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美化されていく…
一昨日、29日は
姑の7回忌法要があった。
夫は2人兄弟。6歳下の弟が1人。
弟の家からは弟だけが出席し、
こちらの家族3人と私の母の5人で、
ご院さんをお招きして、供養をして頂いた。
お経が終わり、皆でお茶しながら姑を忍びながら会話も弾んだ。
「あんたは私のライバルやから」と宣うた姑に、私はちまちまとイケズされたものだ。
大阪船場育ち。お口とお腹は違います。
言われたことにショックを受けて何度も頭が真っ白になった。
今なら絶対言えたであろう口ごたえも、若かった私は何も言い返せなかった。
ある時、息ができないほどお腹が差し込むように痛くなって、
けど、その頃は姑と同居していたので救急車を呼ぶのも憚られ、我慢した。
そんなことが何度かあったが、忙殺される日々。
頻繁に痛みが現れ、どんどん体重も減り、流産を繰り返し、なんとか出産したものの、もう限界だった。
娘が幼稚園に入るのを機に姑には出ていってもらい、親子3人の生活になったが、
3年経った頃、寂しいからと同じマンションに戻ってきた。
数年後、どうしてもお腹の痛みが取れず、検査の結果、胆嚢腺筋症であることがわかり、手術して胆嚢を取った。
嘘のようにあっという間に快復した。
こんなに元気になるんなら早く手術しとけば良かった!
こちらが健康を取り戻した頃、
今度は姑に認知症の症状が現れた。
あの頃、認知症という言葉がまだ浸透していなくて、
姑は老人性鬱病と診断された。
じっと座ったまま1日を過ごし、極度な潔癖症。拒食症。暴言と暴力。
どんどん人が変わっていった。
その頃は夫は仕事が忙しく、家にいることがほとんどなかった。
あちこちの病院でトラブルを起こし、他へ行ってくださいと、医師に嫌われるほど、口が汚かった。
ついに徘徊も始まり、転んで骨折し、入院したけど、
手に負えないということで、おおよそ骨が付いたあたりで精神病院に転院させられた。
手続きに行った夫の後ろ姿は、可哀想で可哀想で、今も脳裏に焼きついている。
入院して2年目のある時、
ケアマネさんから、ありがたい提案を頂き、普通の老人ホームに転院できた。
そこで3年ほど過ごし、老衰で亡くなった。
老人性鬱と言われてから、12年。
人生の後半、なぜこんなに人が変わってしまったのか。
私にはイケズだったけど、穏やかで品が良くて、細くて小さい人だった。
今思い出されるのは、良いことばかり。
息子たちには話さないことを、女同士だから話せることがいっぱいあったのだろう。
法要が済んで、ご院さんも交えてお茶している時、
私が話す姑との思い出話は、息子たちも知らなかったお母さんの姿のようで、しばし涙ぐんでいた。
私はきっと、実の息子たちよりも女学校時代のことや、結婚してからの苦労話をたくさん聞かせてもらっていたと思う。
姑としてはとてもキツかったけど、女友達だったら面白かっただろうなと思う。
悔しい思いをいっぱいしたけど、
良い思い出もいっぱいある。
美化されてるかもしれないけど。