人が本音で生きる姿は、こんなにも美しい。
こんにちは。平井咲子です!
プロコーチとして、人事として、人に向き合う仕事をするものとして自分のことも深く振り返ってみようと思い、自分史を書いてみることにしました。
私らしさをあらわすキーワードとしては・・・
生まれながらの元気人材、いるだけで場を明るくする
感受性・感情表現豊か
上下関係を嫌いフラットな関係性を好む
本音で人とつながる
絶望を糧に飛躍する
こんなことがある気がします。
人が本音で生きるパワフルさ、美しさに魅了される人生。逆に、人の可能性が潰されていくことに心の底から怒りと悲しさをおぼえる人生。そんな道を辿ってきたんだなあとしみじみしています。
元気でしっかり者なリーダータイプ。でもいつも寂しかった
1985年、島根県出雲市生まれです。長女、初孫で、両親からも祖父母からもめちゃくちゃまっすぐな愛情を受けて育ちました。両親が夫婦喧嘩をするようなところはほぼ見たことがないくらい、両親がとても仲がよく、とても平和な家庭環境。
年長で幼稚園に入るまではおばあちゃんの家で過ごしていました。島根県雲南市という、ものすごい山奥におばあちゃんの家はあり、隣の家は500メートルくらい先。家の前は清流が流れ、大根を干していると猿が取りにきておばあちゃんが「こらーー!!!」と猿を追いかけてるような、そんな山奥のド田舎で幼少期を過ごします。5歳下の弟が生まれるまでは、両親・祖父母の愛情を全部ひとりで受け取って田舎を自由に走り回ってました。
そんな自由なところにいたので、幼稚園に入ると両親からいつも、自分の好きなようにしようとわがままを通していないかを心配されていました。当時の連絡ノートでの母と先生のやりとりを読ませてもらってもそんな内容が多かったです。あとは、弟が生まれてすぐ大きな病気がわかり、入退院を繰り返していて母はずっと弟の付き添いをしていたので、いつもお母さんがいないことが寂しかった記憶も強いです。
母は弟の病気が落ち着くと医療事務の仕事に時間を割くように。毎月月初が病院の事務作業の締切で深夜まで仕事をしていました。当時私は小学生。今夜はお母さんがいないという日は、学校でも絶望的な気持ちで過ごしていたことをよく覚えています。そんな日の夜はなかなか寝付けなくて、豆電球の薄明りの下で、外を通る車の音を一生懸命聞いて、ああまたお母さんじゃなかった、また違った、ってずっと待ってた(一度もお母さんの車の音をとらえたことはなかったと思う)。この時の経験から、私は大人になったら絶対子どもにさみしい思いはさせない。そんなふうに思うようになりました。
とはいえふさぎ込んでいたわけではなくて、小学校では普段はかなり活発なリーダータイプでした。学級委員、放送委員長、などいつも「○○長」的な役目をもらうような、クラスに必ず1人はいる盛り上げ役。運動は苦手だったけど勉強は公文でのめり込んで、小学生で中学校の数学を勉強してました。
周囲よりちょっとだけ頭の回転が良かったのか、何かチームでやる活動でみんながわちゃわちゃ一生懸命議論してなかなか結論が出ない時、「え、こうしてこうしてこうすればよくない?なんでそんな簡単なこと長々と喋ってんの?」みたいな、それ言ったら元も子もないけど正しいよね・・・というような正論が見えて、それを思った通りにばさっと言ってしまって周囲の反感を買うことも多かったです。両親からは「本当に思ったことを言うのはよくないこともあるんだよ」とよく言われていました。でもそれでも何度も本音を言っては人とぶつかることを繰り返す。本音が一番パワフルだという信念があるし、常にオープンマインドで本音で人とつながっていたいという欲求が強いみたいです。
大人になってから重要な再会を果たすピアノとの出会いも小学生の頃の出来事。ただ当時は、学校帰りに友達が行くから一緒に行くという程度で、あまり真面目に取り組んではいなかったし、発表会とかでも頭真っ白になって途中で止まっちゃったりとか、あまりいい思い出はないです。しかも、小学5年生の時に、すごくピアノが上手な転校生の子が来て、その子が弾いてるのをみた時に、あー私はもういいや、って思ったこともよく覚えています。
吹奏楽にのめり込む。フラットな組織で勝つことを学んだ時代
中学校に入ると、友達に誘われてなぜか新体操部に入ることになります。全然運動できないのにもかかわらず。結果、全然つまんないしできないし何これってなって、1ヶ月で辞めました。その後何か違う部活をやろうと思って入ったのが吹奏楽部。ここで、宝物のような時間を過ごさせてもらうことになります。
まず何をおいても、部活の顧問の先生方が本当に素晴らしかった。とにかく、自分たちで考えてちゃんと意味のある練習をせよ、ということを言い続けてくれた先生方でした。
とかく部活って、先祖代々古くから受け継がれてきたような意味のわからない非合理な練習とか変な時間の使い方、変な人間関係みたいなものがはびこっていたりするもの。私が入部する前は、私たちの学校の吹奏楽部もそんな状況だったと聞きました。何に繋がるかわからない謎の筋トレ、謎の基礎練習、先生にも先輩に言いたいことを言えない思考停止の人間関係、無駄に休みなく週7で練習する、などなど・・・
当時顧問に着任されたばかりの先生が、そういうものを数年かけて少しずつひとつひとつ正して、生徒が主体的に力を発揮するためにほんとうに意味のある時間の使い方に変革していってくださった頃に私は入部し、パーカッションのパートに入ることになりました。
先生方のさまざまな変革が奏功して、わたしが1年生だった頃、2年生・3年生の先輩たちで構成されるバンドが、全日本吹奏楽コンクールの全国大会に出場、金賞を獲得。このコンクールは吹奏楽に青春を賭ける日本中のすべての中高生の憧れの舞台です。当時全国大会は毎年「普門館」という5000人キャパの会場で行われていて、この普門館は野球でいうところの甲子園のような存在。そこに先輩たちが、県大会ですらいい賞を取れないまったくの無名状態から突然、県大会、中国大会と勝ち上がり出場。さらに先輩が卒業してメンバーが変わっても連続して全国大会に出場し続けるというドラマのど真ん中にいました。
先生は短い時間で集中して練習しなさいという方針だったので、あらかじめ決められた部活の時間だけ部室に行けば良かったけど、とにかくずっと音楽のことを考えていました。朝の授業の前や休み時間はとにかく部室へ。家でもスティックを持ち帰って練習。授業中もカタカタ机を指で叩いてリズムを追いかけていて、友達にそれうるさいからやめてって言われたこともありました。
