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2024年9月12日の日記

ずっとほったらかしていた公的な手続きを一気にやる。区役所とか銀行とか奨学金のこととか。締切とは神が与えたもうたシステムだ。期限がないとやる気が起きないことがたくさんある。いろいろ整理しているうちに発覚したこと、大学の奨学金という名の借金(日本学生支援機機構)の返済があと2ヶ月、つまりあと2回で完済すること!

大学を卒業してから、毎月約10,155円、いや払えない月もあったけど、でも少しずつ少しずつ返してきた。大学の入学金は、大学そのものが保証人になってくれて、銀行から借りたお金で払った。こちらはかなり前に完済済み。借りた額が大きかった日本学生支援機構の方は、ずう〜っと返し続けて、今に至る。

とても有り難いことに大学からは貸与でなくて給付の奨学金をいただけたこともあったけど、それだけでは夜学とはいえ、私大の学費と生活費は到底足りず。私はスーパーリベラルかつアナーキーなスウェーデンかぶれの人間なので、保育園/幼稚園(この区別すらどうかと思う)から大学院まで無償でないなんてあり得ないと思っているけれど、日本にいる以上、日本学生支援機構の奨学金制度がなかったら大学に行くこともできなかったのだから大変有り難い。

苦しいときも、嬉しいときも、悲しいときも、ひとりのときも、ふたりのときも、またひとりになったときも、祈っていたときも、その後も、ずっとそばにいてくれたのね奨学金(の返済)。というBlue Moonの歌詞みたいな気持ち。

私はたぶんどちらかというと、よく言えば論理的思考ができる、悪く言えばかなり理屈っぽいと思われている。でもそれは私が感性と身体能力がものを言うジャズボーカル界に身を置いているからであって、例えば文学部生時代には、私は論理性が足りない方であった。A +なんてどうやって取るのかわからなかった。クラスメイトたちはもの凄く頭が良くて、もの凄くたくさんの本を読んでいて、めちゃくちゃ複雑な論理的思考ができて、何を言っているのかわからなかった。私は自分は馬鹿だと思って嬉しかった。学ぶべきことが多くあるのはうきうきする!

だいたい、わざわざ夜学の文学部に行くような人間は本当の数奇者、活字狂い、思想狂いばかりだ。試験科目は、国語、英語、小論文のみ。言葉の論理とともに起床し、論理で歯を磨き、論理のシャワーを浴びて、論理とともに登校。授業を受けて、学友や教授と議論を交わし、食事を摂り、また論理ともに床に就く。ベッドの上は本だらけ。もちろん枕は本である。ちょっと硬いけどね。

人の思考の合理性、論理性というのは、育ってきた文化や使用する言語によってかなり違う、というのは、日本語と英語という二つの言語、あといくぶんかのスウェーデン語を扱うことによって、実感している。

例えば、文学部の外に出た私は日本では理屈っぽい人間として人を辟易させるときもあるけれど、英語で喋っているときに私の思考が理屈っぽすぎて辟易する人には出会ったことがない。特にスウェーデンで生まれ育った人間は日本文化からしたらもの凄く合理的、悪く言えば理屈っぽい。私がスウェーデン人とコミュニケーションを取るときには、もっと思考を明確に言葉にしてくれないとあなたの考えがわからない、と言われるけれど、日本の方とコミュニケーションを取るときには、物事をなんでもはっきり言語化しすぎだと言われる。日本は全てを言語化せずに曖昧な部分を残しておく美学。

そうだ、日本語文脈ではKYと言われる私ですが、逆に英語文脈では、勝手に意味を読まないで、と言われます。なぜかというと、相手が思考して言語化して伝えていることがまさに伝えたいことなので、言語外の意味を勝手に推測するのは対話においては失礼にあたるから。言語学において日本語は超高コンテクスト(文脈)言語で、英語は低コンテクスト言語だから、この違いはしょうがない。日本語のコミュニケーションでは言語化されない部分の文脈把握が大切だけれど、英語では日本語ほど文脈把握は必要でない。むしろ何でも言語化して伝えるように、そして相手の言語を理解して対話するように、幼少期から教え込まれるのです。言語変われば、所変われば、人の評価も印象も全ては移ろいゆく相対的なもの。

