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星占アフター

【あらすじ】
二十歳の大学生、静宮絹は彼氏と急に音信不通になり、人気占い師のマダム・アイリーンに救いを求める。しかし、鑑定結果は「最初から恋なんてなかった。彼氏の正体は詐欺師」という残酷なもの。初恋は100万円を奪われて終わるという最低な結末を迎えてしまう。絶望する絹を励まそうと、マダムはあるハンバーガーショップを勧めるのだが、そこは恋に疲れた女子を癒すアフターフォローのお店だった。聞き上手の創也。明るい瞬。聡明な怜司。魅力的な店員たちが傷ついた心を癒してくれて、詐欺事件もひょんなことから解決に向かう。「非モテで不運」と思い込んでいた絹は、気づけば前向きになり自信を持てるようになっていた。


 私は失恋したんだと思っていた。20年生きてきて初めて彼氏ができたけれど、初恋はあっけなく終わり、行き場を失った恋心は苦しい未練に姿を変えてしまったのだ、と。

 「……で、彼氏に頼まれて100万円渡して、次の日から連絡が取れなくなったってわけね。まぁ、どう考えても詐欺よね」
「え?」

 涙で腫れた重いまぶたは占い師の意外な言葉で大きく見開かれる。

 「占いの館じゃなく警察に行った方がいいんじゃない?」
「けいさつ?」 

私の初恋はどこでどう間違えて事件になったのだろう? 

「タロットカードに聞いてもいいけど……うん、やっぱりね」 

 赤いネイルを施した指はシャッフルしたカードの中から1枚取り上げ、頷きながら私の前に差し出した。 

「見て、『悪魔』が出たわ」 

そこに描かれていたのは、山羊の角と蝙蝠の羽を持った醜い悪魔。 

「これはどういう……?」
「悪魔は欲望と悪だくみを象徴しているカードなの。失踪した彼はそもそもお金目当てだったのね。あなたに恋なんてしてなかったのよ」 

 “恋の駆け込み寺”の異名を持つ人気占い師、マダム・アイリーンはハッキリ言い切った。 

――恋なんてしてなかった?

 彼は何度も「好き」「かわいい」「ずっと一緒にいたい」と言ってくれたし、仕事の相談も親身になって聞いてくれた。毎日たくさんのメッセージをやり取りして、深夜に長電話をしたこともある。それらすべてが嘘だったってこと?

 そんなわけない。結婚を匂わせるような将来の話だってしたのに。

 「あの……彼は私のことをどう思ってるんですか?」
「なんとも思ってないわよ。あなたは都合のいい金づるで最初から恋愛対象じゃなかった。それだけ」

  マダムの鑑定はとてもシンプルでわかりやすい。でも、それだけに心をえぐる。

 「彼との関係は愛とか恋とかいえるものじゃない。失恋したと悲しむなんておバカもいいとこ。騙されたと怒るべきよ」

  頭をハンマーでぶん殴られたような重く痛い衝撃が襲った。

 「だま……騙された?」
 「そう。あなた、彼にお金を騙し取られたの。かわいそうに。まだ気づいてないのね。まあ、乙女座だしね。色恋沙汰には疎いから仕方ないか」

  マダムは事前に書いた私のメモを見て数秒考え込む。そこには生年月日や生まれた場所など、占いに必要なデータを書き込んでいた。

 「あなた、クソがつくほど真面目で、ちょっと潔癖っていうか、男女関係が苦手でしょ。男と手を繋ぐだけでも緊張しちゃって、ベッドインした経験もあんまりないんじゃない? うーん……あまりないっていうか、まだ処女ね。今回の彼にも身体を許してないでしょう?」

  遠慮のない言い方でズバズバ指摘するマダムに私は何も言えない。それは、まくし立てる彼女に圧倒されたからじゃなく全部当たっていたから。反論する隙は1ミリもなかった。

 「セックスもしてないのにどうして100万渡しちゃうのよ? もったいない。100万あったらおいしいもの食べて、かわいいお洋服も買えて、お友だちと旅行にも行けるでしょ。こんなとこで私と話すより、早く警察に行って彼をとっ捕まえてもらうべきね」

  そういえばと、春コートを予約していたことを思い出す。ちょっと高いけれど貯金があるからいいやと思って買ったブランドもの。そろそろカードの引き落とし日だったような。預金残高はいくらあったっけ? 彼とのゴタゴタでまるで覚えていない。
 私は急に現実を目の当たりにして背筋が寒くなった。

 「ねえ、大丈夫? 顔色が悪いわよ」

  マダムを包むように漂うサンダルウッドの香りは甘く神々しい。でも、それは私にとって絶望を確定する匂いだった。クラクラして今にも倒れそう。失恋よりも衝撃的な彼の本性と、お金がないという事実を突きつけられて心は完全に折れている。まともな意識を保ち続けることがもう難しくなっていた。

 「私はいったいどうすれば……?」

 うわ言のように質問する私の手をマダムはぎゅっと握りしめた。

 「まずは警察に行ってほしいけれど、今のあなたにはちょっと無理みたいね。元気がなさすぎるから、まずはしっかりご飯食べて」

「ごはん……?」

 ピンと来ない私の手のひらには、マダムが乗せたハガキサイズのチラシがあった。

 ――カランコロン。

  ドアベルが鳴る。誰かが入ってくる足音が聞こえるとマダムは衝立の後ろへ視線を送った。

「次のお客さんが来たようね。今はちょっと辛いかもしれないけれど、男なんて星の数ほどいるんだから。できるだけ早く彼なんか忘れることよ。悲しむだけ損するわ。元気出して!」

 マダムは強い声で言いながら拳をぎゅっと握る。その指に並ぶ大粒の指輪がメリケンサックに見えた。ルビー、サファイヤ、エメラルド。きらびやかなジュエリーでぶん殴られたら、痛みすら甘く感じるだろうか。
 手を振るマダムに促されるまま席を立ち、私は鑑定室を出た。ドアまでのたった数歩がとんでもなく重く遠く感じる。

 「なんだったんだろう……?」

  マダム・アイリーンの鑑定も、私と彼の関係も。そして、コツコツ貯めた100万円をあっけなく奪われたことも。
 簡単に騙されてしまった自分の愚かさにうんざりする。クソがつくほど真面目で潔癖な私はまともに恋ひとつできない。頼りなく浅はかな自分を認めると、ただ立っていることすら辛くなった。
 愛なんて最初からなく、「好き」という言葉は偽物だった。唯一守られたのは二十歳にして男を知らないこの肉体だけか。