何にそこまで熱中していたのかと振り返って考えると、とにかく演奏会の本番、最高の演奏ができている最中の「この時間がずっと終わらないでいてほしい」と思うような高揚感。それに取り憑かれていたのかなと思います。まずは自分たちが心の底からやり切ったものを出して楽しむ。それが結果的にお客さんの心を動かすといいなと。とにかく思いっきり積み重ねて積み重ねて積み重ねてやりこんで、その途方もなく地味な蓄積が、数分間の本番で自分にとっても、また結果的にお客さんにとっても感動的な体験をつくること。打ち上げ花火みたいに、準備に想像を絶する地味な作業と労力を費やし、花ひらく最高の一瞬があること。そのために先生や先輩に言われなくても、当たり前のように、ずっと練習のことばかり考えていました。
思考停止せず有意義に時間を使うことを主体的に考える、という先生の教えに立つと、当時の自分にとっては、先輩に言いたいことを言えないのが一番の害悪だと感じた時期がありました。良い音楽の前には人は完全に平等で、学年や経験値は全く関係ない。だからこそ、いい演奏を目指すために、感じたことはお互い言い合うべきだと。
こういう考えを、2年生の時、3年生の先輩に思い切って伝えてみたことがあります。確か夏休みの練習の帰りの夕方の校庭。当時はまだ根深い上下関係が残っていたけど、もっと言いたいことを言い合える自由なチームにしてほしいというようなことを先輩に勇気を振り絞って伝えました。最初は「何言ってんの」って反応だったけど、結構時間をかけて話して、最後は理解してくれました。その出来事を境にパート練習で合わせてみて感じることをお互いに言い合ったり、お互いを下の名前で呼び合うようになったりと雰囲気が変わり、本音で思うことを言いやすいチームに変わったように記憶しています。そのことが、チームに対してのコミットメントを高めていたと思うし、演奏の質にも間違いなく影響していました。
吹奏楽という目の前のコトにも熱中するのに十分な理由があり、一緒にやるチームや先生をはじめとした周囲の仲間たちも大好きだった。何をやるか、誰とやるか、これが両方とも最高の理想状態に整っていたからこそ、成果を出せたように思います。
2年生になると先輩たちと共に全国大会を狙うメンバーに入れてもらい、全国大会・普門館へ、そして金賞獲得。3年生ではパーカッションパートのリーダーと、部活の副部長を任せていただきました。3年生でも普門館の舞台に立ち、私たちのバンドは3年連続全国大会金賞という、当時の中学生バンドマンたちの憧れの最高成果を手にしました。ただこれらの成果に対して「謙虚な誇りを持て」と言ってくださった先生のメッセージも素晴らしかったと思います。華々しい成果に決して溺れず、謙虚に誠実に努力することを忘れるなと。
ちなみに、部活のことばっかり考えていたので、人生で初めてお付き合いした彼も吹奏楽部の先輩でした。特に自分から好きだと思ったわけでもなかったし、なんで付き合うことになったのかよくわからないですw よくわからないまま付き合い始めて、よくわからないまま振られましたw でも考えてみればこの後お付き合いした人はこの最初の彼から始まって全員年上です。
何も熱中することがない。周囲の期待に押しつぶされる高校時代
中学時代は部活のことばかり考えていたけど、勉強も好きだったので、ずっと成績は良かったです。吹奏楽への熱中冷めやらぬまま、高校は地元で一番の進学校、かつ吹奏楽部も強くて全国大会への出場常連校だった高校に進みました。
ただこの高校時代は、今思い出しても、とてもうつろな時代でした。吹奏楽部に一度入るも、高校の部活の活気は中学のそれとは全然違いました。それこそ思考停止でただダラダラと長時間練習しているように見えたし、言いたいことが言えない雰囲気も好きになれなかった。同じ吹奏楽で全国大会に行けるようなバンドでも、部活の雰囲気ってこんなに違うんだなと思ったことを覚えています。その雰囲気が好きになれず、1ヶ月くらいで辞めました。
そこからは、料理を作るクラブとか、当時まだちょっと珍しかったパソコンを触るクラブとか、そういうよくわからない部活に、友達に誘われるままに行ってました。なんの目的も動機もなかったです。
好きだった勉強も、だんだん雲行きが怪しくなり始めます。ここまでずっと成績良いところにいて、
「医学部に行ってお医者さんになるのよね」
「文系なら弁護士かな」
「大学は東大かな、京大かな」
など、周囲の人にたくさん言われていました。自分の両親はあまりこういうことは言いませんでしたが、関係性の浅い友達とか、両親の知り合いで私自身はよく知らない大人とか・・・田舎は人間関係が狭いので、この人よく知らないなという人からも「咲ちゃんって頭いいんでしょ」みたいなことを言われる。いざ大学という大きな進路選択に向き合った時、そのような状況をとても苦しく感じ始めました。
だんだん学校に行くのも嫌になってきて、高3の時は、週に1回くらいは学校を休んでいた気がします。両親は急かすことなく「ゆっくりしていていいよ」と言ってくれていたのでその分は救われていました。
こうして周囲の期待ばかり気にして臨んだ現役の受験は大失敗しました。たくさん受ける気力もなかったから、受かる見込みもないのに京都大学ひとつだけを受けて、まったく歯が立たないまま不合格。前期試験だけでもう力尽きて、進路指導の先生からは後期試験も受けるように言われていたけどまったく無気力でそのまま後期試験も受けずに、浪人することを決めました。
こうして人の期待に潰されて自分らしい行動ができなかったこと。ここが人生で初めての挫折だったと思います。
そんなうつろな高校時代についてはあんまり記憶がないけれど、他に思い出すことというと、高校時代にお付き合いした人もちょっと変わった人が多かったなということ。
覚えているのは、まず1人は自分が17歳だった時に34歳だった人w 高校の吹奏楽部はすぐやめてしまったけど、音楽は続けたいと思い社会人バンドの活動に参加するようになって、彼はその吹奏楽団の団長さんでした。当時結婚を約束した彼女がいたのに、その彼女と別れて私とお付き合いすることにしてくれたのでした。でも私もやっぱり年上すぎてうまく話が合わなかったりすることが続いて数ヶ月でお別れすることになって、なんか人生狂わせてしまったようで申し訳なかったなと思います・・・
あともう1人は青森県に住んでいて、大学になかなか入れない浪人生みたいな人。この人も5つくらい年上だったと記憶しています。当時流行し始めたばかりのネットの掲示板で知り合った人で、この人も吹奏楽をやっていた人でした。電話回線を使って通信していた時代だったので、チャットをやりすぎて電話代が高くなりすぎて怒られたりもしょっちゅう。それでも遠くにいる彼とやりとりするのは楽しくて、彼が島根に会いにきてくれたこともあったし、あと夏休みに私が青森の彼のお家に行かせてもらったこともありました。当時、ネットで知り合ったよくわからない人の自宅に泊まりに行くなどという行動を許してくれた両親はなかなかあっぱれだなと思いますw
浪人生時代。自分の人生、自分の時間の使い方は自分で決める。
