【短文連載型短編小説】カメを戻す。#7
前回
亡霊の如き
」。
これは、鉤括弧の閉じる側の記号であって一般的には会話文などで人のセリフを表記する場合にその終了を告げる役割として使われる場合が多いのだが、私が玄関を出てすぐ脇の窓から室内を覗くとその室内は真っ暗で、外からの光によって窓ガラスを通してその暗闇の中に映っている私の顔、その真中にある鼻がちょうどこの記号の形のように折れ曲がっていて、その折れ曲がった鼻から下は窓に映っていなかった。
鼻が曲がった衝撃で顔の下半分が吹っ飛んだというわけではなく、折れ曲がった鼻の中から大量出血をしているために薄暗い外光では鮮明に映し出すことができず、室内の暗闇ど同化してまるで消滅したかのように見えているのだ。その証拠に顔に手で触れてみると口も顎もその存在は確認できる。ただし非常に不快なヌメヌメとした感触があり、顔面に触れてぬめぬめになっている掌に視線を落とすとそれは恐ろしくなるほど自身の血液に塗れている。
「うぁぃ、鼻血だぁうぁい」
特にそうしようと想ったわけでもなく自然に私の口からはそんな音声が発せられた。
たしか鼻血を止めるには上を向くと良いのではなかったか。
私は血まみれの手をだらんと下げ、阿呆のように口を開けたまま顔を上に向けた。その口の中に鼻血がダラダラと流れ込んできて気分が悪かったが口を閉じることが出来なかった。意思に反して口は開いたままになっていた。
顔を上に向け、両手をだらりと下げ、私は足を引きずりながらゆっくりと歩き、狭くて雑草だらけでみすぼらしい庭に設えてあるコンクリの水場に向かった。
しかし顔を上に向けているため視線はまっすぐ天空を見据えており、足元に転がっている三輪車の残骸や薬缶、散水ホース、ビニール袋、干物作成用ネットなどの雑物にいちいち足を引っ掛けその都度転倒し顔面を含む全身を強打しながら庭中を転げ回っているのでこの狭い敷地の中、僅か数メートル先の水場に辿り着くことが出来ない。
いやちがう。
私は心の深層でその水場に辿り着くことを拒絶し、愚を愚で上塗りしながら現実から逃避していたのだ。
最後の転倒から転がり、私は額をを水場のコンクリにぶつけて停止した。
割れた額からまた新たに私の鮮血が吹き出しぼんやりと開いた口の中に入ってくるし、眼にも入って激痛とともに視界が霞む。
霞んだ視界の中、私の肉体が転がるすぐ脇にその金盥が金色にくすみながらしかし月光の中、輝いていて。
私は。
しくしく痛む眼球をその輝きに向けたまま。
動かすことができなかった。
(つづく)