ショパン国際ピアノコンクールを観ていて思うこと
5年に一度のショパンコンクールは、2020年に行われる予定でしたが、このご時世のため2021年に行われている。
毎日、ショパンに恋焦がれて寝不足の日々。
ショパンもよくここまで愛されたもので、毎日、ショパンの曲を弾いている人がいる。
ポーランドまで、このご時世に、さあ、どうやって行く?と考えていたら、今年は、ライブ配信で聴くことができる。
自宅でスピーカーを使っているわけではないにも関わらず、美しい音を聴くことができる。コンクールですから、うまい人しかいない。類い稀な演奏技術を持ち、そこで、競われるものって何なのだろう。
ショパンのピアノを弾いてうまいね。ということでしたら、コンクールに出ていなくてもうまい演奏者はいらっしゃる。
審査員を魅了するほど、ショパンに恋をしていることを、表現できたら、勝ちってことになるのかしら。
ショパンコンクールは、ポーランドで行われているため、日本との時差は7時間、7時間の時間が遡るような気分で、聴いてるが、毎朝、寝不足な割には、幸せな朝です。7時間遡って、7時間を聴き過ごして、なぜか、ポーランドと日本を行ったり来たりの14時間を旅した気分で朝を迎える。
ショパンは、内向的な人であったと作った曲から感じられますが、実際は、とんがったところもあったのではないかなぁと思う。でないと、きっと、ジョルジュ・サンドと恋に落ちないでしょう。肖像画から指が長き人、と、想像がつき、譜面を見る限り、手が大きい人だったはず。数式も共通言語で、譜面も言葉の障壁のない言語かなぁと思う。ショパンには会ったことはないけれど、何を伝えたかったのか、譜面から読み取ろうとしてみる。
今朝は、マズルカの譜面を眺めていました。マズルカは、難解だと思っていたのですが、今回のコンクールで聴いていて、マズルカの56番のNo.3が好きになりました。24番と25番は何回も聴いているので、譜面の解釈を聴き比べて、何が違うのか、何がベターか考えていた。
テンポルバートが印象的に曲は、内省に響く。体の中心に響かせるようなイメージ。
「こんな曲を作ってみたよ、聴いてよ」まるで、誰かに書いた手紙のようです。
ワルツは、ソーシャルダンスで優雅なダンスをイメージしますが、マズルカは、土を感じる踊りだなあと思う。どちらがいいかと比較する話ではなく、その日の天気や気分で好きなものは、違う。
可愛らしい。こどもや動物、大人もご挨拶して輪になって踊る、その輪の外でショパンはピアノを弾いており、彼はいつも踊りの輪には入って踊れなかった人ではないかと思う。
マズルカNo.56は、1843年、ショパンの弟子で友人の一人キャサリン・マバリーに贈られた曲だそうですが、極私的な曲のようです。
くじ引きで、弾く順番が決まるそうですが、コンクールで1番目に弾くか、最後に弾くか、最後に弾く方が耳には残りそうです。運を味方につけられる方は、インターミッションに入る前に弾くと聴いている方の印象に残りそうです。
ジョン・ケージは、「どのように登場し」どのように椅子に座り、ってところから、ライブは、始まると言っていましたがわたしもそう思う。
結局のところ、演奏する人が説得力のある身体で登場すれば、すべてが始まり、聴く人が一人でもいたら、ライブは成立。聴く人は、多い方が演奏者は、気分は上がりますが、急激に沢山の観衆がいると自分の見ている空を見失なうこともあるのでないかと思います。空は広い、ショパンも迷い、見失なうこともあったのではないかと思います。
それにしてもballad 2番 F-major No.38って、いい曲だなぁ。シューマンは発表当時、評価しなかったようですが、今も弾かれているのだから、名曲です。作られた年代から、マヨルカ島で作ったものと推測できますが、肺結核(遺伝子疾患があった説もある)で、亡くなる前の曲で、30代の作品、(生まれた日が明確ではない)決していいピアノで弾いていた訳ではない。関税が高く、島に自分のピアノを保養している場所へなかなか持ち込めなかったそうだ。(Google scalaを検索すると、いろいろ記録が読めます。)身体的には、あまりいい状態ではなかったようで、体力的には落ちているときに作られたもの。これを聴くと、何故か、ビル・エバンスのワルツフォーデビーを思い出す。
クラシック音楽は、俄かファンですが、ショパン国際ピアノコンクールをきっかけに、ショパンをもっと知りたいと思います。