現役受験に大失敗して浪人生活を始める時、最初に、この1年は誰かに勧められることではなくて自分で決める時間にしよう、と考えたことをとてもよく覚えています。なぜ現役時代あんなにも苦しかったかというとやはり周囲に求められる自分であり続けようとしてしまったからだったなと振り返って思ったのです。日々の時間の使い方も、これからの未来も、自分で決めようと、強く思いました。
とはいえ明確にやりたいこと・目指したい未来があったわけではありませんでした。なのでとにかく一番自分自身のできることの幅が広がりそうな予感と、京都という素敵な場所への単純な憧れから、この1年頑張って京都大学に合格しようと、浪人生活を始めてすぐに決めました。
すごく珍しい仕組みだと思うのですが、私が通っていた高校には「補習科」というものがあります(調べたら今もある)。浪人するにも、受験対策のための予備校がないので、高校の敷地の一角に、浪人生だけが通う校舎があるのですね。高校の先生が授業をしてくれて、浪人期間を過ごすための学校です。高校4年生的な感じで、制服を着て通います。この補習科で浪人生活を始めてみました。
ただこの補習科も、3ヶ月程度通って辞めることになります。とりあえずやってみて、違ったらすぱっと去っていくパターンもなんだか私らしいみたい。高校時代と全く同じようなことを繰り返す日々。同じことやって高校時代よりも良い成果なんか出るわけないということに、行ってみてから気づきました(もちろん補習科で成果を出している人もいると思うので補習科という仕組みを否定するものではありません。ただ自分自身の気持ちの持ちようとして、ということ)。
補習科を途中で辞める人はすごく珍しいので先生にも驚かれたし、止められました。でも辞めて、そのあとはどこにも所属せずに家で浪人生活をしようと決めました。ちょうど夏休み直前の時期だったので、両親に頼んで、夏休みの間だけは、大阪に滞在して大阪・京都の予備校の夏期講習に行かせてもらいました。帰ってきてからは、Z会の教材を一人でやりこんでいました。
毎朝、今日は何をするかその日のタスクを手帳に書き出し、ストップウォッチで時間を計ってどれだけ勉強したかを書き込んで蓄積していました。朝は同じ時間に起きて、決めた時間に食事をして、夕方はきまって犬の散歩に行って、夜は同じ時間に寝る。こうして淡々と家で勉強する生活を半年強続けました。結構ストイックな日々だったと思うけど、何がそうさせたかと考えると、やはり自分の時間を自分で決める、と決めていたことが大きかったように思います。
いよいよ受験本番という頃、両親が言い争いになったこともよく覚えています。滑り止めで受けた私立大学の高額な学費を支払うかどうかが論点でした。そんなことにお金を払うのはもったいないと言う父と、少しでも安心して国公立大学の受験ができるなら払ってあげたいという母。ちなみにおそらくそれが、自分自身が初めて直接見た、明確に両親の意見が対立したシーンでした。私が幼かった頃は、父の意見に対して母はあまり強く言い返さないようにしていたように思うけれど、この時に母が父に対してかなり強く主張している様子を初めて聞きました。お母さんもこんなふうに本音を言うことあるんだなあ、と少し驚いたし、私のために父に一生懸命意見をぶつけてくれているのだと思うとそれは結構嬉しかったです。
とはいえどちらの言い分もわかるなあと思いながら、最終的には「払わなくていい。京大受かれば問題ないでしょ」と伝えました。私が頑張って結果を出せばなんの心配もない、と良くも悪くも腹を括った瞬間だったように思います。腹を括ってやるべきことを淡々とやることができたのは良かったけど、ここでできた「自分が頑張れば周囲は困らない」というビリーフは少なからず後の人生にあまりよくない影響を及ぼしたかもしれません。
そうして淡々と勉強して、結果、第一志望だった京都大学に合格しました。
働くって、楽しい!!
晴れて志望校に入って一番のめり込んだことは、頑張って勉強したんだから授業を頑張ると思いきや、アルバイトでした。
入学してすぐに、何かアルバイトしたいなーと思ってなんとなく近所にあった飲食店で働くことになりました。バイトの面接の時に、なぜかわからないけれど「きみはきっと、スターになれる!」と言ってもらってすぐに採用に。当時の京大生はみんな知ってた「ヤンパオ」というお店で、アジアン料理を出すんだけど、ルフィが食べてるような「マンガ肉」とか、定食のご飯は大盛りの上にさらに「マンガ盛り」というのがあって本当にマンガみたいに山盛りのご飯を出していたり、遊び心がいっぱい。そしてとにかくエネルギッシュで元気な接客をするお店!その中でも私はとびきりの元気印として思いっきり元気にニコニコ仕事をしていました。
4年間この「ヤンパオ」で働きながら、そのほかに掛け持ちで単発のバイトもたくさんやりました。駅に置いてあるタウンワークやフロムエーなんかの求人誌を眺めるのが大好きで、新しい号が出るたびに持ち帰ってずっと見ていました。家庭教師、予備校や塾のテストの採点、美容部員の化粧の練習台、謎の香水を配って受け取った人の署名を集めるバイト(これは友達に頼むのは怪しすぎて自分で筆跡を変えてたくさん適当な名前を書いたりしたw)、岩盤浴の受付、フランス料理店、焼肉屋、お寺の観光案内、バスガイド、試食販売、交通量の調査、選挙の出口調査、などなど・・・面白そうと思ったらなんでもやってみました。
とにかく、働くことが本当に楽しかった!いくら稼げるかとか、報酬やお金に興味はなかったです(いくらくらい稼ぎがあったかも管理してなくて覚えてない・・)。やったことのないところに突っ込んでいって短い時間で仕事を覚えて、それで誰かの役に立つことが本当に面白かったなあと思います。
背景には、働き方に対する両親の価値観も大きかったと思います。お父さんは車の整備士として働いた後に歯科技工士として歯科技工所を自営。お母さんは会社員としてかなり上のレイヤまでラダーをのぼった後、父の技工所を手伝うために退職したけど、やっぱり自分で何かやりたくてビーズアクセサリーのお店で起業して、その後は地元のまちを活性化させるための法人を作ってその法人の経営者をしています。ふたりとも、その時々で大好きなことをど真ん中に据えて仕事人生を歩んでいて、子どもの頃から、「仕事って楽しいの?」と聞くと「楽しい!」ということを生き生きと具体的に語って聞かせてくれていたことが心に刻まれています。仕事とは楽しいもの、もっというと自分の力で楽しくするもの、という価値観はそんな両親からもらったものかもしれません。
ちなみに、一番長くお世話になったバイト先「ヤンパオ」のお客さんだった人が今の夫です。働いていたバイト先で知り合ったお客さんと付き合って結婚するって、そんなことある?とよく驚かれます。お互い最初はなんとも思っていないんだけど、ある日わたしがバイト終わりにまかないのごはんをいただいているときにカウンターで隣に座っていろいろ話していたら、店長やお店のスタッフが「え、あのふたり、いい感じなんちゃう???」みたいなことになって連絡先を交換させられ、そこから二人でも会うようになりお付き合いすることになるというご縁でした。