 「はあぁ……」

  深いため息をつきながら占い館を出ると、眩しい春の日差しが痛いほど目に飛び込んできた。明るすぎる太陽を私は見上げることができない。視線はマダムに渡されたチラシに自然と落ちる。

 『半額チケット! ファイヤー・ゲート』

 そこには、これでもかと具を積み上げた巨大なハンバーガーが映っていた。肉汁たっぷりの分厚いパテ、瑞々しいトマトとレタス、とろけるチーズ、緑鮮やかなアボカド。すべてが私の胃に直接訴えかけてくる。

 ――ぐぅぅ。

  お腹が鳴るのも無理はない。失恋したと思い込んでいた私は、ここ数日ろくに食べれなかったのだから。千五百円のランチが半額という見出しに心はすぐ決まった。迷うわけがない。超大手ハンバーガーチェーンの薄っぺらなチーズバーガーセットを食べるよりお得だもの。涙も心もからっからに乾ききった今の私には、食欲を満たすことだけが救いなのかもしれなかった。

  チラシに描かれた地図を見ると、『ファイヤー・ゲート』は占い館から歩いて三分。ご近所とはいえ、鑑定後に飲食店を紹介するなんて変な占い師だと思った。

 マダム・アイリーンに反論するつもりはないけれど、残酷な鑑定結果を突きつけられただけに良い印象は持てない。私が詐欺師に騙されたのが事実だとしても、もう少しマイルドな言葉で言ってほしかったし、もっと慰めてほしかった。恋に疎い私が彼の本性を受け入れて、ドライに割り切るにはまだまだ時間がかかる。心にはもう悲しさや寂しさすらなく、虚しい自己嫌悪だけが渦巻いていた。

 「ここか。やってるのかな?」

  チラシと同じフォントの看板が掲げられたお店はテラス席もあるアメリカンダイナー。木目調の壁には、レトロなコカ・コーラのプレートとバドワイザーのネオンライトがしつらえてある。入口ドアには『OPEN』の札がぶら下がっているけれど、開店したばかりなのか、客はまだ一人も入っていないようだった。ガラスのはまったドアから中を覗くと、カウンターの中に店員らしき人影が見えた。

 「いらっしゃいませ!」
「ぅわっ!」

  後ろからいきなりウェルカムな大声が飛んで、私は思わず肩をビクつかせる。振り返ると、やたら背の高い男性が立っていた。

――淡い。

 そう感じたのは、長身で存在感があるのに、その人はふんわりと淡い色味で圧を全然感じなかったから。ゆるいパーマがかかった長めの髪はミルクティーベージュで、小さな顎の白い顔によく似合っていた。それが地毛といわれても違和感のない、整った顔立ちをしている。どことなく洗練された雰囲気を漂わせるだけに、お店のロゴが入った赤いエプロンが野暮ったく見えた。

 「周りを掃除していて、気づかなくてすみません。中にどうぞ」

 後ろから長い腕を伸ばして入り口のガラス戸を開けてくれるのだけど、背後に立つ彼は何センチあるのだろう。百五十八センチの私は彼の肩にも届かなかった。

 「カウンターのお好きな席に座ってください」

  促されるまま店内に入ると、中には赤いエプロンの男性がもう二人。レジで何か確認していた黒髪の男性は、顔を上げてにこやかに「いらっしゃいませ」と声をかける。持っていたペンをエプロンのポケットに差し、カウンターの真ん中の席へ私を案内する。ちょっと高級なレストランみたいに椅子をわざわざ引いてくれて何だかドキドキしてしまう。

 「怜司、また前の店のクセが出てる。こんなカジュアルなお店でラグジュアリーなお給仕したらびっくりだよ」

  カウンターの中から呆れたように言ったのは、もう一人の赤エプロン。派手なオレンジ色の髪と両耳を貫くボディピアスがチャラいというか、怖いというか。黒髪の男性より明らかに年下なのに堂々とタメ口をきいている。

 「……そうか?」

 言われた黒髪は首を傾げながらも、私にうやうやしくおしぼりを差し出してきた。確かに、彼の丁寧な接客は気楽なお店の雰囲気には不釣り合いだった。

 「ごめんね。ウチの店長、先月まで会員制フレンチのお店にいたの。なんかラグジュアリーすぎて違和感でしょ」

 あはは、と笑いながらランチメニューを見せるのはミルクティーベージュの彼。何気なく笑う顔もしっかり美しい。

 「で、何にする? ウチの店、初めてだよね」

 以前から知り合いだったかのように話す様子はフレンドリーで、そこに不快な慣れ慣れしさはなかった。むしろ気を遣わなくていい親近感を覚えてホッとする。

 「さっき、これもらって……」

 手に持っていたチラシを差し出すと彼は頷いてにっこり。

 「マダムのお客様なんだね。鑑定お疲れさま。どうだった? スッキリできた?」

 言いながら隣の椅子を引いて座り、長い足を折りたたむように組んだ。
 チラシを見せるだけでマダム・アイリーンが出てくるということは、占い館とこのハンバーガーショップには横のつながりがあるのかもしれない。

 「あの……し、失恋したと思ってたんですけど……でも……」

 そこまで言ったら、急に視界が潤み始めた。もう涙は枯れたと思ったのに、まだまだ涙腺は稼働するらしい。でも、今私が泣いているのは悲しくて寂しいからじゃない。やるせない悔しさが抑えきれないほどふくらんであふれ出していた。

 「そっか。まだ納得できてないんだね」

 いきなり泣き出す私に驚くでもなく、ミルクティーベージュの彼はやさしく言って背中を撫でた。それはお母さんが子どもをあやすような手つき。断りもなく異性に触れられたのに嫌な気持ちはなかった。それどころか、こわばった背中の筋肉がゆっくり緩んでいくのを感じる。

 「大丈夫だよ。心が受け入れらないことがあったら話聞くから」

 彼は首をかしげて私の顔を覗き込む。

 「占い師がハンバーガー屋さんをすすめるなんて変だと思わなかった? ここはね、マダムの鑑定にモヤモヤしたお客さんのアフターフォローをするお店なの」
「アフターフォローのお店……?」

 彼はカウンターの端から箱ティッシュを引き寄せて差し出した。涙が止まらない私は今、たぶんとてもブスだと思う。みっともないのはわかっているけれど、でも目は潤み続けた。

