木村花夭折事件について(2)
このnoteにこのまえかいた記事『木村花夭折事件について(1)』で、くだんの事件について、出演者に対するまともなめんどう見を、番組制作責任者+テレビ局( ===> 株式会社フジテレビ)がさぼりたおしてて、ほぼまったくゼロだったっぽいことが決定的・致命的にアダになったという意味の指摘をした。 だがこの指摘は、おれなんぞが云うまでもなかった。 当の業界人たちが、なん人もすでに指摘していて、それがネットで記事にもなってたからだ。 しらんかった。 この件についての情報を、ネットでけんさくするなどのことをせず、単にネット上で目についた記事の情報だけにもとづいていたからだ。 まぁこれは基本的にはいまもおなじなのだが。
それはともかく、そんな批判的業界人たちの記事を4コばかり参考までに以下にあげておく。
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===> https://asajo.jp/excerpt/91126
この記事にはつぎのような記述がある。
<「都合の良いところだけ切り取って、なぜ(木村さんを)フォローしなかったのか。テレビ局が守ってやらなきゃいけなかった。> <番組を盛り上げるための編集をするならば、ヒール役に映った木村さんへの事後ケアも行うべきだったと>
<各クールで誰かしらのヒール役が生まれるような半ば意図的な編集があったのではないかとの疑念がある> <番組に起用されているメンバーの中には、タレントほどにバッシングへの耐性を持たない一般人に近いメンバーも多かった> <芸能人の中には“炎上キャラ”を巧みに活用して仕事に生かすようなメンタルを持つタレントも存在> <しかし、テラハのメンバーは表舞台に立つことにあまり慣れていない> <こうした若者らを毎週1000万人規模で視聴される人気番組で起用> <ヒール役が生まれやすくなるような土壌があったのだとすれば、その後のケアも十分に施すべきだったという中尾彬の意見に頷かざるをえません>
<22歳ってまだ半分子供ですよ?なんで大人が守ってやらなかったんですか?」> <「テレビドラマの悪役の俳優さんですら、嫌いになる人だって少なからずいるんだから」>
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===> https://hochi.news/articles/20200528-OHT1T50087.html
この「でっぱりん」がどんなひとかを、テレビ番組にも芸能人にもタレントにもおれはくわしくないのでしらぬが、しかしこの記事はまさにドンピシャの内容だ。 かつて自分の出演したリアリティー番組の制作陣が人間としてあたりまえのめんどう見を自分にしてくれたその経験を、「でっぱりん」は木村花の事件にことよせて自分のブログにかいて、この記事はそのブログ₌エントリーの内容を紹介しているのだ。 でっぱりん が制作陣にうけためんどう見のつぶさの内容はいちいちここに引用しないので、各自この記事をよんでみてください。
それとはちがうほかのことを1つだけいっておこう。 この記事には でっぱりん のつぎのことばもが紹介されている。
「たかが出演者にこんな事までしてくれんの?ってくらい沢山色んなことをしてもらったし、助けられたし感謝してる」
「たかが出演者に」のことばはおれには象徴的だとかんじられる。 おれにいわせれば、ほんらいなら、これははなしがあべこべだ。 出演者の言動や表情こそがこのての番組の「金のたまご」であり、したがって出演者は「金のたまごをうむ鳥」ということになるからだ。 このての番組の属性をかんがえれば、それはあたりまえであろう。 そして、だとすれば、出演者をこそ番組の財産だとして何よりもいちばんたいせつにするのでなければ、いったい番組制作者は何をたいせつにすればよいのか、わけがわからぬというほどのことであろう。 「象徴的だ」といったのは、ざんねんだがわが朝では芸能界にかぎらずひろく一般に企業社会において、「金のたまご」や「金のたまごをうむ鳥」が虐待され〝ふみ台として利用〟され、それをもっぱら搾取するだけの者たちのほうこそが世に〝えらいひと〟ということになっていて、いばりくさり、そして裕福なくらしをおくることができるというしくみ・からくりになっているからだ。 でっぱりん のことばも、このしくみ・からくりの正直な反映であろうというので象徴的だとおれはかいたのだ。
木村花はそのしくみ・からくりによっていのちそのものを搾取されてしまうまでに「虐待され〝ふみ台として利用〟され」た。 木村花も でっぱりん のように「“テラハ”じゃなく“あいのり”」だったら、ほんとに、どんなによかったことだろうか。
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1/6 ページ ===> https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2005/26/news043.html
2/6 ページ ===> https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2005/26/news043_2.html
3/6 ページ ===> https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2005/26/news043_3.html
4/6 ページ ===> https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2005/26/news043_4.html
5/6 ページ ===> https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2005/26/news043_5.html
6/6 ページ ===> https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2005/26/news043_6.html
この記事は、この事件にかかわりのある多方面のことにふれているので、よみごたえがある。 だがいまここではここでの話題に関連することがらだけにしぼる。 3/6 ページにつぎの記述がみえる。
仮にご本人が叩かれることを覚悟の上で出演していたとしても、番組側には彼女のメンタルヘルスに配慮する責任があった。
このフォーマットで番組を制作する以上は、現場スタッフはもちろんのこと、出演者の安全に責任をもつテレビ局としても、このリスクを想定して最大限の「配慮」をしなくてはならないということ
放映中止や出演中止の判断、さらには出演者のイメージや名誉を回復するようなアフターフォローなどが考えられる。
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1/2 ページ ===> https://www.news-postseven.com/archives/20200604_1568261.html
2/2 ページ ===> https://www.news-postseven.com/archives/20200604_1568261.html/2
この記事のうったえるところは、おれのいうのとはちょっとちがってるともいえるが、ひろい意味ではおれとおなじで、要するに「出演者に対するきちんとしためんどう見があるべきだった」にほかならぬので、ここにあげる。 つぎにひく記述がみえる。
<それより許せないのは、木村さんのキャラクターを『おいしい』と舌なめずりして、世間にさらし続けたテレビ局> < 制作から宣伝まで、この番組にかかわっておきながら、『そんなつもりじゃなかった』とは言わせない>
< 聞けば、彼女が炎上に悩んでいたことを、番組制作側は知っていたというではないの。そのとき、なぜいったんお休みをさせなかったのか。> < いや、彼女を番組に出す前に、メディア側の人間がつきっきりで、テレビにおける“言葉の加減”や“立ち居振る舞い”を教えるべきだった>
<私は21才のとき、> <週刊誌で女性の性の告白記事を書き始め> <年上の編集者から、手取り足取り、原稿の書き方から、ライターとしての振る舞い方まで教わった> <かなりゆるい言葉で、時間をかけて。大失敗を笑いながらカバーしてもらったことも> <木村さんの身近に、私が世話になったような“業界の大人”がいたら、あそこまで追い詰められなかったのでは>
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以上にあげた4記事をみるとおり、業界人でも何でもないただの1介の門外漢・部外者でしかないおれのかんがえるのと、ほとんどまったくかわらぬようなことを複数の業界人たちもがいっている。 だから、この点からいえば、木村花夭折事件とは、特殊な業界におきた特殊なできごとなのでは決してなくて、なるほど特殊な業界でおきはしたけれど、どこであれ世間一般につうじるごく初歩的で常識的なことがぶっこわれ・ぶっぱずれちゃっておきたできごとなのにちがいないとおれにはおもえる。