【短文連載型短編小説】カメを戻す。#8
前回
金盥の奇跡
折れて曲がった鼻。
割れた額。
血で汚れた眼球。
打撲の激しい全身。
その全てを激痛に苛まれながら私は、金盥だけを凝視し水場へ向けて這った。
地面に胸を突き、顎を擦り、掌や膝小僧の皮を引き裂きながら這い進みやがてぐいと伸ばした私の指は金盥の縁に触れ、それを引き寄せた。
ああ、その中で。
銭が私を見つめている。
私は眼に涙が溢れてくるのを感じた。
その涙は、割れた額から流れ落ちる血液と混じり、文字通り血の涙となって頬を伝いボタボタと落ちて庭の土を湿らせた。
銭は眼と口を見開き、私に何かを語りかけているように見えた。
私はその声を聴き取ろうと首をかしげ、金盥を引き寄せた。
かさっ。
金盥の中で小さな音がした。
中では目と口を大きく開いたままで銭が、甲羅を下にしてひっくり返っていた。
「銭!銭ッ銭っ銭!」
私は必死で叫んだ、その度に金盥は揺れ、仰向けの銭は揺れた、かさかさと。
カサカサとかさかさと。
乾いた音を立てていた。
私から流れた血の涙、その一滴が銭の見開かれた眼と口に落ちた。
御伽の国では奇跡が起こる。
私が落とした血の涙は銭の身に沁み入ってそれを潤し、銭は甲羅を揺すった勢いのままコテンと体勢を立て直していつも通りのニヒルな笑みを私に投げかけるのだ。
この狭くて汚らしく雑然とした庭は全くの現実世界で、御伽の国の影すら落ちない。
血の涙は銭の身に染みる事無く、弾かれて金盥の底を濡らした。
(つづく)
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