 「泣きたいだけ泣いていいんだよ。我慢しちゃダメ。つらい気持ちは全部吐き出さなきゃ」

 細く長い指でティッシュを三枚引き出し、彼は私に持たせた。

 「占いには吉と凶があるでしょ。おみくじで大吉が出るとうれしいけど、大凶が出たらやっぱり不安になるじゃない。マダムの対面鑑定でもショックな結果が出ることは少なくないんだ。悩みがすべて自分の思いどおりに解決するとは限らないからね。願いが叶わない場合もある。
 それに、マダムは正直者でたまにキツイ言い方をするし。悪気はないんだけど、あの人ちょっと気が利かないところがあるからさ、僕たちがアフターフォローを請け負ってるってわけ」

 カウンターに頬杖をつく彼は本当に美しい。この顔を眺めるだけでも心は癒されるのかもしれなかった。

 「だから何でも言って。愚痴でも恨み節でも。マダムの悪口だっていいよ。そういうの言いたい時ってあるでしょ」

  言いたいことは山ほどある。それは口汚い罵りで恨みで、呪いにもなるほどの黒い感情。
 私は喉の奥で渋滞するネガティブな言葉におぼれながら、とりあえず頷いた。

 「創也、お話中すいませんなんだけど……」

  そこにおずおずと声をかけたのはカウンターの中にいるオレンジ頭。メニュー表を指さして「オーダーは?」と小声で尋ねた。

 「あ、忘れてたね。マダムのチケットを持ってるってことはスペシャルバーガーでいいのかな?」
「めっちゃデカいぜ。食べ応え抜群!」

 ちょっと怖そうに見えたオレンジ頭は、意外にも人懐っこい表情で私に頷いた。それにつられて私も頷き返してしまう。

 「オッケー! じゃ、スペシャルバーガーね。ガッツリしたの作るから、ちょっと待ってて」

 オレンジ頭はまくった白シャツの袖をさらに二の腕まで引き上げて調理を始めた。

 「あいつは瞬。最年少だから元気もらっていって。俺は創也。ここでは一番の古株。さっきのラグジュアリーなおじさんは怜司ね」

 ミルクティーベージュの創也さんは店のスタッフを簡単に紹介して笑った。

 「おじさんって言うな。俺はまだ二十九歳だ」
「今年の夏でもう三十路でしょ。立派なオッサンだから」

 黒髪のダンディな怜司さんは私にドリンクのメニュー表を見せてくれる。

 「うっさいな。創也だってあっという間にオッサンになるんだよ」
「じゃあ、アイスティーを」
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」

 創也さんに毒づきながらも、お客の私にはラグジュアリーな対応をする怜司さんが面白い。思わずクスと笑みが漏れた。

 「あ、笑った」

 ちょっと唇の端が上向きになっただけなのに創也さんは見逃さない。瞬君と怜司さんも私の顔を覗き込んだ。

 「いい顔してんじゃん」
「少しずつ元気になればいいんですよ」

  そっか。今すぐに整理して結論を出さなくてもいいんだ。
 心はまだ混乱して落ち着かないけれど、そんなぐちゃぐちゃの自分でもいいんだ。
  そう思うと気持ちはフッと軽くなった。

 「好きって……いったい何なんでしょうね?」

 口をついて出たのは、なんだか哲学者のような質問。言った後で、我ながら変なことを口走ったと思ったけれど、でもそれは今の私の紛れもない本音だった。

 「生まれて初めて本気で好きな人ができたと思ったんですけど、私は彼の何を見ていたのかなって。もしかしたら、彼氏といえる存在ができたことに浮かれていただけなのかもしれません」

  恋に恋していたから、彼の邪な本音に気づけなかったんだろうか。

  中学高校と女子高だった私にとって、彼が言う「好き」は刺激的で甘すぎた。告白された日を境に洋服やメイクが変わり、スマホを見る時間が増えて、物事の優先順位が入れ替わった。大学の授業より彼が送ってくる他愛ないメッセージの方が大事になったり、大好きなチョコレートやクッキーは太るから我慢するようになったり。私の世界はあっという間に様変わりしたのだけど、そのなかで彼のことをどれだけちゃんと見ていただろう?

  誰かに好かれることは心地良く、友だちに「彼氏ができた」と言う瞬間はこのうえなく誇らしかった。私は“恋愛している自分”に酔っていたのかもしれない。

  中学はもちろん、高校でも「男子と付き合うこと」は少女漫画や恋愛映画で見る他人事だった。自分の半径5メートルの世界で起こる現実ではなく。そして、それは仲の良い友だちにとっても同じだと思っていた。

  だから、高校を卒業して「彼氏ができた」という報告をポツポツもらい始めると、私は困惑した。キラキラした世界を外側から眺めるだけで楽しかったし、恋愛はそういうものだと思っていたのに。いつの間にか自分が参戦させられていることに驚いて、そして絶望した。

  恋愛って、どうやるの?

 どこで男の子と出会うの?

 付き合うってどういうこと?

  真面目に勉強を頑張って、親の言うことも守ってきたけれど、そうやって歩んできた18年を振り返っても恋愛を学んだ時間は1秒もなかった。少女漫画や恋愛映画は平凡な日常のテンションを上げてくれるもので、難しいテストが終わった後に食べるご褒美スイーツに近い。すでにパッケージ化された胸キュンしか知らない私は、たとえるなら何の武器も持たずにいきなり野に放たれたレベル1の最弱キャラ。国語の成績が良いとか、15年習い続けたピアノが上手なんてことは恋愛ワールドにおいてスキルにも認められない。

  私は何の魅力もない、ただの地味な女だった。

  高校ではそれなりに居場所もポジションも確保できていたけれど、地元を出て大学生になった私は「その他大勢」で「存在しているだけの人」になった。友だちができても、どこで見つけてくるのか、みんなすぐに彼氏を作ってしまう。みんなで集まるからと誘われるたび、私は次々に繰り出されるノロケ話に気まずくなるだけ。

 「早く彼氏作ればいいのに」

  それは友だちとしてのアドバイスなのか、マウンティングなのか。曖昧に笑って「そうだね」と言いながら、私は女としての自尊心を少しずつ削られていた。

  だから、彼に告白されたときは本当にうれしくて。最初は信じられなかったし、フワフワと浮かれてバイト先のお弁当屋でミスを連発したりした。自分を取り囲む世界が一瞬で変わって、見慣れた景色すら清々しく感じたけれど、あれは何だったんだろう?

  天にも昇るような気分になったのは、彼が好きだったから?

