記憶の行方S3 小さな出来事 再会の連弾
昼休みと放課後の器楽室では、音大や芸大受験の生徒たちがそれぞれ練習をしていた。
なぜか、みんな一斉にハノンのスケール練習から入る。
わたしは、陸上部の成績で行ける学校に推薦で進学先は決まっており、のんびり、授業を受けていた。
教室には、来なくなる生徒も増えて、図書室で本を読んだり、今後のことを話したりすることも増えていった。
担任の先生が結婚するというので、なんかお祝いするか?と、ビデオレターをみんなで作ることにした。
でっかいカメラを肩で担いで、インタビューをとることに。
卒業演奏会では好きな曲を演奏していいことになっており、進学クラスの生徒たちは、毎年、音楽の時間に自分の好きな曲を一曲選んで何かしら弾いていた。
バレーボール部だったIくんは、真っ白い顔をして、聴いたことがない曲を練習していた。Iくんのお姉さんのピアノ教室に通っていたわたしは、思わず「なんていう曲。それ?」と、聴いてしまった。
「内緒」
Iくんは、静かに笑った。
「どうすんの?」
「え?何が?」
わたしは、いつも自分の気持ちをはぐらかした。
わたしはいつも日焼けして陸の上を走っていた。3年の終わり、冬のグラウンドでは、駅伝の新しいメンバーが練習を始めていた。
「あ!」
「(誰だっけ)?!」
入学時の冬、駅伝の壮行会で校歌の伴奏を弾いたのがIくんだった。
校歌を真面目に歌っている人はいないだろうと朝礼の時にいつも思っていたのだけれど、いざ、舞台で聴いていたら、「案外、みんな歌っていて、嬉しかったね。」
と、壇上から降りながら、1区を走る同級生と話していた。
ピアノのふたを締めながら、最後に、名前を呼ばれたわたしを見て、どこかで、会ったかな?と、わたしも記憶を探った。
「俺、覚えてる?浦島太郎の」
幼稚園のお遊戯会で、浦島太郎を演じたIくんだった。
「覚えてるよ」
まさか、おんなじ学校にいるとは知らなかったのだけれど、くるくるの巻き毛を見て瞬時に思い出した。わたしは、その浦島太郎のお遊戯会では、亀役だった。挙手制でどんどん役が決まって行き、ぼんやりしていたわたしは、あれれ?みんな、手挙げるけど、亀、決まってないな、と思っていた。浦島太郎と乙姫は、ゆり組から決まると知り、がっかりしていた。女子としては、乙姫役は、やってみたい。けれど、役がないなぁ。と、ぼんやりしていたわたしを見て、担任の先生が、あら、決まってないわね、「亀役ね」と、チューリップ組の担任の一存で決まってしまった。ワンテンポ、いつも、わたしはアクションが遅いらしい。
お遊戯会の練習に、ホールへとぼとぼ歩いた。亀役がなかなか決まらない訳はわかっている。
ホールに入って、巻き毛のIくんを初めて見てきゅーっと、胸元が締め付けられ、会うたびに、ほくほくしていた。
浦島太郎役と紹介されて、一気に浮き足だった。げんきんなものだ。
練習のたびに、浦島太郎のIくんに助けられて、しあわせな気分で帰りのバスに乗っていた。
そんな日々を思い出した。
「足、速かったんだね、意外だったよ」
「あー、亀役だったもんね」
「そうそう、いつも、のんびり歩いているイメージだったよ」
小中学と同じ学校だったらしいが、全く記憶になく、別棟にそれぞれ通っており、顔を合わせたことがなかった。
「ピアノ続けていたんだ」
「ピアノは、ほら。姉ちゃん、教えるから、なんとなく続けてるよ。バレーボールの方が好きだよ。」
春の代々木体育館での大会を目指していて、テーピングした指先は、ごつごつとしていた。
「アンカーなんだ」
「うん」
「頑張ってね」
「ありがとう」
そうして、東棟と西棟で、別々の校舎で過ごしていることを知り、渡り廊下から、時々、波間に落ちる夕陽を眺めて帰るようになった。
「連弾やろうー連弾」
I君は、密かに作っていた曲の譜面を持ってきた。
「教会の音階みたいだね」
「そう。讃美歌をイメージした」
そうして、放課後の連弾協定は、決まり、練習が始まった。
「温泉卵みたいな顔してるよね」
「はぁ、余計なお世話だよ」
「そのふくらはぎ、ジョイナーでしょ、ジョイ子」
「うるさいー、これで、学校、入ったんだから、いいでしょ」
悪態を付き合い、帰っていた。
卒業演奏会では、無事に弾き切り、演奏より夫婦漫才の方が面白かったと評判になり、前説の悪態漫才を部活の送る会で行うことなった。
3年の春、それは、変わらず続き、卒業式の後も、
「じゃあね、ジョイ子」
「ちがーう」
「なんか、あったら帰ってこいよ」
「うん」
電車の窓から見えたIくんは、晴れやかな顔をして、わたしの苗字を呼んでいた。
わたしは、それから、その街には、戻らなかった。いつでも、戻れる、そう思っていた。