記憶の行方#昨日の夜明け
何をどう書けばよいのか、まだ、言葉を探している。
1度聴いて、また、聴きたいと思う演奏と、一度でいいと思える演奏の違いは何か、考えていた。
その日は、雨はいつ振り出すかわからないような空でした。マズルカに描かれた風景は、土の景色だろうな、ポーランドにも草花は咲く。農地に咲くのは、草花だろうと、植物や花は、言語をこえて、通じるだろうか、と、ボタニカルな着てみたい服を着て、折りたたみ傘を持ち歩いていた。止まったような風と蒸し暑さで、車内と窓は結露してきた。久々に乗った電車の中でわたしも汗をかいていた。どうやら、台風が来ているらしい。
電車の中では、先輩社員が新入社員へ気遣う会話をしており、ああ、平日なんだと実感していた。
先日、新しい何かが始まるキーマンに会ったような気がして、一仕事終えた気分になっていた。ようやく安心感を得て、たまのお休みをいただいていた。電車は、大幅に遅れていた。
ホームに降り立つと、急に燦々と降る雨の音が、耳に心地よかった。あるメロディーを思い浮かべていた。電車の発着音に月をイメージするメロディーが流れていた。中秋の名月が近いからでしょうか。
移動中、ホールに入るまでに見知らぬ方に4回ほど声をかけられた。会場に入ってからも、並んだ列の隣の方に声をかけられ、同じ方向へ向かう方と一体感を感じていた。
改札を出るとホールまでは、屋根があり、雨には濡れないで済むはずが、ホールを目の前に、用意したミニタオルは、すでに湿っぽく、一息つきたいと、喫茶店に入ったはいいが、満席。ホールとは、反対方向にある喫茶店に行くまでにさらに雨に降られ、用意した傘は頭を濡らさない程度で、足元はさらに冷たくなった。湿っぽさを払拭したく、アイスコーヒーを飲んでいた。10分ほど、汗と湿気を拭い、会場10分前に入るとロビーには、パールをあしらった王冠のような照明がお出迎え、すでに、期待高まった人が集まっていた。会場入り口には、路上オルガンがあり、ヨーロッパの風をほんの少し感じていた。階段の踊り場に1985年製の2メートルほどの高さの時計があった。音も無く時計の針は、まわっていた。ホールは、クラシックコンサートを行うことを想定して作られており、日本の湿度の高さを抑えるような硬質感のある音は、よく合いそうだな、と思った。会場入り口と3階のギャラリーには、油絵が何点か展示されており、風景画を眺めて、緊張をほぐしていた。ギャラリー周辺にも、「その時」を待っている観客が立ったり座ったりしていた。
コンクールには、続きがあるんだな、と、思った。誰しもその続きを待っているようだった。
個人的に、映画やツアーの初日は、お祝いのため、出席したいと思っている。
序曲は、バツェヴィチの《オーケストラのための序曲》
静かに、ふと、呼吸するような、始まりの予感と緊張感が漂い、高揚感を抑えた硬質な響きでした。席によって、響きは違うのだろうが、なぜかタイムスリップしたようにショパンの生きた時代の響きを想像していた。
そして、
ショパンのピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11
2日たっても、よくわからないでいる。ショパンが見た夢の続きがまだあったんだと、ショパンを知る入り口にようやく立つことができた。そんな悦びがまだ続いている。執着のような、どうにも変え難い過去のことから解き放たれるような、しかし、ようやくたどり着いた。そんな感じもした。
熱量を帯びたタクトと眼差し、指揮者の偉大さを知った。
一音、一音を逃さず、受け止めていた。炎を囲むように、あたたかく。
おめでとう!New birth!そんな拍手が鳴り止まず、帰れないな、そんな気持ちが溢れていた。
アンコールの観客のハンドクラップスは、指揮に導かれるように大きくなったり、小さくなったり、音楽を、今日の時間を、愉しむことを待っていた観客の気持ちが伝わった。
コンサート後の一抹の寂しさはなく、なぜか、また、この音楽に再会したいと思った。それは、初めて見た背中と変わらないしゃんとした背中で弾いていたからだと思う。