 ううん、彼はバイト先によく来るただのお客さんだった。告白されて初めて常連さんだと知ったのは、彼が私の視界に入っていなかったということ。

 ――前から気になってました。好きです。付き合ってください。

 それでも、彼の告白は私には魔法の呪文のように聞こえたのだった。すべて一人で自己完結してしまう退屈な日常を終わらせるための。
 やっと彼氏ができた。もうフリーじゃない。みんなと同格になれた。そう思ってホッとしただけなんじゃない……?

  自問自答すると胸がぎゅうと苦しく縮んだ。

  私は詐欺師の彼氏に騙されただけじゃなく、自分の承認欲求に振り回されていた。「好き」という言葉が持つ本当の意味も理解できずに。

 「私は彼氏の何が好きだったんだろう? 本当に好きだったのかな」

  ぽつりと呟きが漏れた。

 「一緒にいて楽しくなかったわけじゃないんです。ただ、彼の顏は別に好みじゃなくて。服の趣味も全然違って、買い物に付き合ってもらうと私なら絶対に選ばない服を勧められたんですよね」

  微妙な気分になったけれど、彼が選んだ服は友だちからの評判が良かった。
 とつとつと呟き続ける私に創也さんは言う。

 「好きという気持ちを突き詰めても、たどり着くのは『ある』か『ない』のどちらかで、それ以外の答えはないよ。好きに理由なんてないから」

 その言葉に、頭をグルグルめぐっていた思考がピタリと止まった。

 「好きじゃなければ、そもそも付き合おうとは思わないでしょ。恋人同士だったのが一瞬だったとしても、楽しかったなら好きだったんじゃない?」

「でも……」

「別れた彼氏をクズ男と罵るのは構わないし、毒はむしろドンドン吐いた方がいいと思う。けど、自分の恋心を否定するとつらくなるよ。相手がとんでもないクズだとしても、誰かを愛せた自分のことは大切にしてあげて」

 創也さんの話に行き場を失っていた心がストンと落ちた。
 確かに、詐欺師の彼を許すことはできないし、するつもりもない。ただ、そんな彼を否定するほど自分がみじめに感じていた。

 「それに、恋愛ってそもそも楽しいものでしょ。恋人ができればうれしいし、僕だって浮かれちゃうけど。浮かれたらいけないの?」
 「いや、なんか……私だけが一人で舞い上がってたのかなって」
 「恋愛で一番大切なことは自分が楽しめるかどうかだよ。相手を理解することも大事だけど、深く知るだけなら友だちで充分。付き合わなくていいじゃない。相手の顔が好みじゃなくても、服の趣味が違っても、一緒にいて楽しいと感じた瞬間は恋してたんだよ」

  恋に恋して空回りしていたのかもしれないけれど、私は彼と付き合っていた間、いつも笑顔だった。悔しいけれど満足していたのは間違いない。

 「元彼はもったいないことをしたね」
「え?」
「僕だったら、キミみたいに丁寧に恋する人とは簡単に別れられないけどな。別れても元彼を見直して理解しようとするなんて、優しすぎない? 
 元彼はキミに愛されたことを感謝するべきだし、めいっぱい後悔するべきだね」

  色素の薄い茶色の瞳がまっすぐに私を見ていた。創也さんと視線が合ったのはたった数秒だけれど、私の頬は一瞬で熱く火照る。

 そんなことを男の人に言われたのは初めてだった。彼氏にすら、私は心からの「ありがとう」を言われたことがなかったかもしれない。

 ――気が利くね。
――助かるよ。
――悪いね。

  バイト先のお弁当を奢ったり、財布を忘れたときに電車代を出してあげたり、100万円を手渡した時でさえも。感謝とはいえない曖昧な言葉ばかり。そんなリアクションに満足していたのであれば、確かに私は優しすぎる。

 創也さんだったら彼のような態度は取らないはず。「ありがとう」を言わないなんてあり得ないだろうし、そもそも彼女に何か負担させることはしないと思った。さっき会ったばかりで創也さんのことは何も知らないけれど、私は確信した。

 「まだ未練があるの?」

  その質問に深い意味なんてないのはわかっている。けれど、私は今、創也さんにまだ彼のことを引きずっているとは思われたくなかった。

 「未練なんて全然! ないんですけど、あの、お金を取られちゃったので……」

 それは紛れもない事実。みっともない失恋の真相。

 「お金を取られた?」

 創也さんに怪訝そうな顔をされると恥ずかしくなる。私は馬鹿な女ですと宣言しているみたいで、意味もなく座り直してみたり。

 「お金を貸してほしいって言われて、100万渡したらいなくなっちゃいました……」
「100万も? ちょっと聞き捨てならないですね」

  ちょうどアイスティーを運んできた怜司さんが眉をひそめた。

 「何て言われてお金を渡したんですか?」
「オンラインゲームができるネットカフェを作りたいから助けてほしいって……」

 真剣な表情はからかっているわけではなさそう。怜司さんは一瞬考えて、カウンターの中の瞬君を見た。

 「うん。もしかすると、もしかするかもね」

 何を通じ合っているのか、瞬君は小さく頷く。怜司さんはエプロンのポケットからスマホを取り出すとどこかに電話をかけ始めた。

 「俺だ。ちょっと聞きたいことがあるんだが……」

 そのまま話しながらバックヤードに入ってしまう。その姿を見送る私に瞬君が言った。

 「ごめんなんだけど、その元彼の写真ってまだ持ってる?」

 申し訳なさそうな顔で律義に両手を合わせるのを見て、私は断れるはずもない。スマホに入っていた彼とのツーショット写真を見せた。

 「絶対に悪用しないから再撮してもいい? キミを助けられるかもしれない」

 私が頷くのを待たずに瞬君は自分のスマホで彼の写真を撮影し、「ありがと」と笑った。カウンターの中でスマホの画面を忙しなくタップし始める。

 ――キミを助けられるかもしれない。

  瞬君の言葉が頭の中で繰り返されるけれど、それはどういう意味?

