妄想タクシー5 真夜中の花屋さん 全文 16510文字
あけましておめでとうございます。
昨年末、前編、後編に分けて投稿した作品の全文です。
真夜中の花屋さんシリーズの5作品目ですが、1話完結となっておりますので、単独でお読み頂いける内容になっています。
長いので読むのに時間がかかると思いますが、よろしくお願い致します。
尚、作品の元になる『光一くん』はこちらです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
妄想タクシー 5 真夜中の花屋さん
その女性を何かに例えるとするならば、ピーターパンに出て来るティンカーベルの様だというのが一番しっくり来る。
それはある日の夜遅く、真夜中に家のインターホンが鳴った。こんな夜遅くに誰だと訝ってみたのだが、後からその話を妻や子に訊いてみても、誰も知らない、また妙な夢でも見てたのじゃない? なんて揶揄われる始末だった。今では本当に夢だったのかも知れないなんて思い始めてる今日この頃だ。
とにかくその日の話をしよう。
「はい、誰?」
僕は欠伸を噛み殺しながら多少不機嫌な声を出したかも知れない。けれど、こんな真夜中だ。相手が不審人物である可能性も確かにあったので充分な警戒をして、緊張感を持ちながらその呼び出しに返事をした。
するとそんな警戒心を吹き飛ばすほどの、明るい鈴を鳴らしたような声音で、
「こんにちは、真夜中の花屋さんをやっている紗妃と申します」とそんな声がした。
そのツッコミどころも満載なフレーズは何故かしら耳に心地良い響きを与えてくれた。
一体何を言ってるんだろうと目を擦りながらもう一度ちゃんとインターホンのモニターに目をやってみると、なんだかそこだけほんわりとした光に包まれて白いふわふわした洋服姿の女性がニコニコ笑って手を振っている。そして、
「関谷修さんですね」
と僕の名前をフルネームで口にした。
「え、そうだけど、あなたは誰?」
「ええ、ですから、真夜中の……」
「あ、それは分かったから、何かご用ですか? 花屋さんて言ってるけど、花なんか要りませんよ」
「はい、それは大丈夫です。ただ、関谷修さんにお伝えしたい事がありまして、風見光一さんの件で」
「えっ!」
僕は絶句した。
今確かに彼女の口から風見光一という名が聞こえた。
その名前は……、その名前は、僕にとって非常に大切な、一生忘れられない名前だ。
「今、なんて言った?」
「はい、ええ、ですから、真夜中の……」
「いや、違う! その後!」
「はい、それは大丈夫です。ただ、関谷修さんにお伝えしたい事がありまして、風見光一さんの件で」
「それっ!」
モニターの中で紗妃という女性が嬉しそうに小さく飛び跳ねて幸せそうな顔をしている。
「何で、その名前を知ってる?」
僕が問い掛けると、今度はその白い妖精みたいな姿の後ろから、きちっとした身なりのスリムな男性が現れた。
「関谷さま、突然に驚かせてしまってすみません。でもどうしても貴方様にお聞きして頂きたい事柄が御座いまして、もしよろしければ私どものタクシーにお乗りくださいませんか? お時間は取らせません。申し遅れました。私は『思い出タクシー』の運転手、中村と申します」
は? 思い出タクシー? 次から次へと謎な言葉ばかりが聞こえて来る。しかし、その声は妙に人の気持ちを安らかに落ち着かせてくれる響きがある。
まったく狐につままれたような気持ち。夢でも見てるのかしらん、とそんなことを思いながらも、僕は何かに導かれるようにふらふらと玄関に向かって歩を進めドアを開けて外を覗いてしまった。
すると、そこは、どうだろう? 真夜中だというのにひとつひとつの物陰からそこはかとなく淡い光が射して、イルミネーションに彩られた別世界のように思えた。
そして、モニターで見た通りの男性と妖精(いや、よく見ると単にふわふわしたレースの飾りがついた白いワンピース姿である)の二人が並んで僕を出迎えてくれている。その向こうに一見何の変哲も無い水色のタクシーが一台停車していた。
「さあ、こちらにどうぞ」
それは運転手中村の声であったか、あるいは紗妃の声だったか、もはや僕には判別出来なかった。
「あっ、でもこんな格好じゃ」と、僕は慌てて自分の衣服に目をやる。そして驚く。いつのまにか、まるでゴルフにでも出掛けるような真新しいセーターとスラックス姿に着替ていた。
訳も分からぬまま促され、僕はタクシーの後部座席に乗り込んだ。柔らかく温かなシートが心地良かった。
僕の隣に真夜中の花屋さんと言っていた紗妃が座り、運転席に中村が乗り込みエンジンをかけた。とても静かだ。辺りは誰もいない。いつも見慣れている外の風景がこんなにも綺麗な佇まいの町並みだったなんて、驚きだ。
タクシーは静かに町の通りを走り出した。この滑らかな走りは車に乗っているというより、波の無い夜のみずうみに滑り出したゴンドラのようだと感じた。