目があまりにも見えていないので、表情がほとんど見えていないのですが、眼光の輝きがほんの少し見えた。
戻るべき所に戻った。そんな決意と覚悟、自信すら見えた。
変化は、なんだろうと、今日もわからなさを解きたく、言葉を探していた。言葉にすることが、大事なことか、戸惑いもある。
明らかに、演奏は、大きく変わっていた。その試みは、一音足りとも逃さず聴いていたいと思った。
しゃんとした背中、肩の無駄な力が抜けたな、と、座った姿勢を見ていて、思った。今を響かせる音について、試行錯誤した現在の音。2週間ほど前に、一音一音確かめるようにゆっくりとしたテンポで練習している様子をラボで公開されており、その試みから、明らかに変化している。
コンクールでは、どのように変わっていくのか、聴いていて、思っていた。今回もそうだ。
そして、素晴らしいリスタート。ワールドツアーは、始まっている。その時を待っていた。
フリーで配布された大阪公演の録音のお知らせと「追憶」や「胎動」を聴けるサイトにとべるQRコード入りフライヤーには、指揮のマリン・オルソップさんと一緒の写真が載っている。その姿勢は、両膝を折り曲げ、ちょうど、両手を合わせ、足裏を少し合わせて、羊水の中で、誕生を待つこどものようです。
親子3世代で聴きに来ている方がいらっしゃり、演奏後に、おばあちゃまに、階段は、この手すりを使って行こう!と、お孫さんが提案していて、ほっとした。エレベーターを使えば、補助となるわけでは、ないんだな、と支援について考えさせられた。同じ階段を同じ道を歩き、幅広い年齢層の観客と過ごしたその時間に多幸感を感じていた。家族でクラシックコンサートって、よいなぁと思った。わたしもいつか、3世代で聴きに来られる日が来て欲しいと願った。
曲は、奏でる人や聴く人が変わればいつも新しい音楽として聴こえてしまう。だから、音楽が古びてしまうことはなく、常に新しい音楽として再生されるものになるのだと思う。
湿度の高い日本の雨の景色に、ヨーロッパの水のの辺りや川の流れを感じさせ、さらっとした風が舞い込んだようだった。一音の響きを、より軽く、音を羽ばたかせていくように、ふわふわっととんで、少しずつ変わっていく。
夢の続きは、まだ、始まったばかりだ。
明日は、大阪のシンフォニーホールでライブレコーディングされるそう。
会場限定のツアーパンフレットは、A4サイズだっため、手持ちのバッグには入らず、敢えて見せて持ち歩いて帰った。
ふと、昨年行われたショパン国際ピアノコンクールを思い出していた。
コンクールには、続きがあると思う。
ショパンに挑むのがコンクールで、ショパンをいつくしむことはコンクールが終わっても続けられることではないかな、と、思う。
自宅のリビングにあるピアノの譜面台にのせたバッハとショパンの譜面を見ていて、音楽家は、スコアで音楽を描いているんだよ、と、子が言うので、譜面を見つめていた。たしかに、ちょうど、音の波形みたいだな。と、見て思っていた。
いつか、子も一緒に会場で聴けたらよいなと思う。
ポーランド国立放送交響楽団のジャパンツアーが始まっている。
プログラムは2パターンあり、どちらも音楽の時間に一度は鑑賞したことのある親しみやすい曲ではないかなと思う。
Aプログラム では、
■ブラームス交響曲 第1番ハ短調 作品68
Bプログラム では、
■ドボルザーク
交響曲 第9番ホ短調 《新世界より》
作品95 B.178
どちらも共通のプログラムは、
■バツェヴィチ《オーケストラのための序曲》
■ショパン
ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 作品11
角野隼斗(ピアノ)
アンコールは会場により、違うはずなので、行った方のお楽しみ。会場でしか、味わえない、楽しみもあるものです。写真はツアーパンフの裏表紙より。秋色ですね。曲にまつわること、など、読み応えのある内容でした。会場でどうぞご覧ください。