 「えっと、あの……?」
「僕たち、キミの元彼をたぶん知ってる」

  カウンターに頬杖をつく創也さんの声は少し低くなっていた。眉間に皺を寄せて、あからさまに機嫌が悪くなっているのがわかる。

 「嫌いなんだよね。女の子いじめる男って」

 フンと大きく鼻でひと息つくと、バックヤードに「怜司、どんな感じ?」と声をかけた。

 「裏が取れた。間違いない」

 スマホを耳にあてたまま顔を出す怜司さんは大きく頷き、それに畳みかけるように瞬君も言った。

 「こっちも見つけたよ。昨日から株木町のネットカフェに入り浸ってるって」
「株木町のどこだ?」
「市役所通りのカラオケ屋の隣、スカイって店」
「スカイ……ああ、空山の事務所が入ってるビルか」

  怜司さんと瞬君の会話を追ってみるけれど、私には話の核心がいまいちつかめない。

 「そいつ、どうするつもり?」

 じっと会話を聞いていた創也さんがボソッと言うと、瞬君は拳を握ってニッと微笑んだ。

 「任せてもらえるんなら、俺が片をつけるよ」
「待て。瞬は手を出さなくていい」

 でも、それを怜司さんが止めて、かかってきた電話を取るとまた誰かと話し始めた。

 「へーい。怜司が来てから、ほんと話が早いよね。よっ……と!」

 言いながら、瞬君は分厚いパテをバンズに乗せ、その上にチーズ・玉ねぎ・ミートソース・トマト・レタス・アボカドを手際よく積み上げた。

 「あとは、ポテトをつけて……っと。はい、お待ち! スペシャルバーガーね!」

  カウンターごしに差し出されたのは、チラシの写真どおりの巨大なハンバーガー。スペシャルというだけのビッグサイズだった。

 「わあ……! 食べきれるかなぁ」

 けれど、言ったそばからお腹がグウと鳴って頬が熱くなる。空っぽの胃は私の発言を撤回すべくうなっていた。

 「めっちゃうまいから、女の子でもペロッといけちゃうよ!」

 腹ペコな私に親指を立ててウインクする瞬君はまるでアイドルみたい。そんなわざとらしくも見える仕草が様になるなんて、そうそういないだろう。
 私はキラキラした笑顔に見惚れながらも、おいしそうな匂いに引き寄せられる。ものすごい厚さのスペシャルバーガーを両手に持つと大口を開けてかぶりついた。

 「ん! おいひぃ……!」

  肉汁あふれるパテと濃厚なチーズ、さっぱりした酸味のトマト、歯ごたえの良いシャキシャキのレタス、クリーミーなアボカド。それぞれがメリーゴーラウンドのように口の中をめぐり、噛むたびに違う味わいが広がった。

 「ミートソースは俺のオリジナルレシピなんだ。結構いけるでしょ?」

 瞬君はニコニコしてハンバーガーを頬張る私を見ている。確かに、深い甘みのあるミートソースはお肉ともトマトとも相性抜群。バラバラになりそうな具材をうまくひとつにまとめていた。大きさだけでなく、味もその名のとおりにスぺシャル。
 私はまるで初めてハンバーガーを食べた人のように夢中でかぶりついていた。数日ぶりのまともな食事は、空っぽの胃と乾ききった心をじんわり満たしていく。

  トマトってこんなにおいしかったっけ?
 パテに乗ったチーズってこんなに味が濃かったっけ?
 記憶の彼方に追いやられていた食べる楽しみを改めて実感しながら、私はすっかり満足していた。

 「ふふ。いい笑顔だね」

  隣に座る創也さんが呟いて、そう言われて初めて、私は自分が笑みを浮かべていることに気づいた。

 「食べるって大事だよ。おいしいは正義だから」

 そのとおりかもしれない。彼と連絡が取れなくなって、ろくに食べれなくなってから、私はすべてをネガティブに考えるようになっていた。いきなり音信不通になるなんて怒ってもいいのに、自分が悪いことでもしたんじゃないかとビクビクしたり。このまま彼と別れたら、一生誰とも付き合えないんじゃないかと思ったり。不安と寂しさで何も喉を通らなくなったけれど、そんな私は自分から不幸の花を摘んでいたのかもしれない。 

 でも、瞬君が作ってくれたハンバーガーを口いっぱいに頬張っている今、彼のことなんてどうでもいいと思えてくるし、彼氏なんてまた作ればいいと胸に期待がふくらんでいる。世界の終わりと絶望したのはくだらない幻想で、私の人生はまぶしいくらいに明るくずっと先まで続いていた。

 「本当においしいです……!」

  心の底からそう思った。

  マダムが言ったように男の人はこの世にごまんといる。私はたまたまハズレを引いただけで彼以外に恋人を作れないわけじゃない。そう思いながらハンバーガーをかじろうとして、右手のネイルが剝がれていることに気づいた。お花のストーンが取れて爪先を覆っていたピンクのジェルが欠けている。春らしく整えたはずの指先はいつの間にこんな有様になったんだろう。そういえば、週一で続けていたクレイパックも、お風呂の後にかかさず塗っていたボディクリームも今週はすっかり忘れてしまっている。

 人間は心が満たされないと身体が動かなくなり、身体を気遣えなくなると心はさらに貧しくなる。そうやってどんどんダメになっていくんだろう。

 「はあぁ……」

 私はまだまだ捨てたもんじゃないと信じたいけれど、思わずため息が出た。
 今はとりあえずお腹いっぱい食べて、ネイルもクレイパックもボディクリームもちゃんとやろう。女として、ちゃんと。
  そう心の中で決めた時、怜司さんがバックヤードから出てきた。創也さんと瞬君を見て深く頷きながら私の席にまっすぐ歩いてくる。顔を覗き込むように少し屈み込み、そしてハッキリとこう言った

 「元彼が今、逮捕されました」

  一瞬、何を言われたのかわからないくらい、それは私にとってショッキングな一言だった。

 「え……?」

 数秒の沈黙の後、口から出たのはその一文字だけ。

 「二週間前も同じような結婚詐欺の話を聞いたんです。オンラインゲームができるネットカフェを作りたいと言ってお金を奪う手口もまったく同じで」
「怜司さんは警察の人……ですか……?」

 状況をうまく把握できない私の質問に、怜司さんは苦笑いして首を横に振る。

 「怜司は顔が広いんだ。会員制の高級フレンチで長くマネージャーをやってたから」

 創也さんが説明してくれるけれど、それが適切な説明なのかはわからなかった。さっき電話して今もう逮捕されたなんて、そんな話ある?

 「同じ手口の被害届がいくつかあったんですが、犯人の顔写真を誰も持ってなくて決め手に欠けてたんです。よく元彼の写真が撮れましたね」

  怜司さんに言われて、彼が写真嫌いだったことを思い出す。写真映りが悪いからと毛嫌いしていたのに、先週「人生を変える。俺は変わる」と急に将来の話をし出して、彼のほうから二人で撮りたいと言ってきたのだった。

 あのとき、彼はなんて言ったんだっけ?

