乳がん闘病...トラブルその壱
骨シンチの検査の日までの2週間、わたしは毎日の家事をいつも通りこなした。朝起きて、家族の朝食を作り、子どもたちを送りだす。園バスが行ってしまうと、川辺りをそのまま15分ほど走り、帰宅するとシャワーを浴びて、残りの家事を片付ける。いつも通りのルーティン。
ただし、心の方は、いつもどおりという訳にはもちろんいかず...「再発」という2文字がアタマから離れない。いてもたってもいられない思いを閉じ込めどんなふうに2週間過ごしたのか....思い出せない。親にも心配かけられないし、主人は、私以上に心配症だし、話せば話すほど、ドツボに嵌ってしまいかねないので、腰が痛むので病院へ行く、ということしか伝えられなかった。
閉じ込められた思いを心の片隅に押し込め、ママ友の前でも、子どもたちの前でも、いつも通りの自分を演じた。転勤族で、まだ知り合いもそう多くないまま、新学期を迎え、ゴールデンウィークが過ぎ、子どもたちだって、必死に新しい環境に馴染もうとがんばっているのだ。ポーカーフェイスで過ごしながら、毎日、ホルモンを止める薬だけは忘れず飲み続けた。
そして、ようやく、2週間が経ち、諫早から一人でクルマを走らせ、病院へと向かった。
大学病院の近辺も例にもれず坂ばかりなので、病院のせまい駐車場は、午前中はいつも大渋滞。とめるのに、20分から30分はざらにかかってしまう。
ようやく駐車し、薄暗い院内に入ると、受付を済ませ、いつもは足を踏み入れたことのない古い病棟へとすすむ。足元には目的地までの進路が色分けされているので迷わずに済んだが、右に曲がり、左へ曲がりしながら、ふつうの病棟とは趣きの違う雰囲気の部屋へ辿り着いた。
古い匂いと病院の匂いがない混ぜになったその一帯は、不思議と患者の気配はあまりなく、研究室のような、古い校舎のような空気が漂う。そこで、看護師に注射を打ってもらい、特殊な液体が全身に浸透するまでの数時間、院内で待機するよう指示された。
午後になり、骨シンチグラフィ検査がはじまる。検査は、すぐに終わり、いつもの乳腺外科の待合室へと向かう。
診察番号が近づくと、診察室のすぐそばに移動し、自分の番を待つ。こんなにドキドキしながら自分の番を待たなければならないなんて、もう病院なんて懲り懲り!!この時点で、かなり消耗していたのだけは、よく覚えている。
ようやく呼ばれ、診察室へ入ると、先生はだまって、画面を凝視していた。
先生は、一瞬で柔らかい空気に変わり、異常なかったことを伝えてくれた。
崩れ落ちるキンチョウ。
チカラが全身から抜け、血の気が戻るようなあたたかい何かがこみ上げてくるのがわかった。
こんなにも、生きていることがありがたい!
と思ったことは、今までの人生で1度もなかった気がしたのを覚えている。
大きなため息をついたあと、ようやくまじまじと画像を見つめる余裕が生まれてきた。
とても精密な全身写真。ガイコツが自分なのだと理解できると、この写真を持って帰りたい衝動に駆られたのを覚えている。
時刻は、15時をとうに過ぎ、我に返ると、その日の外来の最後の患者であったと記憶している。
わたしは、足早に病棟を抜けだし、クルマを走らせ帰路へと向かった。
そのとき、車の中で聴いた曲に、色が戻ってきた感覚になったのをおぼえている。この2週間、モノクロの世界で、わたしは過ごしていた。なぐさめのための音楽も、そのときのわたしの耳には届いていても、心は少しも動いていなかった。
今朝、聴いたはずの曲が、おんなじ曲とは思えないくらい、のびやかに、わたしのココロに届き、共鳴しているのがわかった。はじめての感覚だと思った。
生きてるだけで、素晴らしい!
健康って、こんなにも自由だったんだね。
腰の痛みは、度重なる治療と、先を急ぎすぎて、お休みの期間がじゅうぶんでなかったことによるものだと判断された。おなかには、一ヶ月前に打たれたホルモン療法の薬のシコリがまだ小さいけれど残ったままそこにある。腰痛は、時間によって、少しづつ、位置が変わっていくような気がしたのは、そのためだったのだと、今になって理解できた。
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ところが、それから10日も経たないうちに、またまた身体に異変が起きてしまう。
この続きは、また次回。
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