しかし、一体これから何があるのか、どこへ行くのか、さっぱり分からない。だけど一向に不安な気持ちにならないのは何故だろう? 不思議だ。夢の世界へでも迷い込んでしまった気分だが、どこかこのサプライズを楽しんでいる自分がいることに僕は気付いていた。
「あ、それでお話というのは?」
ひと息ついてこの環境に身を落ち着かせた頃、僕は質問した。
「そうですね。今は外も暗いことですし、温かいお昼間の公園に場所を移動しましょう」
紗妃は名案を思い付いたかのようにパチリと顔の前で手を打って、中村に何か小声で囁いた。
中村は「分かりました」と素直に頷いて、背中越しに僕へと声を掛けた。
「関谷様、少しワープ致しますが、気になさらぬようお楽しみください。危険はありませんので」
「え? どういうこと? ワープ?」と、僕が戸惑っていると、ふわりと車は空中に飛び立った。
「うわっ、うわっ、空を飛んでる!」
僕は驚嘆の声をあげ窓の外の景色を眺めた。夜の町並みがどんどん小さくなってキラキラと輝く宝石箱のように映し出される。怖くはなかったが知らずのうちにシートベルトを握り締めていた。何せ空飛ぶ自動車に乗るのは初めての経験なのだ。
と、突然たくさんの光が束となって前方から現れ、車はあっという間にその光の中に包まれて行った。
何の衝撃も音も無く、車は地上に降り立った。
気が付けば窓外は陽が燦々と射し込み、昼間の光景に変化していた。青空が澄み渡り、気持ちの良い穏やかな春の日みたいに見えた。
ここはどこだろう? 初めて来る場所だ。芝生が広がり所々に樹木が立ち並び、少し高台に位置してるのだろう。駐車場の向こうは街並みが眼下に広がり、遠く海岸へと続いている。
「随分遠くまで来てしまったのかな?」
僕は誰にともなく訊いてみた。
「そんなことありませんよ。すぐ近くです」
隣で紗妃が和かに笑って答える。
中村がドアをオートで開けて、それぞれ外に降り立った。
ああ、なんて気持ちの良い場所なんだ。空の青さと芝生の緑がとても綺麗で、空気がおいしい。なんだか生き返った気分になる。
芝生の間には小さな砂利を敷き詰めた小径があり、そこをサクサクと足音を立てて歩いた。少し行くと木陰に白いベンチが見えた。
「このベンチに腰掛けましょう」
先を歩いていた紗妃が振り向いてそう声を掛けた。
ベンチ前の広場にはブランコや滑り台などの遊具があり、家族連れが一組遊んでいた。若い夫婦と幼い子供が二人。ボール遊びに夢中になってる。楽し気な笑い声が風に乗って聞こえて来た。
「さて、お話ですが」
一段楽して落ち着くと、紗妃が畏まって口を開いた。
「ああ、そうだ。風見光一の件」
忘れていた訳ではないが、ここへ来るまでの目まぐるしい不思議の連続に心奪われて、うっかりしていた。家を出て来た本来の目的はそれだ。
「五年前、関谷さんは風見さんのご実家を訪ね、光一さんの遺影に手を合わされましたね」
「そうだった。あれからもう五年も経つのか……」
「その時、光一さんのお母様から事故についてのお話は伺いましたか?」
「いや、バイクの事故だったらしいけど、詳しくは訊けなかった。ただ、事故は光一のせいではないと、それだけは聞いたよ。でも……」
「でも、何ですか?」
「いや、こんな事、今更言ってみても仕方のないことだけど、その後、同窓会で会った昔の友人達と付き合うようになって、集まる度、昔話に花を咲かせるんだけど……、たまに風見光一の噂話を耳にする事があって……」
僕は胸の中に広がり始めた嫌な思いを感じ取り、顔を歪めてしまう。
ここ数年いつもそうだった。風見光一は僕にとっては命の恩人、一緒に過ごした期間は短いものだったけど、決して忘れることは出来ないかけがえのない存在のはず。
けれど、昔の友人達から伝わって来る彼についての噂話はどれもこれもが僕の心を揺るがす不穏な事ばかりだった。
「どんな風に話が伝わっているのか、良ければ聞かせて頂けますか?」
紗妃は透き通った大きな瞳でこちらを見詰めて来る。濁りのないそんな真っ直ぐな眼で見られたら、何だか心のモヤモヤを全て打ち明けずにはいられない。不思議なパワーを感じてしまう。
「僕と光一くんは中学三年生の時のごく短い間だけの付き合いなんだ。だから僕が知ってる光一くんは彼のほんの一部分だったのかも知れない。僕が病気から回復して復学した時、もう彼は転校してしまった後だったからね」
「その後は一度も?」
「そう、一度も会えずじまいさ」
紗妃は黙って頷きながら僕の話に耳を傾ける。僕は更に話を続ける。
「県外の高校に入った彼は、バイクに乗ることを覚え、やがては集団で暴走行為をするようになったらしい。その暴走族は地元では有名な悪の集団だったらしく、彼はそこの総長とも対立して、決闘騒ぎを起こしたらしいよ」
暗い話であったが、こうやって感情的にならず第三者目線でスラスラ話が出来るのも、こんないかにも平和を感じさせてくれる場所に来たからかも知れない。紗妃が話をするのにこういう場所を選んだのもそんな理由からなのだろうか?