 ――やりたくもない仕事をやり続けても仕方ない。俺はお前と一緒に人生を変えたい。

  職場で面白くないことでもあったのかなと思ったけれど、それよりも私は『お前と一緒に人生を変えたい』という一言がうれしくて。プロポーズされたと勝手に思い込んで舞い上がっていた。
 あの日は楽しかったな。私の家で一緒にカレーを作ってずっと笑ってた。

 「さっき見せてくれた顔写真で池梟から真宿、六歩木、横波間までリサーチをかけたんだ」
「リサーチ?」
「あ、キミにはモザイクをかけたから顔バレはしてない。安心して」

  瞬君の言葉がいまいちピンと来ない。

 「瞬は怜司とはまた別の意味で顔が広くてね」

 創也さんは的を得ない説明を畳みかけてから、「大丈夫?」と確認するように私の顔を見た。

 「いくらなんでも逮捕は驚いてしまいますよね」

 怜司さんも申し訳なさそうな顔をするけれど、瞬君だけはバッサリ斬り捨てる。

 「相手はプロの詐欺師だぜ? ざまあみろでしょ」

 確かに。私を騙してお金を奪ったんだから。

 「ざまあみろ……」

 口の中で呟いてみたけれど、心はスッキリするどころか、すきま風が吹くように寒くなった。

 「やっぱり、今すぐには納得できないよね」

 創也さんの呟きが引っかかる。そうじゃない。

 「納得はしてます……ざまあみろ、です。だって……彼のことなんか、もう何とも思って……」

 言いながら視界がぼやけてくるのはなぜだろう。あんな人、大っ嫌いなのに。

 「いつか、ちゃんと何とも思わなくなる時が来るから。無理しないで」

  創也さんはティッシュを取ると私の頬をやさしく拭った。鼻の奥がツンとして嗚咽がこみ上げてくる。堪らずに私は号泣した。

 ◆◆◆

 その後、ひとしきり泣きはらした私は、思いっきり泣いたからか、またお腹が空いて。瞬君に「忙しい人だね」なんて、からかわれながら残りのハンバーガーを平らげた。完食できるかわからなかった大きなハンバーガーはすっかり私の胃に収まっている。涙と一緒にぐちゃぐちゃの感情があふれ出て、心は空っぽになったかと思ったけれど、こってりと肉々しいパテや濃厚なアボカドが新しいエネルギーを注ぎ込んでくれたみたい。 

「ほら、言ったでしょ? 女の子でもペロッといけちゃうって」

  瞬君は付け合わせのパセリすらなくなったお皿を見て満足そう。ミートソースとポテトの油で手がベトつく私に、「手を洗うなら奥にトイレがあるよ」と教えてくれる。その指が差すほうを振り返るとRestroomと書かれた赤い扉があった。

  石鹸をつけて手を洗いながら、鏡に映る自分の顏に自然と目がいく。ある程度は予想していたけれど、直視に耐えられないほど酷い顔をしていた。
 アイシャドウやアイラインはもちろん、ファンデーションもあらかた涙で流れ落ち、腫れぼったい瞼は重く目に覆いかぶさっている。
 女優やモデルとは言わないけれど、自分としてはそこそこの顏と思っていたのに。鏡には何とも恨めしい女が映っていて、この顔で創也さんに見つめられたのかと思うといたたまれなくなった。
 恥ずかしくてトイレにこもりたくなる。私は髪の毛で顔を覆うように俯いて席に戻った。自分の手元ばかり見つめて、誰の顏も見ることができない。

 「ねえ」

 そこに膝をついてしゃがみ込み、無理やり視界に入ってくるのは創也さん。

 「メイク直し、する?」
「へ?」

 言いながら手に持ったチークブラシをくるくる回した。

 「僕、女の子きれいにするの得意なんだ」
「え……はぁ……」

 突然の提案に戸惑いながらも、カウンターに黒いメイクボックスが見えて創也さんが冗談を言っているわけではないとわかる。階段状に開いたボックスには色とりどりのアイシャドウやリップが並び、大きさが異なるブラシもたくさん揃っていた。

 「大丈夫。ちゃんと顔を上げて帰れるようにするから」

 何も言わない私の返事を待たずに、創也さんは首に白いケープをかけて前髪をヘアクリップで止めた。

 「肌、きれいだね。きめ細かくて毛穴も目立たないし。ちゃんと手入れしてるでしょ」
「え、いや……全然。たまにクレイパックするくらいで」
「やってるじゃん! えらいよー」

  創也さんの細く長い指が頬に触れるたび、顔面の温度が一度上がる気がした。長い足を大きく開いて腰を落とし、顔をグンと近づけるのだけど、呼吸する微かな音が聞こえるくらい近くてドキドキする。
 創也さんがじっと見つめてくるのはお化粧をするためであって、私を見ているわけじゃない。そんなのわかっている。だから、見返すなんてできなくて、私は不自然に壁の鳩時計を凝視していた。創也さんがコスメやブラシを取るために背を向けるときだけ、つい目で追いかけてしまう。

 広くて四角い背中。

 「ん、どうしたの?」

 不意に顔を半分だけ傾けた創也さんと視線が絡んで、私はしどろもどろになる。

 「いえ、何も……! その……メイク……メイク道具がいっぱいだなって……」
「ああ、僕の本職はこっちだから。もっと有名になって、たくさんお仕事もらえるようになれたらいいんだけどね」
「創也さんだったら、メイクさんよりモデルさんのほうが合ってる気が……」

 それは私の率直な感想だったけれど、瞬君もすぐさま同調してくれた。

 「だよね。キミもそう思う? 創也は絶対裏方の人間じゃないよね」
「はい、モデルさんになったら売れそうな感じです」
「モデルになったら売れそう……ぷっ」

 変なことは言っていないはずなのに、瞬君はなぜか吹きだして大笑い。

 「いいんだよ! 僕はヘアメイクアーティストとして売れたいんだから」

 肩を震わせる瞬君を強めにたしなめて、創也さんは淡いブラウンのアイシャドウを手に持った。

 「目、閉じてくれる?」

  言われるままに目を閉じても創也さんの動きは気配でわかる。鼻の先に微かな体温を感じて緊張せずにはいられない。香水とは違う、ほのかに甘い香りはシャンプーなのか柔軟剤なのか。さわやかだけど女性的な香りが鼻孔に届いて、胸がきゅうと締め付けられた。
 小刻みに目の周りを動く筆やブラシはくすぐったいような。何かの魔法をかけられているような気もしたり。