彼も2つ年上で、大学ではオーケストラでチェロにのめり込みすぎてほぼ授業に行かず3年留年。1年に2単位しか取れなかった年もあったとか。彼が所属していた理学部は7年がMAXで、もう今年卒業できなかったら中退扱いだという年になんとか卒業することができたというダメっぷり。「年上のダメ男と付き合う」というのが私の恋愛パターンみたいですw
就活。自分のありたい姿に初めて向き合う
働くって楽しい!と、そんな仕事観を持って、就職活動の時期がやってきます。何から見たらいいかよくわからなかったけど、まずは、バイトでも直接お客さまの笑顔や幸せに触れられる手触り感のある仕事のほうがより楽しかったというところから、突然、ウェディングプランナーになりたい!と思ってウェディング業界から見始めました。でもその場で会う就活生たちの様子を見ていると、明らかに自分とは違う雰囲気。みんなキレイにお化粧して、控えめで、「人の幸せをサポートしたい!」という感じでその場にいる人が多かったです。この中に自分がいるイメージがあまりわかなくて、もっと視界を広げて見てみようと思うようになります。
そのあとは、消費財、食品、銀行、生命保険、教育、住宅、不動産・・・などなど、とにかく直感でおもしろそうかもと思ったところは業界を問わず片っ端から説明会などに参加していました。
転機になったのは、友達に勧められてなんとなく行ったリンクアンドモチベーション社の説明会。説明会の冒頭に流れた、「ひとりひとりの本気がこの世界を熱くする。」という同社のコーポレートキャッチを表現したビジョンムービーにめちゃくちゃ心が震えてしまいました。そしてその場でお会いした女性社員の方のお話も劇的に刺さりました。その社員の方の「私は若いうちにママになりたい。ママになった時にママがどんな仕事をこれまでやってきたのか胸を張って子どもに話したい。だから若いうちからいかに面白い仕事を任せてもらえるかを一番大事にしてリンクアンドモチベーションで働くことを決めた」という趣旨のお話を聞いて、私が目指すべきはこれだ!!と思いました。いつもお母さんがいなくて寂しかった幼少期の記憶とつながり、私も将来子どもに寂しい思いをさせないために、3年働いてスパッと辞めて子育てに専念しよう、などとこの時思いました(今思えばたった3年で何がわかるのよと突っ込みたいけど)。そしてそのためにはこの女性社員の方と同じように、短い期間でいかにたくさん泣いてたくさん笑ってたくさんの経験ができるか、ここを一番大事にしてキャリア選択をしようと決めました。
そのあとリンクアンドモチベーションで働きたい!と思い、同社のメンターさんにはものすごくお世話になりました。いわゆる自己分析というもの、自分がこれまでどうあったのか、そしてこれからどうありたいのか、そういう自分と向き合う作業をものすごくたくさん手伝ってくださいました。順調に選考は合格していきますが、最終面接手前の役員面接で潮目が変わります。なぜうちで働きたいの?と問われた時、ビジョンムービーのメッセージ、ひとつの道を示してくださった女性社員の方、お世話になったメンターさんのことなど色々なことがとても濃い記憶として思い起こされ、感極まりすぎて、面接中なのにぼろぼろ泣いてしまうという情緒不安定っぷりを発揮。不合格になりました。
本当にこの時同社に対して熱を上げてしまっていたので視野が狭くなりすぎていて、これからどうしようと、一瞬放心状態になりました。この時にまた友達の紹介で出会ったのがリクルートエージェントの社員でした。
リクルートと名のつく会社の人は全員熱苦しくて一緒にいるのしんどそう・・・などと、自分自身も熱苦しいくせによくわからない感じで敬遠していて、リクルートグループの会社はあまりみていませんでした。でも、この時お会いしたリクルートエージェントの社員の人たちはこのイメージをガラリと覆す方ばかり。見た目に熱苦しいわけではなくスマートで、それでいて心の中に熱い炎を秘めているような、そんな人たちでした。リクルートというかたまりに対して、なんとなく情熱的なエネルギーだけを押し付けられ続けるのが苦しそうという印象を持ってしまっていたけれど、なんだ、こういう人たちとなら楽しく自分らしく働けそうだなと思ったことを覚えています。
そのあとリクルートエージェントの面接に進んで1:1で話す機会を何度か経てみると、なんでこんなに私のことよくわかるの?と感じる人ばかりだったこともすごく印象に残っています。ある方には「今の平井さんはなんだかすごくとんがったエネルギーを発してる人だね。もし平井さんがうちの会社に入ってきたら、もっと人を見る目を養って、今以上にもっと人をリスペクトするようにもなって、とんがった平井さんから丸い平井さんになると思う」というようなことも言われました。こんなふうに自分を客観的にみて言葉で表現してもらったのは初めてだったのでとても驚いたし、そんなふうに人の内面をまっすぐに見つめる目を持った自分になれるようにわたしも成長していきたいとも、純粋に思いました。
最終的に、説明会に参加したり面接を受けたりした企業は50社ほどあったと思います。その中から、リクルートエージェントにご縁をいただいて、意志決定しました。人を見る目を養うこと。若いうちから大きなミッションを任せてもらえてたくさん泣いてたくさん笑って美しい母になれる可能性。加えて、雇用の領域について知見を深めれば、いつか島根に帰って雇用領域の専門性を持って地域を盛り上げることもできるかもしれないと、そんな思いを持ったことが最後の決め手でした。
1人1人の個性の強い動物園のようなチームで
そうして2008年、リクルートエージェントでの仕事が始まります。最初の配属は新卒採用チーム。入社3年目以内のメンバーが中心の、動物園のようなわちゃわちゃしたメンバーと過ごす毎日が始まりました。
その中で自分は思いっきり好きなことをやらせてもらっていました。1年目から1人で内定式の企画や数千人規模を動員する説明会の企画など任せてもらっていて、営業に配属された同期からは、そんな分かりやすく大規模な仕事を任せてもらって羨ましい!などと言われたこともありました。とにかくめちゃくちゃ仕事が面白くて、早朝から終電まで毎日会社にいて、同じタイミングで社会人になり東京に来た彼氏(今の夫)を放置してずっと仕事のことばかり考えていました。
しかし時は2008年、リーマンショックの年です。新卒採用目標は私が入社した時点で100人目標で始まったのに、どんどん目標は縮小して、最終的に採用した2010年入社の新卒新人はたった8人。新卒採用チームのメンバーも少しずつ減ったけど、現場側でも相次ぐ採用ストップで打撃を受けているからメンバーの異動を受け入れきれず、新卒採用担当が15人いるのに採用した新人がたった8人というおかしいことになっていました。
人間関係に苦しみ「脱走兵」になった