それに、それはもう昔の話だし、当の本人は既にこの世の人ではないから、今更、罪を問うたりする必要はない。そう、すべて終わった事だから。
「あの事故の件もいろいろ憶測されてる。伝え聞いた話によると、彼は結局、センターラインを踏み越えて反対車線をバイクで逆走して、横断歩道の辺りで自転車に乗った中学生を大きくはね飛ばした。そして、そこに運悪く右折し損なって横転したタンクローリーに巻き込まれて亡くなった。そういう事らしい。無謀なバイクの暴走運転がもたらした結果で自業自得だよと、みんなは口にしていた。
そんな話ばかり聞かされると……、僕は、苦しくて仕方なくなるんだ。だって僕の中には、彼の血が混ざっているから」
中学生の頃、病気になって手術をした。その時の輸血用の血液が足りなくなって困っていた。すると、そこに現れた光一くんが申し出て、RHマイナスのO型の血液が一致し、僕の身体は彼によって助けられた。それを僕はずっと知らずにいた。
後年、大人になってから母親からその話を聞かされて心底驚いた。その時には、もう光一くんはこの世にいなかった訳だが……。
暫くの間、我々は、口を閉ざして黙していた。時折涼しげな風が耳朶の端を通り過ぎて行く。
「これで僕の聞いたことは全部話した。それでもまだ何か別の話があるのかい?」
紗妃は潤んだ瞳でひとつ頷いた後、
「関谷さん、あなたがご友人から聞かれた噂話は、嘘ではないにしろ、真実がちゃんと伝わっていません」と言った。
「嘘ではないにしろ、真実ではない?」
僕はその言葉の意味を探ろうと噛み砕くように復唱した。
「はい」
僕は改めて首を捻った。明らかに自分より年少のこの女性が、僕ら元クラスメイトも知らない何を知っていると言うのか?
そもそも、この人たちは一体? しかし、こうなってしまった今、僕にある選択肢は話を聞いてみること、それ以外にない。それを信じるかどうかは後で考えればいい。
「では、聞かせてくれないか? 本当のことを」
「はい、それをお伝えしたくて、私たちはやって来たのです」
紗妃の瞳がキラッと光った気がした。
「お願いするよ。教えてくれ。光一のことを」
僕はこの胸の中に存在する靄をどんな形でもいいから晴らしたかった。
すると紗妃はベンチの端に座ったきりじっとしていた中村に何かを促した。中村は短く「はい」と返事し、手に持ったバッグの中から何やらタブレットの様なものを取り出して、タッチパネルで操作を始めた。
何を呼び出しているのだろうとそれを一緒になって覗き込んでいると、前の広場で遊んでいた家族連れの男の子が放った白いゴムボールがブランコの鉄の支柱に当たり、ポーンと大きく跳ね上がったのを目の端で捉えた。
その白いゴムボールが更にポーンポーンと大きく跳ね上がって、空の青さと芝生の緑とが混ざり合い、陽の光に照らされて弾みながら、突然巨大なものに姿を変えて迫って来た。
「あっ」と声をあげた時にはもうすでに遅く、僕はその巨大なゴムボールに巻き込まれていた。
身体が宙に投げ出され、ゴムボールの白と空の青、芝生の緑、それに太陽の光が溶け合って、クルクル回転しながら、僕は飛ばされる。
ポーンポーンポーン。
眼がぐるぐる回る。
意識も回転しながら飛んで行く。
ポーンポーンポーン!
ああ、このままどこへ飛んで行くのか?
ふわっと大きな息を耳元に吹きかけられた様な感触を覚えて僕は目を覚ました。
「あぁっと、ここは何処なんだ?」
なんか波の音が聞こえる。どうやらどこか海の近くみたいだ。起き上がって辺りをキョロキョロと見回してみる。草の生えた広い空間が続いている。
はて、何をしてたんだっけ? 何だか記憶が曖昧だ。
あ、そうだ。芝生の綺麗な公園のベンチに座り、紗妃から風見光一に関する話を聞こうとしていたんだ。中村がタブレットを開き、タッチパネルで何かを操作していると、白いゴムボールが飛んで来て……、それに巻き込まれて、ぐるぐると回転し、いろんな光や色が混ざり合って、気を失った。
あの二人は……、紗妃と中村はどこへ行ったのか? 姿が見えない。自分一人だけがこんな所に飛ばされてしまったのだろうか?
「おう、やっと目覚めたか?」
呆然としている僕に突然そんな声が掛けられた。誰だ? 知らない声だ。
振り向くと、油や何かで薄汚れた白いツナギ服の男が工具を手にニヤニヤしている。
「な、何ですか?」
僕は無意識に身構えた。
「怖がらなくていいよ。何も危害は加えないからさ」
男は歳の頃は僕と同じくらいだろうか? 目つきの鋭い尖った雰囲気のシャープな顔をしていたが、笑うと目尻に皺が寄り、逆に人懐っこくも見える。
「あ、あなたは誰なんですか? それに、ここはどこ?」
それを聞くと男は、ぶわっはっはーと白い歯を剥き出し、大きな声を出して笑って頭をボリボリと掻く。何がおかしいんだろう?
