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自由と、寂しさと。

2020年初秋。私は昔よりもずっと自由になっていた。そして相変わらず、どこか寂しかった。事業も、子育ても以前に比べたら無いようなもので、忙しさが何も紛らわしてくれなくて。目の前の寂しさを、素手ですくいあげるしかなかった。でもまじまじと見るそれはやはり、生きる実感とか、人間らしさとか、そのものみたいだと思った。

仕事よりも、付き合いよりも、子育てよりも、自分が先に立つ自由さ。だからこそごまかすことのできない、圧倒的に一人だというこの感覚。往生際悪く、孤独をごまかして生きようとする人間の・私の中にある弱さを笑いながら、今日はそっとこの寂しさに身を寄せる。ただそこに留まってやる。他の誰でも無い私のために。

その昔、私は自由なんてない世界に住んでいた。フジテレビのアナウンサーだった父は、私が2歳の時仕事を辞めて家族を引き連れ、ワゴンカーで2年弱に渡る日本放浪の旅に出た。終の住処を探す旅で、たどり着いた千葉の片田舎の古民家での暮らし。自然の極地で子供を育てる暮らしに翻弄される母は孤独で、20歳近くも年上の父はどこまでも自由で。両親はよく派手な喧嘩もしていた。私たちは醒めない長い夢の中にいるようでもあった。

私たちは、とんでもなく汚い古民家に住まい、釜で料理をして、火で暖を取った。木に懐くように遊び、庭にティピーを立て、病気になれば薬ではなく漢方や枇杷シップをした。季節の野草を採って食べ、登下校で野生動物に遭遇し、作物を育て稲を植えて暮らした。今話すと「最高じゃん」と言われる私たちの生活は、よく言えば先進的でナチュラル、でもその実、ただただ過酷だった。でもそんな日々の裏側で、父は畑と田んぼに立ち、土を触ることでやっと自分が生きていることを実感できたことを後に聞いた。

大都会に生まれて、日本全国をワゴンで周り、始まった大自然での暮らし。時に殺しあうかもしれないほどの両親の喧嘩も気にならないほど私は、子供ながらに世界の全てである、その田舎の土地の皆に馴染もうと必死だった。生まれも育ちも相当なので、いつも浮いてしまう自分を恥じながら、周囲に認めてもらうために、子供ながらに相当な努力をした。それが私の、世界観の始まり。世界観が、私の内側を育て続けた、と思う。

気を抜かずに周りの全ての人を洞察し、自分が「どこか間違った存在」だと捉え、正しくなろうと改善し続ける。私は忙しかった。諦める暇も、言い訳をする余裕もなく、やらなくてはいけないことが山ほどあった。物心ついた私はいつも、皆が住んでいる世界の外側にいて、目の前の疎外感を埋めようと必死だった。私の実行力は凄まじく強かったと思う。勉強も運動も人並み以上の結果を出した。

忘れられないのは、お風呂を薪で焚き続けた経験。「咲が入らないならやらなくていいよ」と責任を渡され、思春期の私は「やる」以外の選択肢を持たなかった。炎がつき、燃え移り、安定していくまでの2時間ほどの過程をぼうっとを見つめながら私は「なぜ自分はこんなことをしないといけないのだろう」、「なぜ生まれてきたのだろう」と考え続けた。雨の日のそれは、火を焚く難易度に比例して深刻さを増した。周囲に阻害された私は、ぞっとするほどの孤独を、誰にも言えずに飼っていた。

何一つ望んでいない暮らしの中で、私は自分でも感心するほどもがき続けた。「こうしたい」なんて生易しいものじゃない。自分が世界の外側にいるという絶望。その真っ暗闇に飲み込まれることは、死だと本気で思っていた。その命がけのもがきが、私をビジネスの世界に没頭させ、私に起業させ、情熱大陸出演までを果たさせたと思うのだ。全ては、この世界に受け入れてもらうためだった。

あれから25年。
私は、世界の内側に来れたのだろうか、と考えてみる。

息を吸って、目を閉じる。涙がにじむ。「あぁ」と深いため息が漏れる。「あぁ、来れていないな」と、わかってしまう。小さな絶望の中で、今いる場所を噛み締める。私は相変わらず、まだ世界の外側にいて、一人でそこに立っている。いつか行ける訳でもない。私はどうやっても、この世界の内側にはいけない人間だったのだ

でも、今ならわかる。それは欠陥ではなく、運命であり、言い過ぎれば才能なのだと。そうじゃなきゃ見えないものを、私は見てきたじゃないか。世界の中で、何かを疑わずに幸せに生きられる人もいる。でも、世界に弾かれた私は、全ての前提を疑い、この広い世界と対峙させられている。それが私の覚悟なのか、神様から選ばれたのかは、今の私にはまだ分からないけれど。

私が初めて自由に触れたのは、15歳の時。「高校は自分で選んだら?」と言われ、厳しいと有名な私立の進学校に自分で進路を決めた。お風呂を焚くことからも解放され、通学方法も、部活も、何もかも自分でしがらみなく選べるという感動をかみしめた。不自由な世界から、私はえいっと飛び降りたのだ。そこにあるのは、開放感というよりも、果てしない輝きだった。自分の内側からこみ上げるパワー。自分で生きる(選ぶ)ことに対して、私は圧倒的な喜びとやる気に満ちていた。

私は、育ててきた暗闇と、手に入れた眩しい光とに、突き動かされてここまで来た。探し求めた自由の正体は、「誰かが決めた価値観の中の幸せ」を諦めることだったのかもしれない。「自分のことは、どこまでも自分で決めるという覚悟」を自由と呼ぶのだろうと、今の私は思う。そしてだからこそ自由は、孤独とか寂しさとかとは、どこか切り離せないのだ。嬉々として心弾ませた自由の先に、こんな寂しさとの対峙が待っていようとは、セーラー服を着て浮かれていた私には想像もつかないから、人生は面白い。

最近の毎日は緩やかだか、こんなにゆったりと深いところから言葉を吐き出したのはとても久しぶりな気がする、と書きながら思う。37年前、私は自由からずっと遠いところに生まれ落ちた。そして、自由を求めてこんな場所までやってきた。今いる場所には、生々しい寂しさもある。でも、ここは寒々とした場所ではないと思う。世界の外側にいること、人間は一人だということ、それを背負った清々しさと相まった、根源的な人間であることから逃げていない、寂しさ。それは、つながりや命にちゃんと涙できる暖かさでもあると思うから。

若い時から急かされてきた目標も、手に入れないといけない人生の宿題も、私なりには一旦終わったような気がする。今の私に、正直具体的にやりたいことは無い。ストイックに潔癖に自分の事業だけをしてきた私は、縁のある単発のお仕事と出会いながら、ただ緩やかに手を広げて好きなことをして家族と暮らしている

やっぱり今も、未来は想像もできない。でも、自由を求めた親という一人の人間の決断から端を発したこの私の人生を、誰のもの・せいでもない自分のものとして歩んでいる。自由と寂しさと、そして、確かな感覚と共に。

これからも、私は精一杯目を見開いて、感覚を研ぎ澄まして、37歳という年を、30代という残りの数年を、味わいながら生きていきたいと願う。自由という、奥深い階段を上がりながら。

photo by Kuppography 久保 真人

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