見出し画像

京都リトリートから1年経って思うこと

昨日は、一年前の京都リトリートで同じグループだった面々と一緒に
思い出の場所に行き語らってきました。
またもや長くなるけれど、今の所感を書き留めておきます。

定点観測するって分かりやすい

今回、グルーピングとyujiさんからの課題がお披露目された会場であるレストランでランチをしたあとに、yujiさんセッション後の振り返りをしたカフェでお茶をしてきました。
一年前はホテルに入ることすら敷居の高かった私(笑)
今回はどうなんだろう、と思っていたら、びっくりするくらい体感が違う。
気持ち的にも武装して入っていたホテルやレストランにさっくりスイスイ入っていけちゃう。
とにかく、軽い!そして自分にとってもはや普通。ナチュラル。居心地良い。
懐かしさとなんとも言えない暖かみが込み上げてきて、HOMEであることってこういうことなんだなぁと。
みんなで体感を噛み締めてました。

実は、近辺に用事があることも多くホテル前を通っていたのですが、自分1人ではここまで深く感じ入ることは少なかったな、と。
同じ時期に同じ場所で同じ人たちと時間を共有する。
そのことで得られるものってめちゃくちゃ大きいなぁと思いました。
贅沢な定点観測になるけれど、良き体験になること必至なのでオススメしたいです。

自分に集中するとみんな輝きだして有象無象ではなくなる

一年前に撮影した集合写真と今の写真を見比べてみてよりハッキリ。
みんなキラキラしていて、有象無象感がなくなってる!
(一年前のリトリート時には、バイブス認証がしにくかったと言われた我ら笑)

京都リトリートは自分たちにとってはまさにスタートで。
そこからそれぞれが進みたい道や方向に進みはじめ、共有して励まし合いながら時間を過ごしてきて。
そうしたら、本当に、みんなキラキラし始めて、一緒にいてめっちゃくっちゃ楽しい!心地よい!(のは前からだけど!)そこはかとなく楽しみ!になっている。

リトリートの時には「とにかく円陣を組んでいるし、超綺麗な列を作って部屋に入ってくるのよね」とMOTOKOさんに形容された我ら。笑。
円陣も組むし一緒に行動するけど、もう超綺麗な列では無くなってる気がする。

リトリートに関する情報に触れている=変容している

リトリートへの参加は、それこそ清水ダイブくらいの覚悟だったのを覚えてます。
が、本当に参加を決めて良かったと今でも心から思ってますし、これからも変わらないと思います。
リトリートに参加すると決めてなかったら、今は全然違う状態だったと断言できるから。

そして思い出したのは、比較的仲良くさせていただいていた職場の知り合いに、リトリート前に言われた一言。
「そこに行くより神社かお寺でお祓いしてもらったほうがいいと思う」
でした。
(当時私は心身壊して休職中で、さまざまな不調や衝突を体験していた)
かなり衝撃だったけど「この人はそう思う人なんだ」と思いつつ
「自分の感覚としてはリトリートのほうがワクワクするんだよなぁ」と感じていました。
そして、それは本当にそうでしたし、今私の周りはそのように感じている人が本当に増えて、とても心地よいものになっています。
(そして今は復職して不調のケアや知識も増えた)

この体験から思ったのは、リトリートやその他諸々の情報に触れていられる人って全員ではないんだってこと。
神社やお寺でのお祓いに意味がない、とかいうことでは全くなく(個人的にはむしろ厳かさすら感じるものすごい技術だと思っている)「変容をどう捉えているか」によって違ってくるのだなって。
変容を「させてもらう」のではなく「する」と決めている。
そもそも、変容が「できるもの」であると認識している。
参加を決めた人はもちろんのこと、これらの情報に触れている人も「そう決められる、もしくは決めている」人たちだと思うし、変容していける人と確信した。
リトリートに行けばもちろん素晴らしいバックアップとプログラムで変容していける。
けど、行かなくても変容しているんだよってことをお伝えしたかったのであります。


今、この記事を書いているころ、沖縄では新たなリトリートが始まっているはず。
関わる全ての人にとって素晴らしい時空間になるのだろうな、と思うと胸熱です。
変容に向かうということはどんな形であれ尊く美しいなと思う今日でした。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?