「俄には信じられなかったけど、どうやらアイツらの言ってたことは本当らしいな、よし分かった。まあとにかく、こっちへ来いよ」
と、僕の腕を掴んで立たせた。どうやら僕は空地の草の上に寝転んでいたらしい。
何がなんだか分からないまま、ツナギ服の男に引っ張られて空地を横切り、道路の向かいにある車の修理工場みたいな建物の横の路地を通り、工場の裏手にある庭の一角へと連れて来られた。
そこには木製のデッキチェアとテーブルが設置してあり、男はそこに僕を座らせた。庭の向こう側はすぐ海になっており、陽光が当たってキラキラと眩しい。時刻は真っ昼間のようだ。
港が近いらしく対岸に大きなコンビナート工場の施設が横たわり、時々どこからかカーンカーンと工事現場のような音とそれに混ざって大型船のボーっという長くて低い汽笛の音が響いて来る。
「ちょうど昼飯の時間だからな」と男は椅子の上に置いてあったビニール袋からメロンパンとパック入りの牛乳を取り出した。
「ほら、お前も食えよ」と言って僕の前にもメロンパンと牛乳を放り投げる。
「い、いや、僕は……」
「いいから、いいから、一人で食ってても旨くねえだろ。食いながら話をしようや」
そう言いながら早くも大きな口を開けメロンパンに齧り付いてる。
「あのぉ、あなたは一体誰なんですか?」
「え? 聞いてないのか? 早川房夫って言うんだ。みんなからはハヤブサって呼ばれてるよ。イナヅマと俺は親友だったんだよ」
何の話かさっぱり分からない。
「イナヅマ?」
「おう、そうよ風見光一のことだ」
風見光一! 僕の身体がピクンと反応した。
「光一がイナヅマ?」
う〜ん、頭がまだどうにも上手くついて行かない。今、目の前でメロンパンを頬張っている男がハヤブサで光一がイナヅマ。何だかどちらも暴走族のメンバーみたいな呼び名だ。やはり光一が族に入っていたという噂は本当だったのか……。
「えーっと、それじゃどっから話しすっかなぁ。やっぱり俺と洋介の関係から言わなきゃしょうがねえな」
洋介? また知らない名前が出て来た。
「あ、あの、ちょっと待ってください。なんで僕にそんな話をしようとするんですか?」
「え? だってよぉ、頼まれたからさ」
「頼まれた? 誰に?」
「名前はよく覚えてねえけどよ、ふわふわした白い服着た姉ちゃんとキッチリした身なりの男の二人組だよ」
「ああ、その二人なら分かります」紗妃と中村だ。
「いきなりやって来てよ。今から二時間後にそこの草むらに男が現れるから風見光一に関する話をしてあげて欲しいって頼むんだよ」
「あの二人があなたに?」
「ああそうだよ。俺も最初は何言ってんだコイツらと思って相手にしなかったんだけどよ。あまりにも真剣に真っ直ぐな眼をしてこちらを見て来るから。何だか妙な気分になっちまって」
「妙な気分って、どういう事です?」
「いや、風見光一の名を出したからさぁ、そいつがどうにも引っ掛かっちゃって。あんたオサムって言うんだろ? イナヅマ……、いや光一と言った方がいいか、奴とは幼馴染らしいな。話の経緯はアイツらから聞いたよ。
俺も実は、光一に関すること、事故の件とかよ、自分なりに調べてみた事があって、それを誰かに話したくてモヤモヤしてたんだよ」
「事故のことを調べたんですか?」
「ああ、だけどもう十五年も昔の話だからな。今さら誰に話そうにも相手がいなくてさぁ」
ハヤブサこと早川房夫はそう言いながら、それがクセなのか頭をボリボリと掻いた。
「そうなんですか。それは……、あ、その前に、ここは何処なんですか? それとあの二人はどこに居るんですか?」
「おう、心配するな。あの二人ならよお、話が終わった頃を見繕ってまた迎えに来るって言ってたよ。それからここは俺が勤める車の修理工場の裏庭だよ。今日は休みで俺一人仕事してて誰も来ないから安心しな。そこに見える海は横浜港だよ」
僕は対岸に見える工場の煙突から低くたなびく煙と水色の空を眺めて溜息をついた。随分遠くまで来ちゃったものだな。
それから僕は早川房夫の長い話をそこで聞くことになった。けれどハヤブサの話はその名前の割りにはあっちこっちの枝葉に寄り道しながら思い出語りのような調子だったので、それをそのまま書くのも読むのも大変だと思うので、僕が代わりに第三者目線で小説風に書き記して行こうと思う。
早川房夫は横浜市郊外の貧しい家庭に生まれ育った。家は一つの棟に何軒もの世帯がひしめき合う長屋で、スレート屋根の所ならまだしも、房夫の家はその地区の一番奥、トタン屋根の見窄らしい小屋だった。そこら辺り一帯は貧民地区と呼ばれ、治安も悪く、何か事件や災害があると、直ぐに疑いの目を向けられ、警察は周辺に刑事を配置させ見張りを立たせるのであった。そのせいも有り、世間の人からの風当たりは強く、謂れのない中傷を受けたり、時には直接石をぶつけられたりする、そんな土地柄だった。
