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O mio babbino caro(私のお父さま)⑪
そんなことが病院で起きていたなんて、
これっぽっちも想像だにせず、
私はその日その時間、
夫の所属するオーケストラの定期演奏会を聴きに行っていた。
クラリネットの名手、ザビーネマイヤーのモーツァルトのコンチェルト。
ザビーネマイヤーと夫が共演するなんて、全く夢みたいだった。
崇高で、美しさの極み、ホール全体を包み込むような豊かな音。
私は1音たりとも聴き逃すまいと集中し、夢心地で聴いていた。
休憩に入り、後半のプログラムの前にコーヒーを飲みに行こうかと、
ふと舞台を見ると、夫が私を手招きしている。
いくら休憩中でも団員が舞台からそんなことするなんて…。
不安な気持ちで駆け寄った。
「気を確かに聞きや。お父さんが危篤や。終わったらすぐタクシーで帰ろう。」
私は、どうやって座席に戻ったか覚えていない。後半のプログラムも覚えていない。
家に戻ると義母がいて、「亡くならはってん」と。
翌朝、夫と義母と3人で始発の新幹線に乗り、新幹線を乗り継いで実家に到着した時はお昼を回っていた。
親戚、ご近所さんが集まってくれていて、私の姿を見るなり皆、泣きながら口々に私の名前を呼ぶ。
父の寝ている部屋に行った。
普通に眠っているようだった。
大きな父は、亡くなっても大きかった。
まだ手のひらと背中が暖かかった。
もうこの人とお話しできない。
得意げな自慢話も聞けない。
不安と悲しみでいっぱいだった。
しかしだ。
人が死ぬとぼやぼやしていられない。次々にお通夜や葬儀の段取りが決まっていった。
この地方では大阪とは葬儀の順番が違うことも、改めて知った。
お通夜、火葬、告別式。
そういう順番。
お通夜の翌日
火葬に向かう時、
お布施を包む袱紗が要るわ!と、母が慌てて探した。
父が大切にしまっていた桐の箱に、紫色の袱紗が丁寧にたたまれて入っていた。
その袱紗を取り出した時、薄い和紙の下に更に和紙が丁寧に折り畳まれていたのに気づいた。
なんだろうと思ってみると、
父の手書きの“遺書”だった。
半紙に書かれた達筆の書。
「小生に万一有りたる場合は…」
と始まり、「火葬のみ執り行い、仏神関係ない身なれば、後々お世話になった人を個別に招いてお礼を…」と。
そして私の弾くショパンの葬送行進曲で送り出してほしい旨書いてあった。
葬儀は社葬になるのでもはや手遅れ。
せめてもと、出棺の折、葬送行進曲を弾いた。
“遺言”に気がついて良かった。
そして、父を乗せた車は、父所縁の社屋やさまざまな場所をゆっくりと巡ってくれた。