FB上で、全然知らないオーストラリア人らしき人からアジア人を侮蔑する言葉を投げかけられた。えっ、凄い!新鮮!今どき人種差別をする人ってまだ存在していたのか…。概念が幼いのね。頭が弱いのね。

ダライ・ラマは、いわゆる悪人やダメな感じの人と出会ったときは感謝するのだという。その理由は、どの書籍に書いてあったのかうろ覚えかつ私の解釈も多分に含んでいるのだけど、その人が悪ければ悪いほど、ダメであればあるほど、何がよい行動とされるのか、善とは何であるか、輪郭がはっきりしていく。悪い人はその悪い行動によって、世界の悪さを引き受けてくれているのだから、感謝するべきなのだ。

ここからは完全に私の言葉だけど、あちらの世界に持っていけるのは、魂の色彩だけなのだから、ふつうは誰だって美しくて清くて綺麗な色が好きなはずだから、わざわざ汚れた魂の色彩を引き受けている悪人は尊いのかもしれない。嘘をついたり、脅したり、真実から目を逸らし続ける者たち。被害者のふりをする加害者。そして被害を受けた、というところに大きな落とし穴があると思っている。

理不尽なことが起きる。悲劇はランダムに起こる。通り魔がいる。それを誰かが引き受けて、いわゆる被害者になる。問題なのは、被害者が自らのトラウマ的な体験によって、加害者になっていくことだと思う。被害を受けた怒り、悲しみ、憎しみがごちゃ混ぜになって、自分の痛みを何かを代償にして埋め合わせようとする。強烈な痛みをこの瞬間に抱えている者は、他人の痛みなど気にしている暇はない。今首を絞められて殺されようとしているものは、もがいて動かした爪で人の皮膚を切り裂いていることになんて気づけないだろう。なんとかしてまずは呼吸をしなければならない。脳に酸素がいっていないのだから、思考がものすごく浅い状態。そしてその尖った爪をもって次の通り魔が誕生する。

加害者と被害者の連鎖、被害者が加害者になっていく過程ってこれに尽きるのではないかしら?だとしたら、こんなに単純でつまらないゲームからは卒業するべきだ。だから楽しくない同じことを何度も繰り返すのは馬鹿のすることなんだってば。

いやいや、だって子供のときから何十年も虐待を受け続けたんだよ?戦争で人を殺したり、殺されたんだよ?騙されて、全財産を失って、強姦されて、DVを受けて、苦しくて苦しくて、クスリやセックスや自傷や他傷が必要だ。わかる、わかるよ。辛かったよね、私もそうだったよ。自分の痛みが辛すぎて、無意識に、あるいは意図的に、人も自分も傷つけてきたんだ。ごめんなさい。もし輪廻が存在するならば、誰にでも過去世には酷い経験があったのかもしれない。そうでなくとも物語の中では何でも何度でも擬似体験ができるでしょう。

極限状態で保たれる人間性のことを考える。ホロコースト下でのユダヤ人強制収容所が舞台のコメディ(!)、ロベルト・ベニーニ監督『ライフ・イズ・ビューティフル』、この映画がある限り、どんな酷い状態でも人としての品格は保たれ得るのだと、どんな酷い環境にいてもその究極の責任は本人の中にしかないのだと思う。何が起きても、それをどう解釈するのか、昇華するのか、心の中のどの位置にそれを置くのか、本人次第であるという究極の祝福。

通り魔に会って、自分が被害者である、という意識でいるとき、周りも自分のことを被害者として扱うとき、確かに、怒りや、悲しみや、憎しみを感じないでいることは結構難しい。その不快な感覚を自分の中に生じさせた通り魔を恨むかもしれない。でも人間は認識が、意識が全てなのだから、この不快な感覚を制御できないことが何よりも辛い体験なのだ。

