哲学カフェで考えたこと、わたしの場合(仮)
昨晩、omamori で開かれた最後の哲学カフェ。世代もバックグラウンドも異なる方々が、約20名も参加してくれて、とても嬉しかった。
わたしはその場で言葉をまとめるのが不得手なので、キッチンカウンターのなかでただ耳を傾けていたのだけれど、強く心に残った話がいくつもあって。
一晩経ってもまだ余韻が残っていたので、それらの話を受けて考えたことを、とりとめなく文章にしたためました。超、とりとめない。
※具体的な発言内容や発言者については伏せています。
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昨日のトピックは、「自分とはなにか?」。
10代の頃、「あの子は裏で違うこと言ってたよ」とか、「あいつは先生の前だけ良い子ぶっている」だとか、そんな陰口が横行する学校生活で。人の性格の裏表に、ほとほと悩まされていたのを覚えている。
かくいうわたし自身も、「友達によって態度を変えてしまう」「親の前で素直になれない」などと、一貫しない「自分」に対して、嫌悪感や罪悪感を抱いていた。
そんなとき、国語の先生が教えてくれた『私とは何かー「個人」から「分人」へ』(著・平野啓一郎)という本は、人間関係沼に沈むわたしの心を掬ってくれた。
人は「たった一つの本当の自分(表の自分)」と「それ以外の仮の自分(裏の自分)」を持つのではなく、他者や環境の数だけ人格を持っているという話だった。
裏表という二面ではなく、多面的であり、それらがすべて本当の自分自身の集合体なのだという考え方が、当時の自分には革命だった。
だから、「いつだって自分が、同じ自分でいる必要はない。そして、相手が自分に見せている部分も相手の本当の一部分であり、でも全てではない」と理解できたことが、気持ちを楽にしてくれたのだった。
この経験から、自分とは他者や環境がないと成立しないものであり、
いまわたしを構成しているすべてが、なにかの影響を受けたうえで、今日までわたしの中で育まれているように感じている。
よく「優しいね」と言われるけれど、それは誰かから教えてもらった「優しくする方法」を実践し、自分が傷ついた(傷つけた)言葉を回避しているに過ぎない。なにかに怒りを露わにするときは、「それは怒っていいことだよ」と、誰かに教えてもらった気がする。
本当はもっと優しくしたい、と思うのだけれど、これ以上は自分が消耗してしまうというラインがある。それもまた、他者との関わりの中で築かれたものだ。優しくいるためには強く在る必要もあって、自分にはそれが不十分なので、優しさを一定程度、手放さざるをえない。
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「自分のことをどのように自己紹介しますか?」という問いに対して、わたしは「絵本屋です」と、生業を端的に応えるだろうと思う。
絵本屋になる前、自分には突出したものがなくて、何者でもない自分が、正直、本当に、つらかった。
「人と比較する必要はない、あなたはあなたであるだけで素晴らしい」などと、頭では分かっていて、他者に対してはそう思える。けれど、わたしはいつだって誰かと比較するのをやめられなくて、劣等感に揉みくちゃにされた人生を歩んできた。
だからいま、絵本屋という分かりやすい肩書きに、自分を保ってもらっているというのが、本音だ。(同時に、そんなものから解放されたいといつも願っている)
新潟に移住してきたとき、知り合いが誰も居ないなかで、わたしも自分がリセットされた感覚があった。それはとても不思議で面白い感覚だった。
自己紹介が「わたし」の型取りをスタートさせる。自分の話した過去や、見せる顔だけが、「わたし」として認識されてゆく。わたしはどんな自分にもなれる気がして、なんだかワクワクした。
けれども、自己開示に慣れず、あまり自分の話をせずにいたら、次第に「よく分からない人」として認識されるようになり、それはどうにも寂しかった。だから今は、こうやって文章を書いて、SNSの頻度も上げて、好きなものに好きと言い、感じたことを言葉にして、「わたしってこういう人間です」と、わたしのパーツを少しずつ外に出している。
そんなわたしの破片の数々を、なんとなく流し見してもらって、「さきちゃんってこういう人なんだな」と、ゆるやかに想像してもらえたらと思っている。正しくすべてを理解されたいというより、大きな誤解がありませんように、みたいな感覚に近い。
そしてなにより、「よく分からない人」よりも、「こういう人かもしれない」という取り掛かりがある方が、単純に関わってもらいやすいと思うから。「こういうことで共感し合えるのかもしれない」とか、思ってもらえたら嬉しいのだ。
そんなことを、昨日の哲学カフェのあと、つらつらと考えました。後出し文章を読んでくれて、ありがとう。
他にもいろいろと書き連ねましたが、あとは誰かと直接お話しできたら嬉しいです。
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