その同じ長屋に房夫のひとつ歳上にあたる鬼束洋介が暮らしていた。幼馴染の二人は本物の兄弟の様に仲が良く、房夫は洋介を慕ってどこに行くのにも後を追って一緒に遊んだ。洋介の方も房夫を本当の弟の様に面倒を見て可愛がっていた。
力の強い洋介はケンカがめっぽう強く、学校などで房夫がいじめられたりすると直ぐに飛んで来て相手を殴り倒した。教師にはよく叱られたけど、そのお陰で房夫は順風満帆な学校生活を過ごした。
ただし、貧乏だけはどうしようもない。中学を卒業すると洋介は近くのバイクショップの見習い工として働き始め、房夫もまた同じ様に中学を卒業すると同時に別のバイク屋に就職した。
その頃から洋介と房夫の興味の対象はバイクを走らせる事が全てとなった。
洋介は廃棄寸前のバイクを手直しし、別のバイクから使えそうな部品を集め改造バイクを作り、それを乗り回した。免許など取りに行ける金もないからもちろん無免許である。やがて、房夫もそれに倣って改造バイクを作り、四六時中、二人で乗り回して遊んだ。
最初の頃こそ郊外の空地や広場で乗り回していたのだが、その内運転テクニックを身につけると自然に少しずつ街中の方へと足を向けた。
その頃は洋介も房夫も夜の道を風を斬ってバイクを疾走させることだけに爽快感を感じていたのだが、ある時、洋介を悪事に導いてしまうきっかけとなる事件があった。
それは洋介の父親が証拠もないのに傷害窃盗罪の犯人として逮捕され、無実を訴えつつも病気のため裁判を待たずして獄中死してしまったのだ。もともと父子家庭だった洋介は身寄りが無くなり、尚も悪い事にそれを理由として勤めていたバイクショップもクビになってしまった。
洋介は警察で虫ケラみたいに扱われている父親の姿を面会の度によく目にしていた。亡くなったとの連絡を受け、遺体を引き取りに行った時も、犬や猫の死体を扱うのと同様の類で、ぼろ布を纏った父親の亡骸を抱きかかえ、悔し涙に暮れた。
それ以降、警察というものを目の敵にする様になった。
週末になると洋介はスパナや鉄パイプなどを持ち、改造バイクで夜の街へ繰り出しては、車や店舗、公共の物を壊して回ることを繰り返した。十七、八歳の頃だ。房夫も何度か洋介の後を付いて走った。
洋介は主に高級車と言われる車のミラーを走行中にスパナで叩き壊す事に酔いしれていた。やってみろと言うので、房夫も試してみた。それはある種の快感を二人に与えた。当然、パトカーや白バイに追いかけられる。しかし、洋介も房夫もそれを振り切って逃げ切る、それだけのスピードと運転技術を身に付けていた。無いのは免許と金だけだ。
房夫がどうして高級車を狙うのかと聞くと洋介はこう答えた。あいつらは保険に入ってるから奴らの懐はそんなに痛まない。修理に出せば板金業者や修理工場が儲かる。これはある意味社会に貢献してるんだぜと嘯いた。でもその言葉に房夫は妙に納得した。
そんな事を繰り返していると自然に噂が噂を呼び、凄い奴がいるとの評判が立ち、同じ様な仲間が集まり始めた。みんな社会に対して何かしらの不満を抱えている奴ばかりで、洋介に憧れてバイクを乗り始めた若い奴らがこぞって二人の周りに集まって来た。その頃から洋介は『オニ』、房夫は『ハヤブサ』と呼ばれる様になった。
洋介はその集団のカリスマ的存在になり圧倒的なパワーでみんなを統率した。中には反抗的な奴もいたが、力やバイクの運転で洋介に敵う奴はいない。刃向かう者はタイマン形式の決闘で悉く洋介に叩きのめされた。
洋介はこの集まりを『カミナリ』と名付け、週に二度三度、暴走行為を繰り返しては集会を行った。敵対する暴走族グループとの争いもいくつかあった。その度に洋介は敵のヘッドを叩き潰し、自分の傘下へと編入させた。もはや洋介より力を持つ者は県内どころか関東一園にも存在しなかった。瞬く間に洋介はその世界の頂点を極めた。
そんな時、房夫のバイクショップを訪れたのが風見光一という房夫と同年代の少年だった。光一はすでにバイクの免許を取得していた。房夫が驚いたのは光一の運転テクニックでありメンテナンスやメカに対する豊富な知識である。光一と房夫はバイクを通じて意気投合し、休日の昼間はよく二人でツーリングに出掛けた。
光一は、無茶な運転は一切しなかった。出来ないのでは無い、しないのである。房夫はよくフリーウェイなどで見せる光一のスピードを上げてもブレない身体のバランス、しなやかなコーナリングの仕方。身体とマシンが一体となった滑らかな走りについつい魅せられてしまうのだった。