 「口、少しだけ開いて」

  目から手が離れたと思ったら、吐息交じりの囁きが耳をくすぐった。大声を出す必要はないのだろうけど、それにしても創也さんの声は色気がありすぎる。心臓が飛び出そうなくらい強く鼓動し始めて、私は息苦しさすら感じた。
 顎にそっと添えられる指と、唇の上をやさしくなぞっていくリップブラシ。彼氏にもこんなに繊細に扱われたことはない。私は膝の上に乗せた手を思わずぎゅっと強く握りしめた。

 「はい、できた。目を開けていいよ」

  創也さんがひとつ息をつく。彼の気配が遠のいていくのを感じてゆっくり瞼を開くと、目の前には大きな鏡があった。華やかな眩しさを漂わせる女性が映っている。

 「誰……?」

  そこに映る顔が自分のものだと一瞬わからなかった。
 奥二重が泣きはらしてさらに重くなったはずなのに、目元は不思議とスッキリして凛とした雰囲気さえ漂わせている。小さく薄い唇はぽってりとした存在感を示して色っぽく感じた。

 ――私の目ってこんなに大きかった?
――唇が海外のモデルさんみたい。

 「わぁ……!」

 思わず声が漏れて、私は自分の顏に見惚れてしまった。

 「かわいいでしょ? 奥二重は上瞼より下瞼を丁寧に塗って、アイラインは目尻重ために引くといいんだよ」
 「ウソでしょ? これ……これが私……?」

 鏡に寄ってまじまじと見つめるその人は確かに私なのだけど、全然私じゃないみたい。すべてが平均点の平凡な魅力を最高レベルまで引き上げた、史上最強の顏が出来上がっていた。

 「うれしい! こんなメイク、初めて……!」
「良かった。そう言ってくれて」

 ニコニコする創也さんの横で、怜司さんが「これは絶対モテますよ」と感心したように頷いている。

 ――チリリン!

 「いらっしゃいま……?」

  ドアベルはつねにお客の来店を不意に報せてくれるものだけど、元気よく声を上げた瞬君は途中で言葉を失った。表情が読めない彼の視線をたどって振り返ると、そこには男の人と女の人が1人ずつ。金色の記章がついた手帳を見せながら怜司さんにこう言った。

 「通報ご苦労。ちょっといいかな?」

  名乗るまでもなく、彼らは警察官だった。

 「こんにちはー! 創也さん、いるー?」
「瞬君、今日もスペシャルバーガーお願い!」
「怜司さん、会いに来たよ!」

  彼らの後ろから女の子が3人、店に入ろうとするけれど、怜司さんはそれをやんわりと断った。

 「ごめんなさい。今日はこれから貸切なんです」

 入り口のドアには『OPEN』の札がかかっていたはずなのに。軽く不満をぶつける女の子たちをなだめてから、怜司さんはドアの札を『CLOSE』にひっくり返した。
 きらやかに響く女の子の声が遠ざかると、店は今日にシンと静まり返る。

 「あなたが犯人の写真を提供してくれたのね」

 健康的に日焼けした女性刑事が私に話しかけた。ハキハキと早口にしゃべるその人は見るからに体育会系。でも、一重のつり目は細くゆるみ、意外にもフレンドリーな表情を作った。

 「はい。えっと……」
「いきなりごめんね。ビックリしちゃったわよね。でも、ちょっとお話聞かせてほしいの」

  そこから、いわゆる事情聴取のようなものが始まり、“犯人”となった彼との馴れ初めからお金を渡して姿を消すまで、事細かに質問された。当然ながら、『ちょっとお話』どころで終わるわけがない。2時間以上もあれやこれやを話して、ようやく終わったのが午後3時半。

「……じゃあ、また何か聞きたいことがあったら連絡させてもらうわね」

  女性刑事はにこやかにそう言って男性刑事と店を出ていった。

 「お金、返してもらえることがわかって良かったね」

  逆向きにした椅子の背もたれに頬杖をついて創也さんが言う。

 「彼、キミにだけは本気だったって。本気になったから、詐欺組織から抜け出そうともがいてたんだね」

  彼は私にインターネット広告の会社で働いていると嘘をついていた。それは詐欺のために作られた設定で、本当は組織化された詐欺グループの実行犯。仕事だけでなく、名前も年齢も出身地も家族構成も、すべてがデタラメだった。
 でも、私にとっては二股されていたことの方がショックで。詐欺とはいえ、自分以外の女性と恋人関係になっていたことにはため息をつかずにいられない。

 「今さら本気と言われても……」

  それが彼の本心だと、どうやって確認すればいいんだろう。まったく馴染みのない本名を聞かされてもしっくり来ないし、彼の顔が急にぼんやりしてくる。何もかもが嘘なら、彼はもはやこの世に存在しないんじゃないかと思えてきた。
 恋愛感情はすでにない。お金を返してもらっても、本気を告白されても、私の心はもう動くはずがなかった。

 「じゃあ、終わりにしていいんじゃない? 涙すら出ないなら」

 創也さんの言うとおり、今の私は泣く気にもならない。呆れて疲れて、そして、お腹が空いていた。

 ――グゥゥ、キュルル。

 「もう腹ペコなの? まだおやつの時間だよ」

  静かな店内に響く腹の虫の声を瞬君は聞き逃さない。笑って「何か食べる?」と聞いてきた。

 「アタシはスペシャルバーガー、2つね!」

 しかし、私が何か言う前に、誰かが大声でオーダーする。声がした入り口を振り返ると、そこにはマダム・アイリーンが仁王立ちしていた。

 「ドリンクはコーラ! ポテトは多めに盛ってくれる?」

 大股で店に入ってくると、私の隣にどっかり座り込む。なんだか不機嫌そうに眉をしかめているのが怖い。

 「今日から水星が逆行するってことは、そりゃ知ってたわよ。水星逆行がいろいろと厄介を持ち込むってこともね。
 だけどアンタ、コレはないんじゃない? 鑑定中に刑事がやってきて、こちとら商売上がったりよ。午後の予約は全部リスケになっちゃったじゃない!」

