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【エッセイ】そのうちなんとかなるだろう
昨夜、酔っ払って黒木渚の「ふざけんな世界、ふざけろよ」をYouTubeで観ていて記事として投稿したわけだが。
酔っ払いが布団の中で、苦手なスマホを使っての投稿をして疲れ果て、ほらみたことか、ヘッダーの設定もせずに投稿してそのまま寝落ちしたというわけなのだが、今更設定しない。
なんでまたこのそこそこ古い楽曲を視聴していたのかというのはなにしろ酔っ払いのすることだから実際のところは不明なのだけど、今現在素面の自分としてこれは、今年に入って聴き続けている「クレージーキャッツ」の影響なのではなかろうかと推察するのである。
だまって俺についてこい
つい先日までは入浴用のBGMとして「スーダラ節」を聴いていたのだが、ここ2週間ほどは「だまって俺についてこい」である。
とは言ってもこれ、若い方々には何のことやらさっぱりだろうから、こちらをどうぞ。
スーダラ節
だまって俺についてこい
厳密にいうと「だまって俺についてこい」の方は植木等のソロ名義でリリースされているのかな?という感じなのだが、クレージーキャッツのアルバム内にも収録されているし、時代的にもそのあたり曖昧なのかという気もするので、曖昧に進んできたものは曖昧なまま放ったらかすという個人的な主義を貫いて放ったらかすことにする。
そんな曖昧議論はどうでもいいことで、この曲を風呂に浸かりながらリラックスした気分で聴いていて思うことというのはもう「闇雲なポジティブ思考」という1点に尽きる。
私はパンクが好きなのだが、このパンクについて自分の中で感じていることというのもまた「闇雲な前進主義」ということであって、どうも「闇雲」という行動が好きな人なんだな、私は。
で、前述の「ふざけんな世界、ふざけろよ」と「だまって俺についてこい」を聴いてみると、なんだか言ってることがだいたい同じなんじゃねぇかと思ってしまうの、私は。
「だまって俺についてこい」では、なんとなくうまくいかないことがあった時に「おれんとこへ来い」と誘っておいて実は自分も似たようなものなんだけど無責任に「心配すんな」と言い、挙句の果てには「そのうちなんとかなるだろう」である。
「ふざけんな世界、ふざけろよ」ではいろいろ不満もあったり、緩急はあるけれどそれを「人生はコメディ」だと笑い飛ばす勢いがある。
両者、うまくいかない人生を深刻に考え込みすぎて暗く陰気には捉えない。
ジェットコースターでキャァキャァ歓喜するように人生を愉しもう、そういう音楽であり、そういう楽曲なのだ。
文学的な可笑しみ
クレージーキャッツの話。
クレージーキャッツの楽曲については、かなりの割合で元東京都知事の故・青島幸男さんが作詞しているのだけど、この人のこのセンスってほんとに素晴らしいと私は思うのだ。
そもそも「スーダラ」ってなに?
これ青島さんの造語だと思うのだけど、ものすごく秀逸な言葉じゃない?オノマトペだよね、これ。
「スイスイスーダララッタスラスラスイスイスーイ」ってこの歌詞でもう「無責任にお気楽にいきましょうよ」みたいな意味を自然に感じられるのである。
また「だまって俺についてこい」での、俺を頼れと胸を張りながら実は空元気で、最終的に「そのうちなんとかなるだろう」と無責任に言い放つこの落とし方(笑)落語の世界である。
言葉で笑わせるこのセンスとチカラって、すごく文学的な面白味を持っていて、相当に知的な文化と行って良いレベルだと感じる。
植木等
クレージーキャッツの曲を聴いていてつくづく感じるのは植木等の歌の巧さである。
声の良さもあるのだけど、朗々と歌い上げたと思えば「キィヒッヒッヒ」と狂気をはらんだ笑い声を挟み、また勢いよく声を張り上げて歌い切る。
そしてこういうコミックソングを歌うときは、基本的にずっと笑っているような発声法であり、こういう巧さが嫌味のない「闇雲さ」を醸し出しているのだろう。
深堀りするような話題でもないしそれは逆に野暮なのだろうけど、こういう空元気ってどんな時代にも重要だと思ってつい。