房夫と光一は月日が過ぎると共にどんどんと親しくなって行った。気が合うとかウマが合うなどのありふれた言葉では言い表せない程、お互いに気心が知れる間柄になっていた。房夫は初めて親友と呼べる相手と巡り合った気がした。これは洋介を慕う気持ちとはまた別の感情である。それに光一に出会ってからは集団で悪さをして暴走する行為に疑問を持ち始めていた。光一からバイクを愛するという事を教えられたからだ。
破壊から得られる爽快感は一時のもので、後に残るものはない。けれど愛情から得られる心の豊かさは、いつまでも消えないのではないか、そんな考えを持つようになった。
房夫が決定的な思いを抱いたのは光一に連れられてレーシングサーキットに行った時の事だ。
光一の知人がバイクレーサーをしていて、頼めばそこのサーキットをレース用のマシンで走行させて貰える。
流石にレース用のマシンは房夫には操れなかったが、光一は以前から手解きを受けており、颯爽とそこの周回コースを弾丸の様なスピードで走り抜けた。その姿は房夫の中に新しい扉を開けてくれた。
バイクレーサーへの道、それを光一が目指しているのかどうかは聞けず終いだったが、その素質と実力は充分に備えていた。
その頃、すでに房夫は『カミナリ』を脱退したいと思っていた。洋介と二人て走り回って遊んでいる時はそれなりに痛快で面白いと思ったが、組織として人が増える度、組の戒律が厳しくなるにつれ、悪戯が犯罪へと変貌して行くさまを見るうち、自分の目指していた世界との違いを感じる事が多くなった。
しかし、その話をすぐ洋介には出来なかった。組の戒律で脱退を希望するものは総長の洋介とバイク対決をして勝たなくてはならない。負けるのが怖い訳では無い。洋介と対決する事は何としてでも避けたいと思っていた。
どうしたものかと迷って悩みを抱えている房夫に気がついた光一は、無理やり房夫を問い詰めてその悩みを聞き出した。
『カミナリ』の事を光一に話してしまえば、そうなる事は薄々感じていた。光一は洋介に会いに行った。房夫の知らない間の事だ。光一は房夫の気持ちをそのまま洋介に伝えた。洋介の返事はこうだった。
房夫の代わりに光一が総長である自分とバイク対決をすること、そうしなければ組織として他のメンバーへの示しがつかない。それに勝利すれば房夫の脱退を許可する。
光一の存在は以前から洋介にも伝わっており、そのバイクテクニックも既に知れ渡っていた。いつかは対決するべき相手と洋介は認識していた。
対決の日が決まり、その事は房夫の耳にも入った。
房夫は慌てて洋介と光一に対決をやめる様に説得を試みた。
しかし、それは無理な話だった。
そういう運命は動かせない。
『カミナリ』の総長になった時点で洋介はもう昔の洋介ではなくなっていた。
特に組の事はもう自分ひとりの思いで後に引く事が出来なくなっていた。暴走バイクと同じ、走れるところまで走り切るしかない、洋介は覚悟を決めていた。そして、何より負ける事がこの世で一番嫌いだ。勝負は死ぬ気でやる。
一方、光一も覚悟していた。房夫のためというよりも、バイクのためと言った方が良かったか。バイクレーサーになるかならないか、それはともかく、バイクを愛する気持ちは誰にも負けない。この対決も逃げる訳に行かない、そう心に決めていた。
その日、多くのバイクに囲まれて光一は港の埠頭に向かった。そこには千メートルを超える長さの直線道路があるのだ。バイク対決はそこで行われる。
一方の端から洋介が、その反対側の端から光一が合図と共に同時にバイクを走らせスタートさせる。二人とも百キロ以上のスピードを出すこと、そして相手のバイクに向かって突進する。先に逃げるか、もしくは転倒した方が負けになる。
闘いの火蓋は切られた。
現場には百人以上の仲間が固唾を呑んで見守っていた。今にも雨が降り出しそうな曇天の日だった。
道路の双方の端から火の玉の様になった二つのバイクが鉛色の海と空をバックに疾走して来た。
近付く二つの轟音。
どちらも逃げない。
誰かが叫び声をあげる。
バイクとバイクがぶつかる寸前、光一のバイクが少しジャンプして着地するとその身はバイクごと沈み込んだ。
そして大きな衝撃音の後に洋介のバイクが身体ごと跳ね上がり二十メートル前方にバイクだけが投げ出されグシャリとコンクリートの路面に激突する音が聞こえた。人はどこへ行った? みんなが身を乗り出したその時、道端の草むらの上にドシンと音がして背中から落ちて行く洋介の姿があった。
光一はどうした?
今度は全員が百八十度首を回して道の反対側を見る。
くるりとバイクを回転させ、こちらを向いて片脚で立つバイクと光一の姿があった。
光一が勝った!
