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【コラム】一生遊んで暮らしたい
まず
タイトルを読んだだけで「怠け者の愚言」「甘っちょろい」「いい加減にしろ」とこの記事のコメント欄に書き込んでやろうと鼻息を荒くしたあなた、いやおまえ、いや貴様に対して私は「まったくてめぇは愚かで甘っちょろい野郎だぜ、いい加減にしろよ」と言い放ちたいと思う。
「一生遊んで暮らしたい」という文言をググるとこれが案外いろいろに使われているようで少し驚いたのだけど、なんか会社名として使われてたりもするらしく、そういう会社の経営者はきっと物事の理解が深いだろうし、そういう人の経営する会社だからきっと面白いんじゃなかろうかと、私なんざ感心してしまう。
他にもいろんな使われ方してるし、肯定的な見方も否定的な見方もあってなかなかおもしろい。
さてGoogle検索について語りたいわけではない私がこの文言を最初に目にしたのは本の帯である。もうけっこう前の作品で「一生遊んで暮らしたい」でググっても、もはや上位には出てこないのだがそれは町田康の処女小説「くっすん大黒」である。
だからといって書評を書きたいというわけでもまたないので、ここも軽く流させてもらうとして、文頭で書いた如くの罵倒を浴びせてくる輩の頭に引っかかるのは単純に「遊んで」ということなのではないかと私は推察している。
「遊ぶ」の対極にある言葉として「仕事」が必ず出てきてしまう人、こういう人の感覚として仕事と遊びの最も大きな違いは「銭」になっているのではないだろうか?
仕事は銭を稼げるけど遊びじゃ銭は稼げない、要するに「一生遊んでいたら一生銭が稼げないすなわち、一生生活が成り立たない人」になってしまうのでそりゃ否定的な発言もしたくなるというものだろう、そりゃそうだ、というふうに納得してしまってはコラムが終了してしまうし、そうするとせっかく楽しんでいる趣味のタイピングが短時間で終わってしまって私がつまらないのでもう少し屁理屈に付き合ってもらう。
仕事
屁理屈と言われてしまえばそうなのかもしれないし、私が勝手にそう思っているだけのことなのだがいわゆる「仕事」とは別に日本語で「生業(なりわい)」という言葉ある。
「銭を稼ぎ飯を食うことで命をつなぐための活動」これが生業であると今ここに私は勝手に定義する。
学者さんや偉い方々やAIなんぞがどういう見解を持っているかなんて知らん、私がそう定義する。
でこの「生業」から生活臭、生臭み、生命存続の危機等といった陰気で物悲しい「生」を取り除いた「業」、これを私は「遊び」と捉えたい、というか今ここに私が勝手に定義する。
「業」というと坊さんや神父殿、教祖、なんだかんだの修行者的な人たちがうるさいかもしれないけれどそんなことは知らん、これも私がそう定義するのだ。
なんとなく変にラジカルな文章になってきてしまってやや不安を感じつつしかし、この「生業」と「業」これらをひっくるめて人間の「仕事」なんじゃね?と私は思っている。
思っているだけである。
定義しない。
定義しない理由は特にない、文章の攻撃性を少し弱めたいからという日和った考えが心を過ったというただそれだけのことである。
例を出そう
例を出すのに他人の事を書くと齟齬が発生する可能性が高いので私自身の事で描く。
今現在の私の「生業」は工場労働者であり「業」は物書きである。
齟齬もへったくれもないほどに簡単で一行であっさりと結べる程度の例だったし、実際この程度の簡単なことであり大の大人が目くじらを立てるようなことでもない。
要するに前述の通り「遊んで」の真意は「業」なのである。
「生業」と「業」が一致している人も当然いて、こういう人は至福であると同時に「生」を守らなければならないという縛りも出てきてしまうのでやや生臭く生命存続の危機も時には感じながらという側面も持っているは思うが、根底に「業」があるので、その道を突き進んでいられる。厳しい局面も楽しさで超えられる。
だから本当は「業」すなわち遊びに準じて「生業」を選び突き進むのが良いとは思うしかし、私を含め多くの人間は弱く、うまいこと流れに乗れないとダルくなって「バイトしよ」とか「就職しよ」ということになり、そうなると労働に伴った「銭」が入ってきて「生」が安定するので「まいっか」という気持ちが次第に強くなり「業」が「生」の後になってしまうのだ。
でも「業」は「業」なので私にしてもこんなふうにタイピングしているだけで相当に愉しいし、気持ちも安定し「生業」と表裏一体の形で銭の絡まない「業」もほぼ同等の価値あるものとして人生に存在し続けるのである。
「業」が根底に流れている。ということは遊んでんだよ。
「生業は是」「業(遊び)は否」ではない。
文頭のような意見を持つ人、あんた頭堅いんだよ、カタブツなんだよ。
「生業」も「業」も人間の営みであり、「仕事」なのだ。
だから自分の「業」に気づけた人はすでに「遊んで暮らしてる」のだ。
遊ぼう
私が子供の頃、カタブツが多かったのでまず「生業」ありきで趣味として「業」みたいに完全な上下関係的区分をほとんどの大人がしていて、子供の多くもその考えを受け入れさせられていたように思う。
でも本当は「業」が先なんじゃなかろうかと思ってる私は現在、娘に興味の赴くままやりたいことを、できる限りやらせるようにしている。
写真や絵に熱中している今はそれをやり続ければいい。
いつかどこかで数多くの経験の中からガチッとピントの合う瞬間がくればそれが「業」なのだ。
それを根底に持っていれば、それが「生業」になるか別の「生業」で生きるかは別にして「一生遊んで暮らせる」愉しい人になる。
それでいいのだ。
(↑バカボンのパパのこのセリフは至言だと思っている)
有名な振り切りエピソード
忌野清志郎
彼はバイトをしたことがなかったという。
食えようが食えなかろうが、彼の職業は一生「ミュージシャン」だった。
甲本ヒロト
彼が夢について語っていた
学生の頃にバンドを始めたことで「夢は叶っちゃった」し、今もそれがずっと続いているから「ずっと叶ってる」、だから「あの頃は良かった」なんて一度も思ったことがない。