このリーマンショックの影響で、会社では、希望退職を募るプロジェクトが水面下で動き出していました。そのプロジェクトのための人員補充で、わたしは採用チームから、給与社保チームに異動することに。給与社保の各種申請や給与計算などの実務をパートナー各社さんと協働して進めながら、希望退職プロジェクトの裏側の実務を担うことになりました。超ご機嫌に働いていた私の人生は、ここから180度転換することになります。
この時わたしの上にいたリーダーが、とても厳しい人と言われていることは知っていました。でも自分は大丈夫、今と同じように、自分らしく思いっきり仕事をすればいい、と、最初はそんなに恐れることもなく軽く考えていました。
最初の1ヶ月くらいはちやほやされて、あなたは本当に賢いのね、いつも元気がいいわね、など褒められ続けました。このリーダーが毎日、わたしの同期も含めた同僚たちの悪口を私に言うのです。「あの子がまたこんなミスしたのよー!どう思う?」などと言われて、本当に本当に嫌でした。こんなふうに仲間のことを悪く言われるのを聞いているのは耐えられなかったのです。でも、もっと嫌だったのは、怒られるのが怖くて反論できない自分自身のこと。「ひどいですね!私だったらそんなミスはしませんねー」などと、自分を守るために、一緒になって悪口を言って迎合している自分自身のことが、本当に心の底から嫌でした。
そのうち私も褒められなくなり、詰められるターゲットになっていきます。何をやっても「なんでそんなことになってるんだっけ?」と言われ続ける。次第に直接話すことも怖くなって、目の前にいるのに、相談はメールで送るようになりました。こういう状況はマネージャーや部長にも相談してみたり、常駐していたカウンセラーさんに相談してみたり、本人にも、私はあなたのことが怖いですなどと打ち明けてみたり、色々と自分1人で抱え込まないように努力はしてみたけど特に変化はありませんでした。
一番強く覚えているのは、ある日リーダーから来た1通のメールのこと。
何かの業務についての相談をしたメールの返信で、「あなたが私のことを怖がれば怖がるほど、私はあなたに冷たくするからね」というような文言を含んだメールでした。なんでこんなこと書くんだろう、心底理解できない・・・と感じました。
会社に行くのが嫌で嫌で、週に1回くらいは休んでいた気がします。会社行く日も、当時同棲していたけど失業して無職だった彼氏(この話も大事なので後ほど)に、「嫌だったらいつでも帰っておいで」と、駅の近くまで送ってもらって行っていました。
自宅から駅への道は車がたくさん通る道路。あの車が突っ込んできたら私どうなるかな、会社行かなくてよくなるかなあ、なんて考えながら歩いていたことも覚えています。
そんなこんなで6ヶ月ほどなんとか耐えたけれど、ある日突然、あ、もうだめだ。ここにいてはいけない。と思う瞬間がありました。その日何か大きな出来事があったわけではないけれど、なぜか突然、逃げよう、と思ったのです。それでそのまま霞ヶ関のオフィスから羽田空港にいって、「お母さん、仕事がしんどいから、今から帰る」とその場で飛行機を予約して、失業中の彼氏にも簡単に連絡して放置して(もう帰ってこなくなっちゃう気がする、行かないでほしい、的なことは言われた気がするけど知ったことではないw)、とにかく実家に帰りました。実家近くの病院で、適応障害という診断書をもらって、1ヶ月ほど休職することに。睡眠が不安定とかではなかったし体は元気なのに、そういう診断書が出たことがなんだか不思議に感じました。それでも、公に休んでいいという状況になったのは正直ほっとしました。上司には、もうそのリーダーと同じ職場で働くことはできないと思っている、異動を検討してもらえなければ退職しようと思う、と伝えました。
どんな小さな仕事も、必ず誰かのためになる
そうして人事から総務部へ異動することになり、復職しました。最初は、給与社保チームには半年くらいしかいなかったことが引け目に感じられて仕方なかったです。もっと学びたかった、もっと成果を残したかった。それでも今の状況は変えられないのだから、今いる場所で成果を出さなきゃ。そういう思いが空回りして、変に空元気で前のめりな発言をしたり、よくわからない会議の陪席でも一生懸命発言しようとしてみたり、ちょっと様子がおかしかったと思います。
そういう自分に、周囲の人はとても愛を持って接してくれました。新しい上司はリクルートのすいもあまいも色々な歴史を見てきた素敵な女性マネージャー。「今は過去を清算するとき。焦らずにやりなさい」と声をかけてくれました。
総務の仕事はとても地味なことが多いように私には思えました。異動してきてしばらくは、私ここに何しにきたんだろう・・とそんなことばかり考えて、目の前の仕事を自分で意味づけすることがうまくできませんでした。これから私どうするんだろう、何か資格でもとったほうがいいのかな、などと考え、業務時間中にぼーーっとyahooで資格取得について色々調べるという給料泥棒ぶり。
ただある日、その時愛用していたほぼ日手帳のその日の一言の中で、名前は忘れたけれど誰か大物アーティストの言葉として
「やりたくない仕事しかこない。でも成果を出すヒントは、そこに一生懸命向き合うことしかない」
というような趣旨のことが書いてあるのを目にします。変に「やりたいこと」探しをしていた自分はその時目が覚めました。目の前のことをとにかく一生懸命やってみよう。地味な仕事をバカにする人に、大きな仕事なんて来るわけない、とそんなふうに書き換わった瞬間でした。
象徴的な仕事は、オフィスの美化を担当していた時のこと。2つ思いだす仕事があります。
まず一つは、ウェットティッシュの話。オフィス内に置いてある電子レンジが汚いのが気になって、これどうしたらみんなもっと綺麗に使えるんだろうと思い、電子レンジのそばにウェットティッシュを置いて汚した人が掃除してもらおうと考えた時のこと。アスクルでどのウェットティッシュがいいかなと探して、一応会社のお金で買うわけなので、上司に「あの本当にこまい相談なんですけど、こういう事情でウェットティッシュを買いたくて。ピジョンとか、ウェッティとか、色々あるんですけど、なんでもいいですよね」と一応相談しました。上司はほんとにこまいな!と笑いながら、「でもね。そういうお掃除は、善意の方がやってくださるわけだから、厚手でちゃんと掃除をしやすいものを選んであげてね」と言ってくれた。そっか、ウェットティッシュ一つ選ぶのにも、仕事をするには相手を思いやることが大事なんだ、どんな小さな仕事にも必ず相手がいるんだなあと、妙に納得しました。
