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切なさを泳ぐ

珍しく保育園に遅刻して、駅に向かって歩き始めた年長のグループを商店街の中に見つけて 追いつき、私と2人で息を切らした娘は、2人ずつ手を繋いで歩くそのグループに駆け寄る。9人クラスだから、私に手を振ると1人で少しだけ寂しそうに、誰とも手を繋がず1番後ろを1人で歩き始めた。

私から見える最後の角で何度も手を振って、角の向こうの壁に映る娘の影が、その先でも手を振り続けていたことを教えてくれて、それもすぐに見えなくなった。忙しい朝だけど、時が止まったように、私はその角を見つめ続ける。明るい光、朝、輝く緑。だけど、私は涙を流す。静かに、ふっと嗚咽する。


一瞬の、でも永遠の、空虚。


もう絶対に戻れない道を私たちは、歩いてる。その絶対的な事実。寂しさとか怖さとかいろんなものが、反応して込み上げる。あぁ今日も朝の時間の分、私はその道を既に歩き切ってしまったんだ、と。そのことをいつもよりも確かに感じる。瞬きをしないように見つめたとしても時間は過ぎ去っていく。少しの容赦もなく。

娘はあと少しでで、0歳から通った保育園を卒園する。人生は不思議だ。赤ちゃんだった彼女が小学生になる、という嘘みたいに信じ難いことが、こうやってありふれた毎日の中で、いとも簡単に起きてしまうのだから。特に最近は、時間が前よりも早く駆け抜けていくように感じる。振り落とされてしまいそうなほど、早く。

朝の余韻を引きずって、私は午前中の仕事を終えて、駅前を自転車で走っていた。朝と同じように、真っ白な光に照らされた世界は眩しくて、緑はキラキラと輝いていた。私は目を細めて、左から右へと見慣れた景色に妙にゆっくりと視線を送る。なんでもない光景に、急に胸が詰まる。あと何回こうやって、この場所で呑気に自転車を漕ぐのだろうか、と。

目を凝らしてみれば人生は、「終わり」という節目でいっぱいだ。

卒園をして、引っ越しをして、こうしている間にも娘は、抱っこをせがむこともなくなり、1人で眠るようにもなるだろう。一瞬、たった一瞬を私たちは永遠だと思って生きている。いつもと同じ毎日、と思い込んで。私はそれを人よりもずっと強く、意識しているのかもしれない。

3/22、何もなかったところから創業メンバーとして直走ってきた、神山まるごと高専のクリエイティブディレクターを後任の村山海優に託すことが発表された。彼女は自分が口説いてきたこの学校の一番星だ。素直に笑い泣き、何度も転んでも、理想をまっすぐ見つめることができる。もちろん優秀だが、それ以上に存在そのものが希望なのだ。

私は神山まるごと高専を辞めるわけでもない。理事であるし、変わらず毎月神山に通い、私は一生どんな形であれこの学校と関わっていく。だからこそ次のチャレンジとして、託してこの肩書きを手放し、彼女がそれを受け取って、共に新しく一緒に挑む方が、純粋に今よりもっと前に進めると思うのだ。

「咲さんのそういうところが好き」、共に戦った仲間に言われた。

それを聞いて、クリエイティブディレクターという肩書き、実は人生で1番好きだったかもしれないな、とふと思った。電通のエースだった国見昭仁がいるチームでこの肩書きを持つことには、当時は引け目も恐ろしさも、不安もあった。

それでも話し合って、「人間の創造性を最大化する」ということがクリエイティブの広義だと捉え、私はこの肩書きでこの学校を社会に伝える、という大役に挑んできた。愛着のある肩書きを、私は手放してしまった。その方が、単純に未来が明るいと思えたからという理由で。

辞め難きを辞める。いつだって、私のそのアンテナはその感度が高い。人は等しく、誰だって辞め難い。終わりは寂しい。でも、それらを長らえるよりも、辞める時を間違えずに英断する方がずっと人生は豊かで美しい。会社を辞めた時も、CRAZYを退任した時も、いつだってそこに一縷の光が見えてしまうから、私は寂しさを超えて英断できた。

私は、目の前を全力で目を見開いて見つめながら、いつでも手放す準備をしている。

だから、私は目の前のことに一生懸命で、命懸けで、そしていつでも切ない。目の縁に涙が少しだけいつも溜まっている。2度とない今を生きている。もう通らない道を、そうだと知って走っている。それがヒリヒリするくらい分かる。

切ない、と聞くと幸せから遠そうだけど、「切なくもない、なんでもない、何も感じない毎日」を、私は求めていないのだ。切なさ、はいろんなことを含んでいる。それだけ愛おしいものを私は見つけ続け、見つめ続けているのだ。

水面の美しさに見惚れ、生きるリアリティの中で、息を切らして。切なさの先の光に向かって、私はこの人生を泳いでいく。

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