発達特性を持つ私が適職を見つけるまで:エピソード4

はじめに

発達障害やグレーゾーンと言われる人の中には、発達の特性や過敏症の症状によって、神経過敏を引き起こし、それが原因で人とのコミュニケーションに障害を生じてしまうという状態の人が含まれていると私は認識しています。
実際に知的障害を併発されていたり、身体症状に及ぶ神経症状を併発している場合は専門的な治療を受けることが必要な時期もあります。
しかし、所謂グレーゾーンという人は自分の思考の特性や執着癖を自覚し、他者との間で折り合えるよう調整することで、不安や過敏から解放されていくのではないかと思っています。
信頼できる人との出会い、乗り越えたいと思える意志や原動力を持つことで、改善というより調整できることはたくさんあると感じています。
・発達障害を疑われている方
・発達特性をお持ちのご家族がいる方
・発達特性の診断を受けるか迷われている方
・HSPなどで仕事に不安をお持ちの方
私に近い特性をお持ちの方や、そういった方との関係性で
悩まれている皆さんの参考になれば幸いです。

私を苦しませていたこと

発達特性を持つことが、どうして障害とされるようになってきたのでしょうか。特にグレーゾーンと言われる人たちは、なぜ診断を必要とする率が高まったのでしょうか。

これまで適正に診断がされてこなかったからと言われていますが、ずっと以前からいる一定数の発達特性の人が『障害』として取り扱われてしまうのはなぜなのか…と、思うのです。

私は発達特性があるということが診断で出た時に、『ほっ』としたという感覚がありました。それは、自分の性格や人としての在り方に問題があるということじゃなかったからです。
それを『感覚的・知覚的な特性・性質の一つ』『思考回路の違い』なのだと認識できるだけで、こんなにも自分が解放されるんだと驚きました。
結局、私を追い込んできたのは『自分の特性や劣っている知能・適応障害』なんかではなく、『自分自身の特性を理解しないまま年齢を重ね、社会で適応できないことを人格や忍耐力のせいにして、ただただ無理な我慢を続けたこと』だったのです。

だとしたら、なぜ自分はそんな風な捉え違えをしたのか。
人との違いを実感しながら、隠さなければいけないとどこかで感じたから(感じさせられたから)だと思うのです。

うちは親が教師で、『普通であること』を重視されていたのだと思います。その親の方針と学校での教育が重なって、自分を出さないことが得策と思い込んで育ってきたのだと思います。
自分の生きている環境が家と学校がほとんどで、

幼い頃からの積み重ねで染みついた『劣等感や自信のなさ』を取り戻すことは、とても大変なことです。純粋に頑張って生きていて、元々視野も狭くなりがちな特性を持つ中で、自信を失い殻にとじこもってしまうと、とても長くて暗いトンネルをひたすら一人で歩いているような気分になります。

だから、子どもたちに関わる時には、その子の特性がどんなものなのかを気にかける時間を持っていたいし。たくさんの人が色んな場面でその子を観てくれる環境を作っていたいと思うようになりました。
以前の私は、自分の固執した価値観の中に子供を抱え込んでいたし、必死に何かから守ろうとしていたんだと思います。そういう恐怖心が人を遠ざけ、さらに子どもたち自身も孤独にしてしまいかねないと感じました。色んな人・色んな見方があり、たくさんの価値観に触れる中で、自分がどんな特性を持ち、どう在りたいかを見つけていけるように環境を整えられたらと考えています。

知能指数(IQ)と幸福度

最近では知能指数(IQ)と幸福度や生涯年収には関係がないこともわかってきています。人の学力や知能はテストで結果を見ることができ、学校での重要な指標にされてきました。一律に基礎的な知識を持つことも必要なことなので、重要なテストになります。
だけど、その勉強というものにどれくらい意欲的に取り組めるかをサポートするのは、各々全く違うアプローチが必要になると感じるのです。
『気が散りやすい・集中力を維持できない』という人の中には、人より秀でた感覚による影響で『集団』が合わなかっただけかも知れない。
興味がそこにはないのに、勉強を続けるということに意義を見出せずに頑張れずにいるだけなのかも知れない。
人より高い知能であるのに、みんなに合わせることで停滞を感じて無気力になっていたのかもしれない。
だから、もっと主体的に各々が勉強に取り組んでいけるようにサポートしようと、声を上げてくれている人がいるのだと思います。

そうやって意欲的に主体的に生きることができたとき、発達特性を持つ人はその幸福度に対しても敏感でより幸福感を感じることができるとも言われています。



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