【短文連載型短編小説】カメを戻す。#6
前回
忘却できず
「さて、と」
私はぽんと膝を叩き、あえて声に出してそう言いながら緩慢に立ち上がった。
「ちょっと、冷えるな」
嘘を言うな。白々しい。これほどダラダラと汗を流していていながらなにが「ちょっと、冷えるな」だ。お前はヤク中か。
「ヤバい、凍えそうだ」
気が触れているのか?まず、この衣服をびしょびしょにして饐えた匂いを撒き散らしている汗について説明してみよ。
私はそのように声に出して自問、心のなかで自答、という田舎の百姓小芝居のような独演を繰り返しながら、あくまでも緩慢に動き、這いずるように廊下を歩いた。
眼の前に玄関の扉が迫り、よろけて左の壁にぶつかり跳ね返されて右の壁に頭をぶつけたその衝撃でメリッという音がした。
メリッと言う音は壁から発せられたのか私の頭蓋から発せられたのか定かではないが、そんな些末な事に囚われてはいられない。決してそんな事に囚われてはいないのだが、それでも肉体はくるくると回転し、私は結局糸の斬れた操り人形のように力なく不自然に体を折り曲げながら廊下に顔面から崩れ落ちた。
激烈な痛みに鼻を押さえながらのたうち回る。
以前、酔って街を歩いている時に正面から歩いてきた紅い服の高慢ちきな女が気に入らず路地に引きずり込んで犯した後、顔面に拳を埋め込んだ際、その女は今の私と同じように雨と反吐と飲食店の生ゴミから滴る生臭い腐液でびしょびしょの路上を転がりまわっていた。
「大げさな」と私は女に唾を吐いてその場を去ったように記憶しているが、それは私の誤りであった。謝罪する。いや、犯したことは正しいと思っているから謝罪する気はないし、顔面を潰したことについても同様。しかしすまん。大げさではない。鼻骨が折れると痛いのだね。私がその時吐いた言葉、その一点にのみ誤りはあった、あの夜。
「さて、と」
私の脳裏に銭の笑顔が突如浮かんだと同時に痛みは消え、私はまたしてもそう言いながら立ち上がった。そしてしっかりとした足取りで框を跨ぎ、サンダルをつっかけて玄関扉を開けた。
(つづく)