もう一つは、ゴミの分別。燃えるゴミと燃えないごみの分別がめちゃくちゃで、オフィスの清掃担当の方が何時間もかけて分別し直してくださっているという事実を知り、それはいかん!と。そこから、自分でオフィスの数十個ある全てのゴミ箱を毎日見て周り、分別を直して、分別が間違っていたら紙に書いて貼り紙を残して帰る、ということを誰に頼まれるでもなくやり始めました。京大出てなんで誰に頼まれたわけでもないのにゴミ箱漁ってるのかな?とか自分のやってることを自分で面白く感じながら、「ブルガリアヨーグルトブルーベリー味のパッケージは燃えないごみです」などと書いて貼って回っていたわけです。そのうち「ごめんなさいそのブルガリアヨーグルト食べたの私です!」とか、「いつも綺麗にしてくれて本当にありがとう。お弁当のゴミとかここにそのまま捨てる人がいて匂いが気になってたんだ」とか、そんなふうに声をかけてくれる人がたくさん現れて、今度飲みにいきましょう!みたいなことにまで発展したりもしました。ここでもやっぱり、どんな地道な仕事にも相手がいて、愛を込めてやった仕事は必ず誰かに届く、ということを体感することになります。
こうして地道な仕事ばかりやっていたけれど、そのうち、数兆円規模になる総務全般のコスト管理、東日本大震災の時の災害対策本部の事務局、リクルートの分社化・リクルートキャリア社の新設に伴う対応など、だんだん任される仕事が大きくなってきました。小さな仕事に誠実に取り組めない人に、大きなチャンスは来ない。そんなふうに感じたことはやっぱり本当だったなと思います。
こうして総務時代、自分自身は「誰かをサポートする黒子」「縁の下の力持ち」として成果を出していきました。ただこの「サポート人材」としての自分は、本来自分が持っているリーダーシップを押し殺した結果で、本当の自分らしさとは違っていたということも後々気づくことになりますが、それはまた数年後の話。
無職の彼氏が家にいて。
少し話がとんで、ゆくゆく夫になる、彼氏の話を書きます。無職だった彼氏と結婚することになる話。
私自身も怖いリーダーの下でメンタルダウンしていた頃に、同棲している彼氏が失業して、無職になりました。彼は京大理学部卒。上で書いた通り大学時代に私のバイト先の飲食店のお客さんだったことからお付き合いするようになり、たまたま同じタイミングで就職して東京に来ました。
彼が最初に就職したのは古き良き日本のメーカー。風土に馴染めず、1社目を1年も経たずに退職。2社目はワークスアプリケーションズ社で、当時、6ヶ月のインターン期間があってその期間に課されるお題をクリアできなければ正式に雇用されないというプログラムに応募し、雇用されずに退職。3社目も間をあけずに決まったけど、業績悪化に伴い「会社都合でも自己都合でもどっちでもいいようにしてくれていいから退職してくれ」という話で肩を叩かれて、退職。この時まだ社会人3年目とかで3社経験みたいなことになっていて、さすがに4社目はなかなか決まりませんでした。
そしてこの無職期間、彼はずっと家にいて、日中放送している水戸黄門にどハマりして毎日見たり、複数のスーパーマーケットのチラシを比較して少しでも安いお店に買い物に行く・・・みたいな生活をしていました。転職活動もしているけれど、経歴がぐちゃぐちゃだから、書類選考でどんどん落とされて、全く出口の見えないトンネルにいるような気持ちで日々を過ごしていました。
どんどんエネルギーを失っていく彼。そして周囲の友人からは、そんな人早く別れなよと言われる。私はだんだん、世の中に対してめちゃくちゃに腹が立ってきました。違うんだって。会えばわかる。彼は本来こんなところでとどまっているような人じゃない。ちゃんと会って話せば、上っ面じゃなく本質を大事にするコミュニケーションをするところとか、合理的に生産性高く仕事をすることを好むところや、とにかく多趣味で(チェロ、オーケストラ、写真、天体観測、山登り、スキー、・・・)ハマったことをものすごく深く突き詰める性格とか、そういう彼の良いところはわかるはずなのに、なんでこんなに表面的な経歴や情報だけで人を判断し、中身を見ようとしないのか。私は心の底から怒っていました。
そんな彼になんとか本当の彼らしい人生を生きて欲しくて、山登りをしながらとか、バトミントンをしながらとか、これからどうしていきたいのかを何度も何度も、たくさん話しました。そうして、当時たくさん採用していたリクルートの3年限定の契約社員の仕事が意外とフィットするんじゃないか?という話に。彼は口数が少ない方だし、見た目のエネルギー値が高い方ではなく、リクルートにいそうなタイプの人ではないです。でも彼の内面の、物事を本質的に深く思考する素質や、ハマれば突き詰めるクセなどは、意外とリクルートで生きるのではという話になって、リクルートの契約社員の求人をたくさん受け始めました。
最終的に、福島の拠点でじゃらんの営業担当として採用してもらえることが決まり、約9ヶ月間の無職期間がやっと、終わることになりました。当時面接をしてくれた拠点長が仙台にいたので最終面接は仙台まで受けに行っていて、その場で内定を伝えてもらったそうで、彼がお土産に買って帰ってくれた牛タン弁当を家で2人で泣きながら食べたのがいい思い出です。
この地獄の無職期間が終わって、3/12から福島の家に引っ越す予定でした。
時は2011年。福島への引越しの前の日に、東日本大震災が起きたのです。
東北の拠点は新人を受け入れる余裕もなくなり、3月末までは自宅待機、そのあと4月から東京の本社に出社することに。そうこうしているうちに、4月中旬ごろ彼は上司に呼び出され、こんな展開になります。
「木村、異動だ。福岡に行ってくれ。
ところでお前、彼女と一緒に住んでるんだろ?郡山ならまだ近かったけど、福岡だと飛行機代なんかも大変になる。いま先に結婚してしまえば単身赴任扱いにできて、飛行機代とか色々会社持ちになるよ。無職の期間も長かったし、少し落ち着いてからと思ってるかもしれないけど、いま先に籍入れたらどうだ?単身赴任の申請の関係があるから、このタイミングで結婚するなら10日以内に決めてほしい」
・・・みたいなことを上司に言われたと。彼と私の間では、お互いいつか結婚しようという約束はしていたけれど、これまで無職期間も長かったし、しっかりと安定して働いて稼げるようになってから考えようと思っていました。でもそんなふうに言ってくれる人が現れたのは、今このタイミングで決断せよというメッセージかもしれないねと話して、この時入籍することに。そうして、両親に直接会いに行く暇もなく、電話で「結婚するわ!」と報告をして、無職から復活して間もない彼と結婚することになりました。
親にはすでに何度も顔を合わせていたし全く反対されず祝福してもらいました。でも周囲の友人や同僚からは、だいぶ心配されました。そんな不安定な彼と結婚して大丈夫なの?と。でも自分自身ではそんなふうには思わなかったです。あの無職の期間、あんなにも苦しく真っ暗だったトンネルを手を繋いで通り抜けてきたのだから、この先どんなことがあっても、この人となら越えていけるという確信がありました。
