【短編小説】幸福の勇気#3
空の内臓か
内臓と言っても全部ではなく、主に胸骨から臍にかけてのいわゆる腹部に存在しているはずの臓器である。勇気のそれを大鴉は咥えて周囲を探るように鋭い視線を巡らせていた。
大鴉はフン!フン!というような具合に首を振っていたが、その視線はやがてぴたりと汚らしい男を捕え、約15分間そのまま凝視を続けた。長かった。しんしんと雪が降りつもる中、腹に大穴を開けたガキと自分を凝視する大鴉、これを交互に見比べながら素尻を雪に擦り付けてなんとか逃げ出そうとしたのだが、雪が深く尻は後ろに進まない。長い。時間が長い。
突然大鴉は動いた。
まず一歩を踏み出した。
大鴉なので一歩と言ってもかなり大きいのだけれど、見た目的にはなんとなくよちよちしていて若干滑稽な歩き方にも見え、しかし汚らしい男にはそれを笑う勇気がなかった。ガキの腹を食い破ってその内臓を咥えた大鴉がいかによちよちとは言え、自分に向かって歩いてくるのだ。恐怖意外に何もない。
「えへへ」
笑ったのは勇気であった。
「おまえ、笑ってんじゃねぇよ!腹に穴空けて。ってかなんで生きてんの?」
汚らしい男としてはとりあえず訊くしかなかった。
「しらない」
勇気の応答はにべも無かった。わからんだろ、そりゃ。
人間ふたりがそんな問答をしている間にも大鴉は汚らしい男に向かって一歩ずつ確実にしかしよちよちと歩いてきた。眼光は相変わらず鋭かった。そしていよいよ大鴉は汚らしい男の目前、つと立ち止まると嘴に咥えた勇気の内臓を男の腹あたりに擦りつけた。汚らしい男の汚らしいシャツに勇気の血が染み込み、内臓に癒着した分泌物がぬめぬめと音を立てた。
汚らしい男は汚らしく嘔吐し、その吐瀉物が眼光鋭い大鴉の頭部を汚らしく汚した。
大鴉は一旦、もう鬼そうまさに鬼の形相で汚らしい男を睨むと「てめぇ!」と一声鳴いて頭を振った。純白の雪、大鴉の咥えた勇気の内臓、汚らしい男の顔面、やや離れた場所で静観していた勇気の足の甲にまで汚らしい男の反吐が撒き散らされ、全てを汚らしく穢していった。
素尻で後ずさり続ける汚らしい男に今一度顔を向けた大鴉は
「どぅん」
と呻き、その巨大な真っ黒い翼を一度精一杯に広げた。汚らしい男の視界は暗黒に包まれた。直後、ドゥウーンという重低音のまるで宇宙ロケットを打ち上げる時のような地響きというか村全体が揺れるレベルの振動を空気中に発生させながら打ち付けるように羽ばたき、暴力的なスピードで真っ直ぐ上に向かって飛び去った。0.01秒ほど空が裂け、空の内臓が見えたが一般人の目で認識できない速度で修復し、空は何事もなかったかのように口笛を吹いた。
「見えたね、空の内臓が」
「見えたのはお前の内臓だよ、見えたってか俺の身体にくっついたよ気持ちわりぃ。いちばん気持ちわりぃのはおめぇだよ、だから何で生きてんだよ」
最初のなんだかちょっとハードボイルド的な印象からは想像できない饒舌ぶりで汚らしい男はまくしたてた。
勇気はただえへへと笑い、降りつもる雪の中に立っていたし、汚らしい男は湯降りつもる雪の中に素尻を突いてへたり込んでいた。かなり長時間そうしていた。
やがて汚らしい男の頭に雪が積もりだし、時間が経過すると共に男の姿を隠しつつあった。しかし、勇気には雪が積もらず、というよりも雪は勇気を避けるように降り、勇気の足元に積もっていた。なんというか、勇気の足元に土台を作るような感じで降りつもる雪はそのまま固まって雪柱となり、勇気の足の裏と同化しているように見えた。
「おめぇ、さ、寒くねぇのかよ」
足元がカチカチになっていく勇気を見ながら汚らしい男は勇気に声をかけた。
「寒くない、むしろ熱い。主に腹に空いた穴が」
ガキの言いう事なので注釈を加えると、正確には腹に空いた穴の周囲が熱いのであろう。穴と言うものは空いてしまえば虚無なのであり、熱いも寒いもない。
「えへへ、足が動かせないよ」
勇気が照れるように頬を紅潮させてそう言ったのだが、汚らしい男は返事をせず、ただ白と灰色と黒のグラデーションで埋め尽くされている空を見上げた。
…to be continued