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【エッセイ】書くということ
昨日、徹底した堕落を目指してはみたものの、いざ気合を入れて臨もうとするとどうすればよいかわからない。
寝っ転がるのが堕落かと言えばそうではないし、昼酒を呷ることが必ずしも堕落かというとこれもたかだか1日程度実行したところでそんなに大げさな話でもない。ぼんやり映画を観る、というのは堕落でもなんでも無く常日頃からしていることだし、ええぃ面倒だ今日一日は好きなことだけをしようと決めて本を読む映画を観るギターを弾く酒を飲む等次々にしてみてもこれ、毎週末にだいたいやっていることであって、と、いうことは私は毎週末堕落ししているのではないか?とも思えるのだけれどもそれは認めたくないし、なんだかんだ横になる時間を増やしてみたら腰が痛くなってきて快適さが失われてしまった。
結果、気合を入れて堕落するということはやめにしたのである。
考えてみれば全集中で堕落するというのも全くおかしな話で大抵の場合全集中すると成長につながるものであって、ということは堕落に全集中すると堕落のプロになってそれをネタに書籍を発刊したりするともう、それは堕落から程遠いことになるわけでもあり、そもそも健康によろしくない。
やめやめ。墮落やめ。
さて、長い休みになると読み返す本がいくつかあって、以前も紹介したのだがチャールズ・ブコウスキーの邦題「書こうとするな、ただ書け‐ブコウスキー書簡集」(アベル・デブリット編/中川五郎訳/青土社)を今回は拾い読みしてみた。
この本は、出版関係者をはじめいろんな人にあててブコウスキーが書いた手紙を編纂したものであり、主に彼の執筆に関係する内容になってはいるのだが、やはり手紙なのでかなりプライベートな感覚があって、彼らしくベロベロに酔っ払いながら書いているものが多く、時々自分で何を書いているのかわからなくなっていたり、でもそれをそのまま、修正せず書き続けていたりするので、かなり本音の部分が書かれていると言える。
分量的にもかなりのヴォリュームがある書籍でもあるので、読み直すたび新鮮に、また新しい発見があったりして面白い。
今回、本の後半部分にかかれていたことで、なるほどなぁと共感したり、納得したりした部分があるので、数点紹介したいと想う。
では。
有名になりたいためだけに書くのだとしたら、糞みたいなものを垂れ流していればいい。ルールなど作りたくはないがあるとしたらそれはこうだ。気が狂わないように書かずにはいられない作家だけがまともなものを書くことができる。
作家とは何冊か本を出版した作家のことではない。作家とは文学を教える作家のことではない。今現在、今夜、この瞬間、書くことができる者だけが作家なのだ。タイプを打ち続ける元作家があまりにも多すぎる。
何もかもいちばんうまくいくのは、何を書くのか書き手が決めるのではなく、書かれることが書き手を選ぶ時だ。それは書きたいことがいっぱいで書き手が正気を無くしてしまっている時、書くことが書き手の耳の中、鼻の穴の中、指の爪の中までいっぱい詰まってしまっている時。書く以外何の希望もなくなってしまう時。
頑張るな。仕事をするな。ただ目の前にあるのだ。わたしたちをまっすぐに見つめ、閉じられた子宮を蹴飛ばして今にも出ようとうずうずしている。
いくべき道があまりにもたくさんありすぎた。何もかもが自由で、わたしたちが指図される必要はない。
教室だと?教室は愚か者たちのためにある。
詩を書くのは自慰をしたり瓶ビールを飲むのと同じぐらい簡単なことだ。
また、あとがきにも彼の、インタビューに対する興味深い返答が記述されている。
「一週間書かないと病気になる、歩けなくなって、目まいがする。ベッドに寝そべり、ゲロを吐く。朝起きて吐き気を催す。私はタイプしなければならない。もし両手を切断されたら、わたしは足でタイプする。」
まさに「書こうとするな、ただ書け」であり、物書きが「書く」ということはこういうことなんじゃないかと、改めて思う次第である。
評価ではなく、金銭ではなく、ただ「書く」、どんなものでもどんなジャンルでも構わない、そんなことは些末なことだ。自らの書きたいという欲求に従ってただ「書く」、物書きがすべきことはただそれだけなんじゃないだろうか。