仮名手本忠臣蔵!江戸時代の事件なのに、文楽・歌舞伎ではなぜ室町時代のお話に!?幕府から逃れるグレーゾーンでした。
人形浄瑠璃文楽の太夫、豊竹咲寿太夫です。
さきじゅと呼んでください。
今日のテーマ
江戸時代、鎖国となって大きな戦争も起きずに一見平和な時代のように思えます。
この安定した時代の根底にあるのは封建制度という絶対格差だったのです。
武士と商人町人の間には絶対的な格差がありました。
また、武士の中でも徳川家に歯向かう者は徹底的に排除されていたのです。
徳川家の絶対君主があり、その下に各藩があるという構図でした。
今でも政権批判のものを上演したり上映したりすることに対して横槍があるように、当時も同じく徳川家を批判したり、敵対していた勢力を称えるようなお芝居をしたり、幕府の失態を晒すようなお芝居をすることに対して、当局が黙っているはずもありません。
この仮名手本忠臣蔵のもととなった赤穂藩の討ち入りの事件も、実際のところ幕府としては赤穂藩のテロ行為であったのです。
判官贔屓という言葉があるように、負け戦になりかかっている者を応援したくなるのが人の心情というものです。
忠臣蔵の史実は瞬く間に庶民の間に広まりをみせ、テロ行為どころか、お家の忠臣を誓った家臣たちの忠義の美談として浸透しました。
そんな忠臣蔵、史実が人々の間で噂話として行き交う分にはまだ幕府の取締りはできないのですが、お芝居となると別の話になります。
お芝居(今では映画なども)というのは、ストーリーを追体験できるがゆえに、その求心力というものは侮れません。
人を動かすのはいつの時代でも人の感情なのです。
ですから、幕府(政権)を批判するような内容のお芝居というものは幕府にとって非常に恐ろしいものでした。
当時、公だってお芝居をするには幕府公認の芝居小屋で上演をする必要がありました。
そこには櫓が立っていて、一眼で幕府公認の芝居小屋であると分かったのです。
余談ですが、その櫓のたつ芝居小屋で上演する際に一番トップの演者は「櫓下」と言われました。
そんな幕府のもとで幕府に敵対する形となった赤穂藩のお芝居を史実のまま上演することは非常にリスクが高かったのです。
そこで、時代を室町時代に起こったこととし、人物の名前も変えて上演しました。
いわばグレーゾーンな上演方法といったところでしょうか。
観客が熱中するもの、それはやはり観客の目線に立つものであり、この仮名手本忠臣蔵もまた赤穂浪士が武士として格好よく活躍した場面ではなく、町人・商人にとっては格上の存在である武士が、恋愛を優先したがために主君の大事の時にいられなかったり、お金で悩んだり、お酒を呑んだくれたり(さらにそれは敵を欺くための演技であると分かったり)、賄賂を渡したことで立場が危うくなったりといった「イメージよりも人間臭い武士の姿」を取り扱ったことで感情移入のできるお芝居になっています。
義太夫狂言の主題というのは、情を説くことにあります。
これはやはり義太夫節、浄瑠璃のもとが説法にあることに由来します。
現代、日本では諸外国に比べ、仏教にしろキリスト教にしろ、人口比率からみた信仰者の割合は少ないと思われます。
かくいう私自身も何かを信仰しているといったことはなく、肩入れしているものはありません。
ただ、江戸時代の多くの日本人は生活レベルで仏教が浸透していました。
心中で結ばれるという発想などもそういったところに起因します。
単なる復讐劇として描かれてきた忠臣蔵ものとは一線をかくした仮名手本忠臣蔵は、そうして市民の心に寄り添い、大ヒットを遂げたのです。
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