serial experiments lain(アニメ)を今の時代には作れない理由を交えながら考察してみる

前回の記事の続きという形になるが、今回の記事はまた別ベクトルから見てLAINという作品を今作る事が出来ないという内容も踏まえて考察してみる。
というのも、このLAINという作品は今の時代では作る事が出来ないと私は考えていて、その理由というのが現在は明るすぎるからだと考えている。
私は2X才の餓鬼だが今この作品に触れたとしても本当の意味でLAINに触れたという事にはならないと、作品を見ていくうちに感じてしまった。
それはこうして考察しているのも同じことで今の価値観でこのゲームに触れても当時の空気感までは触れることが出来ないからだと私は考えている。
このlainというゲームだけでもメインテーマは精神病とネットワークであり、当時と今とでは考え方が違う、というのが私の考えだ。
今の時代、若者総うつ病という言い方はよくないが、正直なところ精神病患者が多すぎるし当たり前のような形になってしまい当時の精神病という事を隠すという考えを今の基準で推しはかることが不可能だからだ。
作中の玲音ちゃんは精神病を隠したい、カウンセラーを受診している訳だが今は学校にカウンセラーがおり、10歳の精神病も増加しており、何なら多様性という観点で玲音ちゃんのような子供は当たり前になってしまった。
ネットワークも私は子供の頃からネットに入り浸ってるクソガキだったので作中の玲音ちゃんも感じていたネットには広大な世界が広がっている気持ちは分かるが、現代はインターネットは広がったにも関わらず以前よりも閉塞感が強い…何なら玲音ちゃんみたいにハッキングしたら今は簡単に足がついてしまう。
ゲームだけでこれだが、後は…やはり当時の重苦しい雰囲気だろう。アニメ版lainもそうだが全体的に暗い雰囲気が漂っている。
これは時代背景も一つだが当時は使える色が少なくて暗くするしか無かった…というのもあるが、この開けた明るい世界で重いアニメに触れても重くない、というのが強く私が感じた事である。
アニメになるが、これは当時のきったないブラウン管で深夜に見ないと本当の意味でlainに触れたという事にはならない訳だ。
こんな明るいネットで配信サイトからlainを探して再生しても、それはlainの表面を触れたという事にしかならない。
アニメのlainであったインターネットの良さが分からない…という時代に見ないと意味がない…と思ってしまった。

まぁ、そんな感じではあるがlainというアニメは間違いなく面白いと私は感じた。だからこそ…当時に触れることが出来なかったのがとてつもなく残念で、ずっとこの心に引っかかったものは落ちないだろう。


長々としてしまったが、アニメ版lainはゲーム版lainのアンサーという形だと私は考えている。ゲーム版lainは自殺教唆という形で終わり、自殺を促す内容で終わったがアニメはそうではない…という内容だと視聴していくうちに感じた。
アニメ版lainはNAVIに触れた事で少しずつワイヤードに浸食されていくという内容でゲーム版lainをより分かりやすくしたものだと考えている。
ただ…以前の記事で前編、と表したようにこのアニメはゲームの地続きだと私は考えていて、作中に出てきたもう一人のlain(悪意ある存在。恐らく間違ってはいないと思いますが既に使われている愛称と違っていたら申し訳ないです)は間違いなくゲームの玲音だと考えている。
この辺りを文章化するのは難しいし、lainというシリーズを俯瞰視点で見てしまっている為に拒否感を示す人も出てきてしまうかもしれないが、このアニメのもう一つの役割がゲームの玲音を否定する事だと私は考えている。
極端な話を言えばlainという作品のせいで自殺をしてしまったというのを防がなくちゃいけないから、アニメの役割はlainシリーズを再構築し一つのアニメとして完成させ、かつゲームの玲音の考えを否定するという訳だ。

どうしてlainが悪意を振りまくかと言えば、それはゲーム版の玲音がこの世界に絶望しているからだと私は考える。
ゲーム版の玲音は家族が崩壊し、友達にも恵まれず、ネッ友にも裏切られ、信じていた柊子にも…という悲惨極まりない状態である。だから、誰も苦しまずに嘘もつかないワイヤード上に意識を移すという選択をしたわけだ。
なぜlainが悪意を振りまくか?それはアニメの玲音にも絶望させてワイヤード上に意識を残すという選択をしてほしいからだ。
アニメの玲音が絶望をするとは即ち、より多くの人間をワイヤード上に移すきっかけになるという事だ。極端な事を言えばゲームをプレイしている人よりもアニメを見ている人が多いという感じ。
まぁただ…ゲームでは傷つけたくないと言っていた玲音がなぜこういう行為をしているかという考えだが、これにはゲーム玲音が考えていたことを否定するため、だと私は考えている。
メタ的な話を抜くと、ワイヤード上で玲音が生きるというのは失敗したという事であり、思考ルーチンとデータがその人間だ、という玲音の考えは本来の優しい玲音とは真逆の方向の性格になったというアンサー、という訳だ。

作中で境目が曖昧になり、玲音もその選択を取ろうとする…が、アリスという存在で人の暖かさを知り、その考えを否定した。

これは、悲しいことかもしれない。ゲームの玲音もロボット父に似たような温かさを感じていた。だが、それは玲音への救いにならずに逆に追い詰めることになってしまった。
この後、アニメで玲音父が紅茶を飲もうって提案をするシーンで不覚にも私は泣いてしまった。
ゲームの玲音は紅茶が好きじゃない、アニメの玲音は紅茶が好きかは分からないけど飲める。同じ玲音なのにまるで何もかも逆を表しているようで。
lainが精神崩壊アニメとか言われてますけど絶対そういう人は見て無いですよねって思いました。最後まで見れば少なくともそういうアニメではないと分かるはずですけど…多分、これは私の推測なんですが、ゲームのアニメシーンだけ見た人がそう言ってるんだろうなって思います。まぁ確かにゲームはアレですけど…。

こうしてアニメ版lainは神になった…で終わった…という考えは余り好きじゃなくて、この最後の玲音とありすが話しているシーンでありすは覚えていないけど玲音は覚えている訳、ですよね。
これはゲーム版LAINと真逆の終わり方を示していて、ゲーム版lainはlainは絶望したから最後プレイヤーを実質的には自殺させる事が一番の幸せという終わり方でした。
こちらは逆で、玲音は全てを受け入れ、また違った世界で生きていくという形で終わりました。
これは私たちゲーム版lainから一連して触れた人間にもそう、示していると思います。
私は(lainの事もこの一連の事も受け入れて)新しい世界で生きることにしたからプレイヤーも(この一連の事を受け入れて)生きましょう、っていう。

ただ…最後、lainは生きている。ゲーム版を通じたlainは私たちの脳内にも存在しており、私たちが少しでもあっち側に傾いたらすぐに、この選択肢を取れるよ…という形で。








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