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#152 キャロルさんの奇跡講座レッスン

奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖お手元にワークブックを準備してお聞き(お読み)ください♪

※奇跡講座ワークブック編 中央アート出版社を参照しています。

キャロルさんの奇跡講座レッスン152

元の講義はこちら→ https://youtu.be/sZnb9T1Ma_0


ハーイ皆さん、ようこそ!
レッスン152

「決断の力は私にある」

これは非常にパワフルで、身に迫る、率直で、疑念を挟む余地のない、断固とした主張ですね!覚悟しなきゃ!(笑!)
でも安心してね、これは全部本当のことですから。

「自分の決断に依らない限り、誰も損失を被ることはあり得ない。苦痛を被ることを自ら選択しない限り、誰も苦痛に苦しむことはない。悲嘆に暮れたり、恐れたり、自分が病気だと考えたりするといった成り行きを、自ら欲しない限り、誰にもそうした状況がもたらされることはない。

そして、誰も自分自身の承諾なしに死ぬこともない。

あなたの身に起こることで、あなたの願望を表していないものは一つもなく、あなたが選んだとので、そこから省かれるものも一つもない、

ここに、細部にわたって完結したあなたの世界がある。これがあなたにとっての現実の全体像である。そして、救済が存在するところはここだけである。」

これまでに何度も、この世界は私たちの心の状態をそっくりそのまま細部に至るまで反映していると、お話してきました。他の誰かの心の状態ではありませんよ、自分の心の状態が自分自身に対して露わになっているんです。 

レッスンはここで、私たちがそれに完全な責任を持つようにと述べています。私たちはどうやら、そんなはずはないと感じていますが、全部の責任は私たちのものです。
そしてまた同時にレッスンは、私たちは完全に安全であるとも伝えているのです。「すべての決断は自分自身にある」と受け入れ、心を入れ替えて不平と非難を手放せば、完全な豊かさと完全な平安は私たちのものだというのです。

ね?言ったでしょ?これはホントにきっぱりと明確なレッスンなのよ。

さて「このような見解は極端で、あまりに包括的すぎて真実であるはずはないと、あなたは思うかもしれない。だが、真理に例外があり得るだろうか。」

半分だけ目覚めて、半分は眠り込んでいる、なんてあり得ないのです。

「あなたが実在するすべてという贈り物をもらっているのなら(そして実際もらっています)、損失というものが実在できるだろうか。」

NOですね。

「苦痛が平安の一部であったり、悲嘆が喜びの一部であったりするだろうか。」

誰かこの中で、悲嘆を経験したことがある人は?
きっと皆あるわよね。
じゃあ、悲嘆と喜びを混同することなんてあり得ないと知っていますね。

「愛と喜びと完璧な聖性が宿る心の中に、恐れや病気が入り込むことなどできるだろうか。」

あり得ませんね!

「真理は、いやしくも真理であるなら、全てを包括するものでなければならない。」

あなたは幻覚を見ているか、そうでないかのどちらかです。

だから「対極や例外を受け入れてはならない。そうすることは、全面的に真理を否定することだからである。」

そう、それは全くの的外れということになりますから。

「救済とは、『真理は真実であり、それ以外に真実なるものはない』という認識である。」

神が創造したものが真実であり、私たちの見ている幻覚は、違います。

「あなたはこのことを既に聞いたことがあるがらまだこの文の前半と後半の両方を受け入れてはいないかもしれない。

前半がなければ、後半は無意味である。しかし、後半がなければ、前半はもはや真実ではなくなる。真理に対極はあり得ない。

この点については何度でも繰り返し語り、繰り返し考えなければならない。なぜなら、もしも真理でないものが真理と同じように真実であるというならば、真理の一部が偽りだということになるからである。」

つまり私たちのこの世界が真理だというならば、私たちは何が真理なのか理解できなくなってしまっているということ。

「そうすると真理はその意味を失ってしまう。真理をおいてほかに真実なるものはなく、偽りはあくまでも偽りである。」

幻覚は真理になるはずがなく、真理は絶対的に真理だと認識できるもの。この二つを混ぜ合わせることはできません。

「これは最も単純な区別であるが、最も見分けにくいものである。」

なぜ見分けにくいんでしょう?

「しかしその理由は、その区別を知覚することが難しいからではない。その区別が数多の選択の背後に隠されており、しかもそうした選択は自分自身が下しているもののようには見えないからである。そうして、真理には一貫性に欠ける側面があるかのように見える。しかもそれらは、あなた自身が持ち込んだ矛盾のようには見えない。

神があなたを創造した通りに、あなたは不変であり続ける。移り変わる状態というのは、言葉の定義からして当然、虚偽を意味する。気持ちの移り変わりのすべて、肉体と心の状態の変化、自覚や反応における変化のすべてが、それに当てはまる。これが真理の全的包括性であり、それが真理を虚偽から切り離し、偽りを真理から分離させておき、真理を真理たらしめる。」

ですから、あなたの中で何かが変わるということは、不可能です。

ならば「あなたは自分が見ているこの世界を自分で作り出したと考えることは傲慢だと信じているが、それこそおかしなことではないだろうか。」

さて、これを聞いてください。

「神はこの世界を作ってはいない。」

何ですって?
「神はこの世界を作ってはいない」?
いないんです。全然。

「束の間の幻の世界、罪深い者、有罪な者、恐れる者、苦しむ者や孤独な者、死すべき肉体の中に宿る心などについて、神は知ることはできない。
あなたはこのようなものが実在するかに見える世界を(『見える』と言っている点に注目)神が作り出しだと考え、神の狂気を責めている。神は狂ってはいない。しかし、このような世界を作り出すのは、狂気だけである。」

このレッスンが、私たちの深い罪悪感や不安、恐れがこの世界の狂気の元となっているのだと伝えていることの重大性を、よくよく理解してください。あなたに自覚がないからと言って、それが存在しなくなるわけではありません。

大事なのは、このコースの目的は、あなたにそれに気づかせ、それを手放せるようにする点にあるということです。

では続けましょう!