どよめきが起こる。溜息とも歓声とも言えない声が迸った。
暫くは誰もが動けないほどの壮絶な闘いだった。草むらに倒れ落ちた洋介の元へ真っ先に駆け寄ったのは房夫だった。
洋介は失神した様にピクリとも動かなかった。
房夫はヘルメットを脱がし、頬を二、三発叩いた。
やがて、首を左右に振って洋介は意識を取り戻し、目を開いて房夫を見た。良かった。生きてる。
その日から光一は皆から『イナヅマ』と呼ばれ、伝説の男になった。
光一を新しい総長として『カミナリ』を存続させようとの声も上がったが、光一はキッパリとそれを拒絶した。
洋介は右足を骨折しており、数ヶ月入院をして、その後もバイクには乗らなくなった。
『カミナリ』は自然消滅した。
自動車工場の裏、早川房夫の話はそこで一幕目を終えた。
喋り続けて喉が渇いたのか、房夫はパックの牛乳をゴクゴクと飲んだ。自分の昔話に酔いしれたのか、汗ばんだ喉仏が激しく上下する。
僕はため息をついた。呼吸する事さえ忘れて話に聞き入っていた。何だか胸が苦しくなる。
「凄い話ですね。僕には想像も出来ない世界だ。まさか光一くんにそんな出来事があったなんて、驚きです」
僕は思った、真相を知るまでは人の噂話など、てんで信用出来ない。
早川房夫はひと息つくと、ニコニコして何度も頷いた。
「洋介とはそれからもう会わなくなったよ。何となくね。あいつはどこか遠くへ引っ越したと聞いてる。今はどこでどうしてんのかな?」
そう言って、もう一つメロンパンをちぎって口に放り込んだ。僕の方にも「ほれ」と言ってひとつ投げて寄こす。
「いや、もうメロンパンはいいですよ。それより、光一とのその先の話を聞かせてください」
「あ、そうだな。光一とはその後も何度かツーリングに出掛けたんだよ。俺もちゃんと免許を取ってね。主に信州や日光の方とか。あいつのバイクテクニックは相当なものだったよ。惚れ惚れしたね。俺はずっとあいつの背中を見ながらバイクを走らせてたよ。今でも思い出すんだ。高原のドライブウェイを走っている時、夕陽が沈んで行く逆光の中を緩やかなカーブを綺麗に車体を傾けて走る。その夕焼けの中のシルエット。なんて美しいんだろと思ったよ。俺はその時、何度か心の中でシャッター押してたんだろうな。今でもはっきりとその姿を想い出す。あれは確かに一枚の絵だった」
もしここに人の心の中の映像を映し出すカメラがあったら、僕にもその光一の姿が見えるのに、と思った。
でも充分だった。想像するだけで、その時の風景が見える気がする。
「そんな光一がだよ、あの新聞やニュースで流れたみたいに、二十歳の若者の無謀な運転、だとか、反対車線を逆走して自転車の中学生をはねた、とか、それを見たタンクローリーの運転手がハンドルの操作ミスを起こして横転、その結果として事故死した……、なんて事……、そんな事、信じられると思うか? 絶対、ある訳ないんだ、そんな話!」
早川房夫は心の中のモヤモヤを一気に吐き出すかのごとく、勢い込んで口から出た言葉をテーブルに叩きつけた。
「それで……?」
少し黙り込んだ早川房夫に僕は話の先を促した。
「……それで、何か調査されたんですか?」
「あ、いや、現場はT字路でな、周囲は林や田んぼに囲まれていて、おまけに朝早かったから目撃者も何にも居なかったんだよ。あの頃はまだオービスも監視カメラも無かったし」
「そうなんですか」
「ああ、だけど、直接警察の方から関係者という事である程度の状況説明をして貰ったんだ」
「はあ、それで?」
「いいか、現場はT字路で光一はTの文字で言うと縦線を下から上に向かって走っていた。タンクローリーは上の横線の左側から来て信号を右折しようとして横転した。そして光一が跳ね飛ばした中学生っていうのがそこの交差点の横断歩道を左から右に自転車で横切ってるところだったんだよ」
「・・・」
「事故が発見された後の状況としては、タンクローリーが交差点を曲がった辺りで横たわっていて、光一はその下敷きさ。バイクはペシャンコ。
ところが中学生は三十メートルくらい先の田んぼの中に自転車もろともそこに倒れてたって言うんだよ。足を挫いてはいたけど、幸い生命に別状はなく。無事だったらしい」
「・・・」
「タンクローリーのドライバーはバイクが突っ込んで来て自転車を跳ね飛ばした事に驚いてカーブを切り損なったって言い張ってるんだけどさ……、おかしいと思わないか?」
僕は何とも言えなかった。分からない。
「光一が走って来た方向から見ると信号はまだ赤だったんだよ。それに左車線を走ってるだろ。仮に目の前でタンクローリーが交差点に突っ込んで来ても左側に寄れば、巻き込まれる事は無いんじゃないか? 仮に逃げきれなくてもタンクの下敷きにはならねえよ」
「……つまり?」
「ドライバーの人がそう言い張る限り、想像でしか無いんだけど、光一はタンクローリーに巻き込まれそうになった中学生を自転車ごとバイクで跳ね飛ばしたんじゃないか? そうとしか考えられねえんだ」
僕はその瞬間の事を想像すると、何だか体がブルブルと震えてしまって、すぐには言葉が出て来なかった。なんて、なんて、事だ。
「じ、自転車の中学生を助けて、自分が犠牲になったと?」
早川房夫は頷いた。
「それで俺は洋介と対決した時の光一を思い出したよ。光一は相手とぶつかる寸前、ちょっとジャンプしてバイクを沈み込ませたんだ。そうすると相手より下の位置に前輪が入る。その勢いを利用して相手を高々と弾き飛ばす。この事故の時もそれを使ったんじゃないかってね」
また一つ海の方から大型船のボーッという長くて低い汽笛が聞こえた。
「でも、それじゃ、あのタンクのドライバーが嘘を吐いてると言うんですか?」
「一概には決めつけられないけど、その可能性は大いにあるなと思って、話だけでも聞かせて貰いたくて俺はそのドライバーの家を探し出して行ったんだ」
「家に行ったんですか! それで?」
「朝、あいつが家を出る頃を狙って行ったのさ。静かな住宅街だったよ。表札の名前も確認した。俺は陰に隠れて奴が出て来るのを待ったよ。だけどな、出て来たのは奴だけじゃなくて、奴の奥さんが一緒に出て来たよ。幼稚園児くらいの小さな子供を連れてね」
「家族がいたんだ」
「ああ、それを見たとき、もう声を掛けられなかった。俺は小さい頃から人の不幸をたくさん見て来たからね。仮に俺の憶測が正しかったとしても、不幸な家族が一組増えるだけで、光一が戻って来ることは無い……、そう思ったら、足が動かなくなった」
それだけ話すと、「さあ、そろそろ仕事に取り掛からないと」と言って早川房夫は腰を伸ばして立ち上がった。
二人揃って工場横の路地を通り、道路に面した表に出る。
「おお、ちょうど良かった。あんたのお友達が迎えに来てくれたみたいだぜ」と、指差す方向に水色のタクシーが道の先からやって来るのが見えた。
ああ、僕は思わず安堵して、感嘆の声をあげた。そして、
「どうもありがとうございました」と早川房夫に向かって頭を下げた。
「いや、俺も嬉しかったよ。もう一度光一との思い出話をたっぷり出来て、胸のモヤモヤも何だか消えた気がする。あの人達にもよろしく言っといてくれ」
早川房夫はそう言ってニコッと笑った。
「はい」
そう言って僕は工場前の道路に停車した水色のタクシーに向かって走りかけた。
「おおそうだ。これ持ってけ!」
と言って、早川房夫がメロンパンをひとつ、こちらに向けてポーンと放り投げた。
早川房夫の投げたメロンパンが大空に跳ね上がる。
ポーン、ポーン。
空中でメロンパンがくるくる回って巨大化する。
ああ、これはまたあの感覚か?