福岡と東京の別居婚生活がこの後3年ほど続くことになります。寂しかったけど、会社からの手当のおかげでほぼ毎週末会うことができたし、また平日はそれぞれ自分のやるべき仕事を思いっきりやった尊い期間でもありました。そしてこの期間にやった新卒採用の仕事は、これまでの私の職業人生を振り返ってもとてもメモリアルなものです。
「人の力で、世界は変わる。立ち向かえ、限界を超える挑戦に。本当の自分自身に。」
総務での仕事を3年やったあと、もう一度採用チームに異動になりました。
この時初めて中途採用を担当しました。役員秘書や企画系のアシスタント、地方拠点の営業などを担当していましたが、びっくりするぐらい成果を出せませんでした。採用したい部門の責任者が大概役員や部長クラスで、そのえらい人たちと、候補者の間で板挟みになってしまって。どちらにも変に遠慮したり気を遣ったりして、自分では何の持論も意志も持てないまま、伝書鳩、御用聞きになってしまっていました。
こんなわたしを見かねてなのか、半年ほど中途採用をやったあと、もう一度新卒採用チームで仕事をすることになりました。この時の経験が間違いなく、人生を変えます。
このとき新卒採用チームで最初に担当したのは、選考設計と採用広報でした。当時、リクルートキャリアは「全社員採用」ということを掲げて、総合職の全社員約1200名を面接官として選考に参加させるという、ちょっと頭のおかしい選考をやろうとしていました。リクルートキャリアは人しか財産のない、人を一番大事にしている会社だからこそ、採用は全員でやる。面接官も全員でやる。当時の社長の水谷智之さんの強い思い入れでこのような活動を展開することになります。1200人の面接官を動員し、8000人の学生に会う。こういう世界線でした。
私がこの狂気の沙汰のような本選考の設計担当になった時は、面接開始の3ヶ月ほど前。この時点で何の設計もされておらず、選考期間に必ずお世話になるオペレーションスタッフの業務委託先も決まっていなく、1200人の面接官にどうやって面接のやり方をインストールするのか、そして8000人の学生にどうやって混乱なく選考を受けてもらうのか・・・何も決まっていませんでした。
そこからは、私と、採用チームのリーダーと、アシスタントの3人を中心になんとかこれらを全て形にしないといけないと、必死に働きました。「今日やらないと死ぬことリスト」という名前のタスクリストをつくって、それが終わるまでは帰らないと決めて、夜中まで会社にいて、スーパー銭湯に行って銭湯の休憩スペースで雑魚寝して、また会社に行くようなことも何度もありました。
この時私は、取り返しのつかない失敗をたくさんしました。本選考開始初日にほとんど面接予約が入っていなくて面接官を全部リリースすることになったり、合格している大量の候補者に不合格通知のメールが誤って送られてしまったり・・・ここに詳しく書いたらリクルートという会社の信用を失うような大きなミスが次々と発覚。チームのメンバーと一緒に、早朝から深夜までトラブル対応に奔走しました。
新卒の採用選考はお祭りのようなところがあって、このお祭りが終わった後は、本当に放心状態でした。今までの自分では到底太刀打ちできなかった修羅場に打ちのめされたようでした。
このときどん底にいた私を引っ張り上げてくれたのは、一緒に修羅場を超えた仲間たちでした。ちょうどこの採用選考が終わった後に部のメンバーで打ち上げを兼ねた合宿に行く機会があり、そこで自分の仕事の原体験を振り返るようなワークをやりました。そのときに仲間との対話で出てきたのは、自分の力で仕事を楽しむ機会を切り拓いてきた両親のことや、地獄の無職期間にひたすら自分と向き合い覚悟を決めて入社したリクルートで思いっきり活躍している夫のことなど・・・どんな人にも、自分らしい可能性を切り拓くようなキャリアがあってほしいという願い。そんな人たちに伴走するような愛ある採用マンでいたい。
この合宿に行った後に投稿したFacebookの文章にこんな文章を書き残していました。
こうしてどん底を経て自分の採用担当としてのあり方を見つけた私が次に担当することになったのは「GLIP」という海外インターンシップ。これは、採用チームで企画・運営はするものの採用とは一切関係なく、ベトナムやミャンマーなどのアジアの新興国に学生と一緒に行って、学生は現地の企業さまでインターンとして働き、リクルートの社員がその参加学生たちの成長をメンターとしてサポートするという企画です。もともと経産省主体の事業として運営されていた次世代リーダー育成の「GLAC」という企画をリクルートで引き継いで実施することになったものでした。
日本では超優秀なリーダーとして何らかのコミュニティを率いたり、高い成果を出し続けている学生たちを、数千人の応募から48名選抜。そんな優秀な彼らでも、言葉もろくに通じない、日常の習慣や金銭感覚なども含めて全く違う人たちとの2週間の協働においては、これまでの自分の器では太刀打ちできない状況に遭遇し続けます。普段のリーダーシップはどこへやら、こんなにも異国の地で自分は通用しない。そのことに全員がそれぞれのタイミングで一度絶望し、その絶望の中で何を選択するのかを何度も問い直し、何度も決断して、また新しい自分としてコトに向き合っていく。この2週間のプロセスを経て、学生たちは驚くほどの変容を見せました。
そこで、私の中でも一つの確信が生まれました。
「人は、いつからでも、何度でも、変われるんだ」
ということ。なんてパワフルで、なんて美しいんだろう。そこにとても胸打たれたし、こういう世界に触れ続けて生きていたいと心から思いました。
この年の夏のGLIPから帰国して、次の冬のインターンシップの企画をつくるときに、48名のみならずもっとたくさんの学生にこの成長を届けたいと思いました。
人数が多くなると予算的にも海外には行けないかもしれない。でも人はいつでもどこでも成長するんだから、ベトナムじゃなくてもいいはずだと考えて、国内でGLIPと同じような衝撃と絶望と希望、本気の挑戦を生み出すインターンをつくろうと思いました。
企画骨子を思いつくのがギリギリすぎて、インターンの告知開始をしないといけない入稿の前日の夜になっても、インターンの名称とキャッチコピーが決まっていませんでした。
仲間と真夜中の居酒屋で、あーでもないこーでもないとたくさんのアイディアを出しました。写真はその夜にインターンの名前のアイディア出しをしていた時のメモ帳です。
考えて考えて、何度も何度も言葉を練り直しました。
そして、魂が揺さぶられるほど、人生が変わるインターンになったらという思いで、このインターンを
「SPIRIT」
と名づけました。
このとき同時に、SPIRITのメインコピーとしてこんな言葉を書きました。
「人の力で、世界は変わる。立ち向かえ、限界を超える挑戦に。本当の自分自身に。」
採用活動の中でそれはもう何度も何度も集客用の記事を書いたりコピーを書いたりしてきたけど、私はコピーライティングはあまり得意ではなくて、こんなに強く印象に残っているコピーは後にも先にもこれ1つ。コピーライトの才能はないけど、自分の中に強く存在する価値観を、仲間との極度の集中によって奇跡的に掬い取って表現することができたのだと思います。