「神が混沌を作り出し、ご自身の意志を否定し、真理の対極を作り上げ、生命に勝利する死を黙認すると考えるなら、それこそが傲慢である。謙虚であれば、こうしたものが神からのものではないことはすぐにわかる。」

それらは愛ではないので神のものではありません。愛そのものの存在が、そんなものを創ることは全くあり得ません。

「あなたには神が創造しなかったものが見えるのだろうか?
見えると思うなら、神が意志しなかったものを自分が知覚できると、あなたが信じているというだけのことである。そして、これ以上に傲慢なことがあるだろうか。」

そしてレッスンはこのように私たちに頼んでいるのです。

「今日、真に謙虚になって、自分で作り出したものは自分で作り出したものとして受け入れてください。」と。

「受け入れて、決めてください」「受け入れて、決めてください」「決めて、受け入れてください」と、何度もコースでは呼びかけています。このレッスンも、そのひとつです。

「自分で作り出したものは自分で作り出したものとして受け入れてください。」
私たちが狂気を生み出しました。罪悪感に駆られて罪悪感を作り出しました。

「決断の力は私たちにある。宇宙の共同創造者としての自分の正当な立場をただ受け入れようと、決断しなさい。」

私たちが意識を向けるものが現象として現れるんでしたね。

「そうすれば、あなたが自分で作り出しだと思っているものは、すべて消滅する。
そのとき、あなたの自覚によみがえるのは、これまでも、今も、永遠に実在し続けているすべてである。そしてそれは、父と子に捧げられた祭壇を横領するだけのために作り出された自己欺瞞、エゴのプログラムと入れ替わるだろう。

今日、私たちは真の謙虚さを練習する。謙虚さを傲慢であると証明しようとして、自我が用いている、この狂った偽装を放棄する練習である。」

エゴは自分たちにはこんなパワーがあると言い張る狂気があるんです。

実際、「エゴだけが傲慢になれる。しかし真理は謙虚であり、自らの強さと不変性と永遠なる全一性を、神から神の愛し子(つまりすべてのクリエイション、私たちがそれです)への完璧な贈り物と認めることができる。
自分は犯した罪に怯える罪人であり、自分の本性を恥じていると語る傲慢さを、私たちは脇に置く。
そして真に謙虚になって、ハートを神に向けよう。神は私たちをら一点の穢れもなく清らかなもの、自身と同じ愛と力を備えたものとして創造している。

決断の力は私たちにある。」

覚えていますか?いくつか前のレッスンで、私たちには二つの選択肢があると教わりました。二つの選択の間で行きつ戻りつ迷うのはやめて、どちらかに決めなくてはいけません。
さあ、その決断を今しましょう。

「だから私たちは、本来の私たちを神から受け入れ、謙虚に神の子を認識する。
神の子(私たちのこと)を認識するということは、さらに、すべての自己概念(エゴによるセルフ・プログラミング)が放棄され、それらが偽りだと認識されたという意味でもある。

そこでは、そのような概念の傲慢さが知覚されている。謙虚さの中では、私たちの輝き、その優しさ、完璧な無罪性、父の愛、天国への権利、地獄からの解放が、私たちのものとして喜んで受け入れられている。

今、私たちは、虚言は偽りであり、私たちは愛であり、罪はないという真理だけが真実だという喜ばしい認識をともにする。」

朝、目覚めたなら、この真理だけを想い、次の言葉で私たちの怯えた心を励ましながら、5分間、真理の道を練習する。


決断の力は私にある。今日こそ私は、父の意志が創造したままに存在し、そして今も創造され続ける私自身を受け入れる。

「され続ける」と、現在形にしましょう。

「それから私たちは静かに待つ。すべての自己欺瞞を手放して、私たちの自己/聖霊が私たちにその姿を現してくれるようにと謙虚に求める。そうすれば、本当は私たちから一度も去ったことのない自己/聖霊が、再び私たちの自覚に戻ってくる。

そしてその自己/聖霊は、感謝とともに、自らの家を本来意図されていた通りにのもとに戻す。

1日を通して、辛抱強くを待ちなさい。
1日の始めに用いたのと同じ言葉で1時間毎にを招き、1日の終わりにも同じようにする。

に代わって語るが答えてくれるだろう。
聖霊はあなたとあなたののために語るからである。

聖霊は、あなたの目まぐるしい思考をすべての平安に入れ替え、自己欺瞞をの真理に、そしてあなた自身についてのあなたの幻想を神の子に、入れ替えてくれるだろう。

とってもパワフルでまっすぐな、誤解の余地のないレッスンです。

素晴らしい練習の日にしてください。
ではまた♪


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