に見え、魚が鳥に見え、善人が悪人に見え、凡愚が大人物に見え、人格者が好者に見え、好者が大忠臣に見えるのである。

 ありのままの現実がありのままに見える、ということは大変なことなのである。人間が迷いの中にいるとこの現実が現実のままに見えない、また現実のままに見ない、また現実のままに見たがらない、そこに奇蹟を欲し神通力の存在を信じたがるのである。
道元禅師は天童山の如浄禅師に参じてこの迷夢を一掃された。現実を現実のままにそこに実相を見られたのである。

 さて現実を現実のままに見る、と言っても、その現実は、我々が今見ているような自然科学的現象としての現実ではない。ここで眼横鼻直も問題が難しくなって来る。
 現実を現実のままにと言っても自然科学者が自然現象を見るようにこれを見、これを認得することではない。
 道元禅師の眼横鼻直は、この世界なるものを真如のあらわれとして見る立場からこれを見られたのである。
 眼横鼻直のそれを真如の厳然たるあらわれとして見るのである。そのあらわれはこちらの都合によってどうにでも出来るようなあらわれではない。そのあらわれこそが真如そのものなのである。

 既に眼鼻が真如のあらわれである。太陽も月も山河も大地も鶏も悉く真如の厳然たるあらわれである。しかもそのあらわれたるそのものが真如であるだけでなく、そのあらわれることが即ち真如そのものであることを知らねばならぬ。

 朝々太陽が東から出る、それが真如の厳然たるあらわれである。夜々月が西に沈む、それがまた真如の厳然たるあらわれである。雲散って山骨あらわれれるのも、雨過ぎて四方の山の低く見えるのも、三年に一閏に逢うのも、鶏が五更に向かって啼くのも、悉くこれ厳然たる真如のあらわれにあらざるものなしである。

 しかもこの世界なるものが、真如のあらわれそのものであることを認得したならば、既にそこに仏道が現成しているのであり、われ仏と一体になっているのである。

 この境地を道元禅師の師如浄禅師は心身脱落、脱落身心と言っておられる。因に道元禅師が大悟了畢竟されたのは、如浄禅師から「参禅はよろしく心身脱落なるべし」と聞かれたによってであった。

 心身脱落とは心も身も悉く脱落してしまって、我的なものが何ものもなくなってしまって、天地と自分とが一体になってしまった世界である。天地即自分、自分即天地となったのである。吹く風も流る雲もそよぐ草木も渓声も山麓も、悉くそのままにしてわれと一体である、このような世界を心身脱落、脱落身心というのである。

 この時そこにあらわれている山河大地万象森羅はそのままにして真如の荘厳を現じているのである。

 そして仏法というのはこの他に何ものもあるのであない。この世界を体得するこのことが仏道の体得である。道元禅師はこの故に、眼横鼻直の認得において、既に仏道を体得されたのである。その体得の上に、さらに何の仏道があろうか。

 然るに禅師はこの時「故に一毫の仏法なし」と言っておられるが、それはどういう意味か、これは当時の学問仏教、即ち経師論師等の仏教に対して言われた逆説である。経師論師等のいわゆる仏法はだから拙僧は一毫ももっていないと言われたのである。直指単伝即心是仏の大施をここにあげられたのである。

 禅師のこの認識とこの態度とは、まことに千載に堂々たるものと言わねばならぬ。爾来禅家は禅師の流れを汲むと否とに拘わらず、この態度、思想的に人生及び世界を見ないで世界の実体に直接にとび込んでそこに道現成としてわれを生きるという態度をとって来ているのであるが、しかもこれが日本における最初の宣言はこの禅師の語であることを知らねばならぬ。

 なおついでながら言いたい。

 今日なお一般の人々に禅のわからないのはここの問題である。それらの人々は禅を思想であると思っているのである。禅は思想ではない。反対ではない。反対に思想を脱落してしまって、思想というような「私」のもっているその迷いを棄て去ってしまって、この世界の実態と一体になり世界自体になってしまって、この私を生きるの道である。老子はここのところを無為に生きると言っている。無のはたらきのままにこの私を生きるのである。無がすべてのものを生み出している。この世界は一瞬といえども同一状態にはおらず、たえず一方では新現象を生み出し一方ではその生み出されたものを死なしめているが、われらはその無のはたらきのままにこの私を生きてゆく、わが前にあらわれる新しい現象をつねにそのままに認めてそこにこの私を生きてゆく、そしてそこには斯くしたいという何の考えも自分にない、これが老子の言うほんとうに正しい生き方であるが、しかもこれは一毫仏法に生きる眼横鼻直の道元禅師の仏道と異なるところのものではない。共に思想という迷いを棄て去ってこの世界の実体と一如となって生きる生き方である。然もこのような生き方こそは、禅道と老子の道とだけの生き方ではない。実は日本古来の惟神の道と言われるものも亦この生き方、この認得以外にはないのである。

※五更…およそ現在の午前3時から午前5時、または午前4時から午前6時

                  (〈二、行の人生的意義〉へ続く)

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