 大声でまくし立てながら私を睨んでくる。

 「静宮絹ちゃん。彼氏は詐欺師だから、早く警察行きなさいって言ったわよね!」
「は、はい……すみません……」

  縮こまるしかない私に、マダムは深いため息をつく。

 「まあ、アンタに怒ったって仕方ないわ。乙女座の二十歳で処女ときた日にゃあ、そんなチャッチャと動けないわよね」
「しょ……!」

  創也さんや瞬君、怜司さんがいる前で処女なんて言わないでほしい。私の顏は火がついたように熱くなった。
 怜司さんが持ってきたコーラを一気飲みして、マダムはふうと一息つく。

 「お客さんに文句言っちゃダメでしょ」

 創也さんがチクリと言うけれど、マダムは私の肩をつかんで強引に引き寄せた。

 「一回でも鑑定したなら娘も同然よ。絹ちゃんはね、詐欺男になんか騙されてるけど、ものすごい強運の持ち主なんだから」
「えっ、そうなんですか?」

  思わず、食い気味に聞き返してしまう。高校を卒業してからずっと、自分が運の良い人間だなんて思ったことがなかった。

 「アンタめちゃくちゃ化けるわよ。楽しみにしておいで」

 ニッと笑うと、マダムは瞬君が差し出した巨大なプレートに「ワオ!」と声を上げる。皿というより、もはやお盆のプレートにはスペシャルバーガーが2つと山盛りのポテト。女性が食べる量には到底思えなかった。
 「いただきます!」と手を合わせて、マダムは豪快にバーガーを食べ始める。

 「あ、そういえば見たわよ。駅ビルのディファニーの看板。創也の雰囲気に合っててすごく良かった。絹ちゃんは見た? ディファニーのブレスレットの看板」
「ディファニーのブレスレット……?」
「駅ビルの一番目立つところにデカデカとあるじゃない」

 駅ビルの目立つところと言われると一カ所しかない。マダムの占い館に行くとき、確かに高級ブランドジュエリーの看板を見た。ダイヤが輝くバングルタイプのブレスレットをつけて、金髪男性が物憂げな顔をしてたっけ。

 「え?」

 記憶をたどって、看板に映っていた男性の顔を改めて思い出す。大きな瞳と長いまつ毛、形の良い鼻、少し大きめの口、顔を覆うように触れる細く長い指。
 ぼんやりしていた記憶がカチッと明確な像を結んで、創也さんの顔が浮かび上がった。

 「ええっ! あの看板、創也さんだったんですか?」
「そうだよ。創也はメイクさんじゃなくてモデルさんなんだ。そこそこ売れてるんだけどね」 

ぷっと吹きだす瞬君の顔を見るのは二度目。
 おしゃれに疎いとはいえ、すでにプロとして活躍する人に「モデルさんになったら売れそう」だなんて、私はとんでもない失言をしたと気づいた。

 「何も知らなくて、すみません……!」

  穴があったら入りたいとはまさにこのこと。チラと創也さんを見ると、苦笑いして困ったような顔をしていた。

 「創也、もっと頑張って絹ちゃんに顔を覚えてもらわないと」

  と、ニヤリと笑ったのはマダム。口いっぱいにバーガーを頬張ったあと、空のグラスを傾けて「ビールちょうだい」と怜司さんにお願いする。

 「ウチで酒盛りはやめてくださいよ。マダム、飲みだすと長いんだから」

 言われるままにビールを運ぶけれど、あきれ顔で首をすくめる怜司さんがなんだか可愛い。

 「これ食べたらアクアリウムに行くわよ。みんなも行く?」
「行く行くー!」

 瞬君が手を挙げて喜んだ。

 「アクアリウム……?」
「絹ちゃんも来たら? 隣の通りにアクアリウムってショットバーがあるの」

 マダムはビールをひと口飲んで続ける。

 「私は占いの館のほかに、このファイヤーゲート・アクアリウム・砂時計・アルコバレーノというお店をやっててね。それぞれが『火・水・地・風』のテーマを持っているの。
 12星座は4つのエレメントグループにわけられるんだけど、このファイヤーゲートは『火』のお店。スタッフ全員が火の星座……瞬は牡羊座、怜司は獅子座、創也は射手座なのよ。
 アクアリウムは『水』がテーマのショットバーで、砂時計は『地』がテーマの純喫茶。アルコバレーノは『風』のお店でイベントスペースもある新しいスタイルのお店を作ろうとしているの。スタッフはみんなイケメンでいい子たちよ」

  創也さんの話を思い出す。ファイヤーゲートは占い鑑定のアフターフォローのお店だと。それと同じニュアンスなら、さらに3つのアフターフォロー店があるということ。マダムアイリーンは優れた占い師であるだけでなく、経営者としても敏腕らしい。
 そして何より、失恋したばかりの私にはお店のスタッフが全員男性というのが気になった。

 「みんなイケメン……」
「アタシは面食いだからね。自分のお店のスタッフはかわいい子を揃えたいのよ」

  ボソッと呟いた私にマダムが小声で囁き、ニッと笑った。
 この人、デリカシーがないガサツなだけのオバサンと思ったけれど、案外いい人なのかもしれない。バーガーを頬張りながら微笑むマダムにつられて私も頬が緩んだ。

 「今日は飲むわよー! とことん酔っ払うからね!」
「うわ……まだ日も暮れてないのに。アクアリウムに電話しとこ」

 創也さんは独り言を呟いて店の電話を取る。瞬君はキッチンを片付けながら鼻歌を歌って、怜司さんはマダムの愚痴に相槌を打っていた。

  彼が私の前から姿を消して4日。たくさん失って、絶望して呆れて疲れてしまったけれど、不思議と気持ちは軽かった。好きな人の裏切りに削られた心の傷は、あたたかな優しさと思いやりで癒されている。 

 瞬君が作るおいしいハンバーガー。
 怜司さんの手際良く聡明な行動。
 創也さんの夢のようなメイク。

 すべてがどん底に落ちた私を救い上げてくれた。

 「絹ちゃん、アンタこれから運命変わるわよ」

  ビールグラスを傾けながら、マダムが何気なくそう言った。

 「でも、運命はやってきましたよと手を振って知らせてはくれないから、心の感度を上げて準備しておいてね。チャンスをつかむか逃すかはアンタ次第よ」

 淡々とした口調なのに、その言葉は私の心に強く深く響いた。

 「はい、頑張ります」

  きっとつかめる。私は大丈夫。今とは違う明るいどこかに、ちゃんと笑顔で進んでいける。
 根拠なんてないけれど、私はそう思った。

 

 了

#創作大賞2023 #恋愛小説部門

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