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2020.2.27-28 好きなものを、好きなように

昨日。

久しぶりにオフィスへ出勤。仕事はしていたとはいえしばらく行っていないとちょっと入りづらい気持ちになるよね……。休んだ次の日の学校みたいな。いやまあ久しぶりじゃなくてもいつも人がいっぱいいる場所に入るのは緊張するんだけど。

ここ最近ずっと準備していたプレゼンをプレで上司と先輩にみてもらい、大変良い反応をいただけたので一安心。前の日にテンションが上がって明け方まで作業してしまったので終わるとぐんと眠くなった。今更資料作りにillustrator便利じゃんと気づいたので使い方を覚えながら作業していて時間がかかる。でも資料に使う簡単な図の作り方くらいなら一通りのことはできるようになったかな。いつもこういうツールは実践で覚えるタイプなので、必要になったときにあれやこれややらないと身につかない。

出社して帰ってくるだけでぐったりしてしまい、夜はまたひたすら漫画を読んで終わる。やっとハイキュー!!をジャンプ本誌に追いつくところまで読めた。

今日。

私が中学生〜高校生くらいの頃、aikoの歌詞画像を携帯の待ち受けにするという文化があったのを、同年代の女子なら覚えているだろうか。空とか街とかアー写とかいい感じの画像に、プリクラっぽい加工の手書き風文字で歌詞の一部を書き込んだもの。あれがめちゃくちゃ流行っていた。(ピンとこない人はaiko 歌詞画像 でググってみてほしい)特にaikoは歌詞画像映えするアーティストだったので、かなりたくさんの歌詞画像職人があらゆる歌を絵にして配っていた。今思うとJASRACガン無視で大丈夫かいなと突っ込みたくなるけど、そんなことは当時の花の中高生たちには関係なかった。

そんな話をしながら、そうだ、そういえば私こういうの好きだったんだよな、と思い出す。

aikoは言うまでもなく、デビューから20年以上ずーーーーっと「女の子の恋愛」について歌ってきたアーティストだ。これまで出した414曲、すべてが女性目線のラブソング。ピュアな10代の頃は本能に忠実に生きていたのと、自分の「女性性」や世界が規定する「男女の恋愛」に幸か不幸かあまり違和感を抱かずに来れたので、素直に共感できていた。むしろ、自分からそういう世界観に入って行きたがる感じだったと思う。aiko風自作ソングをピアノで作って歌っていた黒歴史だってそりゃあ当然にある。だけどいつからか、ストレートに「aikoみたいな世界観が好き」と言うことがちょっと恥ずかしいというか、抵抗を感じるようになっていた気がする。

なんかさ、恋愛至上主義者みたいな感じだしそれってどうなの。王道ど真ん中のJ-POPってカルチャーとしてちょっとダサいんじゃない。ありがちな女の子像に収まっちゃっていいの。一時の感情に振り回されるのって疲れちゃうでしょ。ほら、それに恋愛とパートナーシップは別物だしね。

実際に、恋愛で何度も痛い目見てきた。情緒に振り回されてものすごく相手を傷つけたことも、逆に死にたいほど傷ついたこともある。いろいろ揉めた末に「ああ、殺意ってこういうものなのか」って本気で思っていた時期もある(もちろん実行には移していないお陰の今だ)。20代の間に良くも悪くもいろんな経験をして、ちょっと疲れちゃって、もうそういう激しいのはいいよ、平和で感情が動かないほうがいいよっていう、ひねくれたモードになっていった。3回も人と同居と別居を繰り返していたら、そりゃあさすがにうんざりもするのを許してほしい。

ちなみに、そのぐちゃぐちゃの時期にたどり着いたのが「都会の女の人生」の歌を一歩引いた目線で歌うアーティスト土岐麻子で、女の感情を歌った歌を聞き続けていたあたり、本質的には結局あまり変わっていなかった気もする。女の歌が好きなら、土岐麻子も本当にいいですよ。


さてしつこくaikoの話に戻ろう。aikoは全部同じに聴こえる、という人がいるけど、まあそんなことはファンだってわかっている。aikoの曲は一声で、一音で、aikoだとわかる。それでいいんだ。というか、それがいいんだ。デビューから20年間変わらずに、自分の日常のあらゆるシーンに重ね合わせることができるくらい、似ているけど常に違う毎日が積み重なるみたいに、たくさんの似てるけど違う言葉と音を残し続けてくれたことが、何よりもすごいことなんだよなぁ。

現実の私たちの日常は、いつも劇的な愛だ恋だとやっているわけじゃない。人との近すぎる関係にうんざりすることもあるし、強すぎる感情が裏返って憎しみ合うこともある。それならまだいい方で、きっと本当はただなんとなく過ぎていく時間のほうが多い。ちょっと気を抜くと、全曲追いかけていたアーティストでも聴くのを忘れたままあっという間に10年くらい経っちゃったりする。

だけど、aikoはその間も、ずーーーーっと一瞬の感情を切り取って歌に残し続けていた。そこにいつも、あの時の強くて切なくてキラキラした感情のエッセンスだけが閉じ込められていて、あったはずのドロドロした思い出や醜く滑稽な自分はきちんと濾過され、すべてが美しく輝かしいものだったように思えてくる。そういう、感情昇華機能としての職人芸の巧みさが私にとってのaikoの魅力で、それはやっぱり改めてひねくれモードを経た今も変わらず好きというか、そういうなんらかの処理装置は心の必需品というか、きっとそんな感じの存在だったんだなと思う。

好きなものを、好きなように、好きでいていい。改めて日記に書いておかないといけないようなことではないはずだけど、それでもやっぱり言葉にしておかないとまた忘れてしまいそう。恥ずかしくてもいいんじゃないかな。王道ど真ん中が好きでいったい何が悪いのか。わかりやすいものに素直に共感したっていいじゃないか。テンプレの女性像や社会的ロールに無思考に押し込められるのは大嫌いだけど、自ら自覚的にそれを演じてみるならそれもいい。選び取った結果がたとえ誰かと変わらないとしても、オリジナルの個性じゃないとしても、別にいいんだよね、そのままで。

何を選んでもよくて、多くの人が好きだからという理由で何かを好きになる必要もなければ、同じ理由で何かを避ける必要もない。なんだかまだあまりうまく言えていないのだけど、ずっとうまく言いたいと思っていることはこういうことな気がしている。



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早[SAKI]
たのしいものを作ります