メロンパンの薄い緑色と空の青さ、太陽の光、それにタクシーの水色、大型船の汽笛がボーと鳴る、キラキラ光って眩しい海、いろんな物が重なり合って……、意識が飛ぶ。
ポーン、ポーン、ポーン
ふと目が覚める、ここはどこ?
あ、またあの芝生の公園だ。白いベンチに座っている。
隣を見ると紗妃さんがいてその向こうに中村さんも腰掛けている。いつのまにか元の場所に戻っていた。
穏やかな温かい良い日だ。
二人ともニコニコしてるだけで、何も話そうとはしない。
何だか長い夢を見てた気分だ。
ボーッとしてたら足下に何か白いものが転がって来た。
手に取ってみると白いゴムボールだ。
「すみませーん」
あ、あの家族連れの人たちだ。若いお父さんが小さな子供を連れてこちらに向かって頭を下げてる。
「あ、このボール、はいっ」
と、僕はゴムボールを親子に向かって投げ返した。ワンバウンドしたボールをしっかりとお父さんが手に取って子供に渡す。
子供が「ありがとう」と大きな声で言う。
お父さんも微笑んで頭を下げる。その向こうでお母さんがさらに小さい女の子を抱きながら微笑んで頭を下げた。いい家族だ。幸福を絵に描いた様な。
そして何事か言葉を交わし、またこちらに軽く会釈して、駐車場の方向へと子供の手を引いて歩いて行く。
その後ろ姿を見ながら、ポツリと紗妃が言う。
「あの人なんです」
一瞬、僕はなんの事か分からなかった。
「あの若いお父さん。あの時、あのT字路で、自転車の中学生だった人」
「えーっ!!」
思わず僕は大きな声をあげてしまった。
あの時、もしもあの人が事故に遭っていたなら、あの子供達も今ここに居ない事になる!
「さ、帰りましょうか?」
紗妃の言葉を聞き終わらない内に僕はいろんな事柄が頭を駆け巡ってしまい、またそこでくらくらと眩暈を起こして、気が遠くなってしまった。
そこからの記憶が全くない。深い眠りについてしまったのか、どうやって家に帰り着いたのかも分からない。たった一晩の事なのに、いろんな事があり過ぎた。
気が付けば、僕は自分の部屋のベッドでいつものように朝を迎えた。
全部夢だったのかな?
僕はぼんやりした頭で着替えると、リビングに降りて行った。
妻と子供がソファに座ってテレビを見ている。そうだ今日は日曜日か。
「昨日の夜だけど、インターホンが鳴ったの聞こえた?」
多分無駄だと思いながら一応僕はそう訊いてみた。
「鳴らないわよ。何か夢でも見てたんじゃないの?」
思った通りの返事が妻から返って来た。
「そうだよな、あはは」
何故だか僕は笑いたくなって声を出して笑った。
「何笑ってるのよ」と言いながら妻も子供もこちらを見て笑い声をあげる。
そうだよ光一くん、幸福は笑顔と共にあるんだ。君はいつも僕を笑わせてくれてたっけね。
やっぱり君は僕のヒーローだよ。
良くない噂など僕は信じない。
君は人を救ってみんなを明るく照らしてくれるんだ。
君は光だ。一番の光だ。
僕は少し浮かれた気分で、歯磨きして顔を洗おうかと洗面所に向かった。
その際に何気なく玄関の下駄箱の上に目をやった。
あれ? 何だろ? 何か置いてある。
僕はそれを手に取った。小さな花束だった。
色とりどりの季節の花がとても綺麗だ。
誰がこんなところにこんな物を置いたんだろ?
ふと見るとカードが一枚挟んであった。
開けてみると、
「お疲れ様、良いお年を 紗妃」
と書かれてあった。
やっぱり夢じゃ無かったんだ!
僕はその花束を家族に見られない様に急いで自分の部屋に置いた。
良いお年をだなんて、紗妃さん、まるで年末みたいじゃないか。
自然に顔が綻んでしまうのを、僕は止められなかった。
おわり
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
最後までお読み頂き、感謝します。
よろしければ何か一言でもいいのでコメントくださると嬉しいです。
よろしくお願いします。