入院その2
夜中に、足のマッサージ器(まったく身動きがとれず、寝返りがうてないため、エコノミー症候群の予防に装着します)に違和感を覚えて、目を覚ます。
なんともいえない倦怠感。痛み止めの座薬はいれずに寝れたものの、眠りは浅く、何度も目を覚ましてしまう。尿の管も違和感があり、すべての管を引き抜いてしまいたい衝動にかられる。
長崎大学病院は、爆心地に程近く、70年近い年月を経ても、なんだか重い空気が立ちこめているのを感じていた。
まだカラダも熱く感じるから、熱は下がっている気配はない。が、ナースコールを押す気にもなれず、浅い眠りのまま朝を迎えた。
家族と離れて、これから病院のこの部屋で5泊を過ごさなければならない。
大きな傷のある右胸を見るのが怖くて、まだ直接視ることができない。
だが、思っていたよりも、傷の痛みは耐えられるレベル。
朝、検温してみると、やはりまだ38度台の熱がある。
今朝も点滴から始まった。
しばらくすると、主治医を先頭に、ぞろぞろと白衣の人々が病室へ入ってきて、思わずキョトンとしてしまった。
まるで、白い巨塔!!!
皆の前で、診察とガーゼの交換。
これ、ちょっとカンベンしてほしいなぁ.....😓
朝食は、ふつうに完食できて、看護婦さんたちが
カラダを拭いてくれたり、着替えを手伝ってくれ、さっぱりして、手術後ようやく少しだけ気分が上がった。
そして正午前、尿の管が抜け、それだけでものすごーーい開放感〜♬
午後に、気を良くして、母に付き添われて、院内を散歩することができた。
他の病室の前を通ると、ツラそうにベッドに寝ている方の姿を見かける。
病棟は同じなので、おそらく、大概は、乳がんの手術をして入院されている方なのだろう。
わたしは、あまり人見知りせず、話しかける方だが、いろんな病状のいろんな事情を抱えたこの病棟の人々とすれ違っても、どうしても話しかけることができなかった。
それは、とてつもなく大きな壁に思えた。
お互いをなんとなく気にしつつも、なにか大きな壁がそこには存在する。
そんな気がしてならなかった。
この日、さっそく散歩ができて、胸の痛みもほとんど気にならなくなった私は、おそらく相当に順調でラッキーなのかもしれない。
夕方、少し熱は下がり、微熱に近いところまで下がってきつつあった。
その日から、面会時間になると、母が諫早駅から電車に乗り、顔を見にやってきてくれた。
引っ越したばかりで、平日、誰一人として面会に来ないので、母の献身的な面会がとてもありがたく、私の病室ライフに色を添えてくれた。
心配かけてしまってごめんね。
貴方は、いつもいつでも元気なのに
むすめの私のほうが先にこんなところで
病気してしまって、本当にごめんなさい。
受話器越しに、絶句する母の声を思い出しながら、
どんなにか心配をかけてしまったのだろうと
途方に暮れた。
そういえば、柳川の親友にだけ、入院の事実を話していた。
親友は、私の弟と同級生だったが、まだまだ若いのに、妹を癌で亡くしたばかりだった。
手術当日の早朝、遠く福岡から、メールを送ってくれて、エールを送ってくれた。入院の前には、大好きな無印良品のアロマディフューザーを送ってくれた。
その灯りをみつめていると、いい香りとともに、ここが病室だということをしばし忘れ、キモチよく眠りにつくことができた。
勘のいいカノジョは、ちょうど今から手術室へ移る直前にわたしのキモチを察するかのように、気を送ってくれたのだ。
ホントにありがたい。
合計9日間の入院生活を反芻しながら思うことがある。
ホントに静かで、手術、入院とはいえ、こんなにゆっくり自分と向き合えたのは、自分が母になってから初めて、だということ。
術後2日目から、熱が平熱に下がり、脇の下の管が抜けると、右胸の喪失感と突っ張ったような痛みを残して、ほとんどが、平常へと順調に回復へ向かっていることを感じることができた。
そのタイミングで、病室も、少しゆったりできる個室へと移ることができ、じっくり読書したり、テレビドラマを見る余裕ができてきた。
当時流行っていた、ドクターXの再放送を見ることができた。入院中というこのタイミングに、初めてドラマをじっくり見る時間ができてみて、わたしは、一体、なぜ毎日せかせかと1日中働いていたんだろうと思ったりした。
ワタシが、ワタシのココロの中を、内観する時間。
それこそが、自分には圧倒的に足りていなかったのだろう。
と、今になってみれば、ハッキリわかる。
が、当時の自分には、まだまだボンヤリと感覚的にしかわかっていなかったこの事実。。
続きは、また次回に(^_-)-☆
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