特に怒りのような原始的な感情は、脳の中でも大脳辺縁系と呼ばれる部位が関わっていて、凄く単純化して言うと、人の脳は、他人への怒りや攻撃性を自らと切り離して考えることができないという。人に対して怒っていても、脳は自分に対して怒っているかのように、ストレスとダメージを受ける。人を呪わば穴二つ、という言い回しはこのことを指しているのかもしれない。怒りは被害者を蝕んでゆく。

わかった、じゃあどんな「被害」に会ったとしても、怒りや憎しみを感じなければ幸せでいられるというわけね?でもそんなこと、人間に可能なのかしら?それってむしろ感情を感じるという人間性の放棄なのでは…あんなに酷いことをされたのに!PTSDの症状が酷くて今にも死にそうなのに!

ここで冒頭に戻る、ダライ・ラマの言葉だ。世界の悪を引き受けてくれている悪人に感謝を、憐れみを。最新の科学によると、意識すら量子の働きかもしれないので、そして量子は観測者が観測して初めて存在するらしいので、怒りや憎しみに意識を向けない。意識されないものは存在できない。

すでに存在しているPTSDの症状や、怒りや憎しみに対しては、必要な場合は投薬治療を受けてもいい、カウンセリングを受けてもいい、精神分析でも、滝に打たれても、自己啓発本を読んでもいい、瞑想しても、スピリチュアルでも、ホ・オポノポノとかいろいろなクリーニング法や手放し方があるじゃない、作品に昇華してもいい、とにかく手を替え品を替え浄化していく、のは全て己の幸せの為。あなたの脳がきちんと機能して心が穏やかになる日がいつかやってますように。

たまに、例外として、過去の被害も何も関係なく純粋な悪の塊もいるけれど、それはもう悪神様って感じで、拝んで通りすぎる。彼/彼女は世界のコントラストを表現する為に存在しているだけなので、近寄らないのがいちばん。

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園子温監督『愛のむきだし』より孫引き

【新約聖書コリント使徒への手紙第十三章】

完全なものが到来するときには、部分的なものは廃れさる。私は幼い子供であった時、幼い子供のように語り、幼い子供のように考え、幼い子供のように思いを巡らした。ただ、一人前の者になった時、幼い子供のことは止めにした。

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自分も周りも、被害者が加害者になっていく連鎖が、どう考えても、幼少期から、止まらない。そして現時点において、もうこれって何か変だな、いい加減悲劇に飽きてきたな、何か抜け出す方法があるはずだぞ、と、やっと客観性を持って状況を見て、考えられるくらいに、私の思考が成長した。でも論理で考えられる部分があっても、自らの感情の扱いが、まだまだパーフェクトなわけではないから、日々是精進。ちょっとしたことで、感情が揺れ動き、それらひとつひとつを丁寧に処理していく。手放したり、昇華したり、思考によって分解したり。この不毛な連鎖から必ず抜け出すぞ、という強靭な意志を持って私は日々生きているのです。

で、ここからは一気に論理が破綻するのだけど(笑)私の音楽理論の師匠は凄く魅力的な人で、魅力的な人にありがちなこととして、愛されすぎる。愛されすぎると、憎まれたりするもので、何らかの発言をすると(あとたぶんたいして発言してないときもある程度コンスタントに)嫌がらせメールとか、殺害予告とか、よく来るんだって。それで、彼がそのことにXで言及して言っていたのが、

「殺意や呪いに近い怒りを抱くのは、とても精神に良い。僕でよかったら好きなだけやってほしい。感情押し殺すから具合悪くする。」

凄い。かっこよすぎる(笑)なんかこういうやり方もあるんだな〜って、それもいいかも、と思いました(笑)。私はいい子だから真面目すぎるんだよね。この世界をもっともっと遊んでいこう。

※写真は去年の今頃、ヴェニスでディナー


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