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O mio babbino caro(私のお父さま)⑩

娘の結婚式を目標に、父はさらに少しずつ元気を取り戻していった。


私たちの結婚は結納も行わず、
地元では親戚だけ。
大阪では立食パーティー式の
人前結婚式にした。

関西好きの父は、大阪での結婚式の後の京都奈良の旅行をとても楽しみにしていた。
たぶん…父にとっては、そちらの方がメインだったかも…

大阪でのパーティー当日。
飛行機が遅れて両親は遅刻し、
新郎新婦の入場と同時に両親も大広間に入りかけた。

控室のある上階から降りてきた私たちが乗ったエレベーターと、
到着した両親が乗ったエレベーターが下から上がってきて同時に大広間に到着。
大広間のドアが大きく開かれると同時に、オーケストラの生演奏による
結婚行進曲が。
そして2組のカップルが入場…しそうになったところ、
さすがにスタッフに引き止められ…。

なんて間の悪い親たちなんだ、と
私はとっても恥ずかしかった。

今思えば全てがそうだった。
空気が読めない両親。

結婚式では新婦の両親という自覚はなく、来賓のような顔していたっけ。。。

お開きになって、両親に挨拶しようと思ったら既に京都に向かった後だった。

はしゃいでいる両親を見て、普通なら非常識な!と思うところだが、私は安心した。


そして
なんとなく、昔からずっと続いていたかのように、
大阪の生活が始まった。


実家では父はかつての父に戻ったようだった。

「ちゃんと練習しているか?
今何を弾いているのか?」
電話のたびに言ってくる。

これでこそ父だと思い、安心した。
嬉しかった。
お父さんはこうじゃなくちゃ!

何年か経って、
私の大阪での仕事の様子が、地元の新聞に取り上げられることになった。
父はとても喜び、何部も新聞を買い、色んな人に配ったそうだ。

里帰りするたび、小旅行することもできた。

母は仕事を辞め、父は役員として頑張っている様子だった。


しかし、最初の手術から9年になろうかという頃、父の体に異変が起きた。
とほぼ同時に、今度は母に甲状腺がんが見つかった。

1989年の年の瀬、母が手術することになったので、私は年内の仕事を早めに切り上げて実家に戻った。

母が入院している約1週間、
父と2人だけで過ごした。
たくさん喋った。
「新聞に載ったことも、お父さんのお陰。お父さんが頑張ってくれたから何とかここまで来れた。今は本当にピアノが好きだよ!」
と、面と向かってお礼なんて言ったことないのに、不思議としっかりお礼が言えた。
父は、「何度行っても練習しないし、懲りないやつだなぁと思ったけど、好きになってくれたならそれが一番だ。良かった」と言ってくれた。

でも、まさかこれが父との最後の会話になるなんて…


母の手術は成功し、年明けには元気になっていた。
恐るべし回復力!
私は安心して大阪に戻ったのだが…

私が帰ってから父はずっと調子が悪かった。
2月、検査入院が決まったがベッドに空きが無いと。
やっと入院できたのは2月下旬。
父の誕生日の頃だった。

検査の結果、肝臓がんであることがわかり、狭心症もあることから、どうやって治療するか、検査しながら投薬しながら様子を見ていたらしい。

手術することが決まり、カテーテルの検査が始まった。
カテーテル。
前回、この検査が失敗して出血が止まらず、怖い思いをした父。
病室から出て行く時、
「嫌だな…。怖いな。」
と言って出て行ったそうだ。

そして検査中、ショック状態に陥り、
一旦病室に戻ったものの、
どんどん体温が下がり、寒い寒いと震え、
吐血して、父は亡くなった。

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