GLIPを48人に届け、SPIRITを初年度100人に届け、もっともっと拡大していこうと思い、次はこのエッセンスを2時間に凝縮した「ROOTS」というイベントを仲間とつくりました。ここには学生2500名に加えて、リクルートキャリアの社員1200名を動員。社員も学生も自己理解が深まるような対話型イベントになりました。
これらのGLIP、SPIRIT、ROOTSといったイベントは私がいなくなった後も後任の人たちの手によって4,5年にわたって継続され、仲間と作ったこれらの場に触れた人は合計でおそらく数万人規模の数になっています。
こうして、人の力で世界が変わる、というあのキャッチコピーに表現された世界を、仲間と共に繰り返し現実にして、その輪を広げてきたリクルート人生でした。
何度も爆発して夫を狼狽させる私
GLIPから始まり色々な新しい企画をつくってめちゃくちゃ仕事を楽しんでいた頃、遠距離婚から約4年を経て彼の東京への異動が決まり、やっと一緒に暮らせるようになって、1人目の子どもを授かりました。就活のときに「いっぱい泣いていっぱい笑って美しい母になりたい」と決めていたくらいに、ずっとずっと子どもが欲しかったから、すごく嬉しかった。そしてとても信頼していて大好きな彼と子育てができることはとても楽しみでもありました。でもここからまた夫婦の関係性が少し変わることになります。
産後、なぜだか夫がいつもいつもイライラしているように私には見えました。なんでそんなに怒ってるの?優しかった彼はどこに行っちゃったの?といつも思っていました。
いま冷静に考えると、多分、ずっと怒っていたのは私だったんじゃないかと思います。特に復職してからは、毎日朝5時前に起きて、終わっていない仕事をこなして、家事もやって、いいお母さんにならなきゃって毎日必死だった。助けてほしいと言えばいいのに言えない。別人になってしまったのは彼ではなくて、私の方だったんじゃないかと今は思います。
でもそんなふうに冷静には考えられなくて、情緒不安定で何度も爆発しています。特に大きな爆発は2回。
1回目は、夫婦で行った鰻屋で。
産後、2人だけで話せる時間が減ったから、あえてちゃんと時間をつくろうと、子どもが保育園に行っている間、月1回、平日の仕事の合間にランチに行くことにしていました。ある日の夫婦ランチで鰻屋さんを予約してあって、美味しいもの食べにいこう!と出かけたはずの鰻屋で感情が溢れて、号泣。
2回目はもっと酷くて、帰省中だった夫の実家から、当時2歳0歳の子どもたちを連れて1人で新幹線で逃走。またここで脱走兵になりましたw 自宅からの家出なら夫婦間で完結するけど、義父にも事情を話して巻き込んだもんだから本当にタチが悪いというか本当に申し訳なかったと思う・・・でも止められなかったのです。朝5時くらいから義実家で荷物をまとめ始め、お義父さんに、ごめんなさい喧嘩をしたので先に帰りますと挨拶をして、まだ話もろくに通じない2歳、母乳育児真っ只中の0歳を連れて新幹線で東京まで帰りました。夫は車で追いかけてきてくれたけど相手にせずにその日は東京のホテルで一泊して、翌朝迎えにきてもらって帰宅した・・・という出来事。
日々少しずつ話して発散していればこんな大爆発には至らないはずなのに、とにかく当時の私は、夫がイライラしているように「見えている」から、本音を言ったら怒られるんじゃないかと、いつも勝手に怯えていました。夕方ご飯を炊いてほしいとか、美容院に行きたいから子どもを見ててほしいとか、そんな本当に小さなことも言えなかったのです。
でもそうして何度も爆発してぶつかって、その度に本当はこうしたかった、という話をして、ちゃんと受け取ってもらうということを繰り返してきました。
「本音を言ったら相手を怒らせる」
「自分のやりたいことより家族のことを優先しないといけない」
という思い込みが私の中に確かに存在していたけれど、こういうぶつかり合いを通して、なんだ、本当のことを言っても大丈夫だ、と思えるようになっていきました。
ワーママ生活と、人事の仕事
2016年に長男を出産。その後復職したのは事業部付きで人事制度の運用を担当するチームでした。人事異動、評価制度、手挙げの異動希望制度、雇用形態変更などあらゆる人事制度の運用を担当するチームです。
この時は、人事のことが何もわからなくて自分の意見や仕事ぶりに自信が持てないし、子育てしながら働くということに慣れないのとで、かなり苦しい時期でした。以前中途採用を担当したときも、持論がないので、候補者と事業部の間の板挟みになってしまったことがありましたが、この人事担当のときも、事業部の役員と、人事側のマネージャーとの間の板挟みになってしまい同じように苦しむことになりました。人事として事業責任者と対等に渡り合うには、自分がどう思うかという自分の意志を持てるまで意見を磨かないといけないし、その組織そのものやそこにいる人たちのことを事業責任者やマネージャー以上に考え抜かないといけない。そうしない限り、人事はただの御用聞きになってしまう。人事の仕事のこういう難しさに、また違う形で直面した時期でした。
初めての子育てとの両立も慣れるまではかなりきつかったです。長男はかなり私にべったりだったので、保育園に預ける時、毎朝嫌がって大泣きするような状態が、預け始めて半年くらいはずっと続きました。大泣きで預けて、ぎゃああーーーという泣き声が、園から電車の駅まで歩く道のりの間もずっと追いかけてくる。私は可愛い子供をこんなに泣かせてなんのために働くんだろう?などと考えながら通勤するような日々でした。
そうこうしているうちに、1回目の育休明けから1年ほどで2人目の妊娠がわかり、2回目の産休入り。2人の男の子の母になりました。
2人目の出産後の復職の時、通常ならば元の部署に復職するのが原則ですが、また新卒採用の部署に戻してほしいと人事部長に直談判しました。もう一度、志ある学生の本音のキャリア選択を支援する現場に戻りたい。そんな思いからお願いしたことで、ちょうどポジションもあり、希望を叶えていただきました。
2人の子育てをしながら新卒採用の部門で働くというのはあまり前例がないことだったので結構驚かれました。でも、チームメンバーはかなりそういった状況に対して理解を示してくれたこと、自分も働きながらの子育てにかなり慣れてきていたこと、また新卒採用という慣れ親しんだフィールドでの仕事ということもあって、1人目の復職時よりもスムーズに自分の力を発揮することができました。この時私が企画したインターンシップは、企画名やコンテンツも踏襲されてまだ実施されていたりもします。
これだ!と思えるコーチングとの出会い。
2人の子どもを出産したあと、もうこれ以上子どもは産まないなあとなんとなく思った時に、あとは自分のキャリアどうしよう・・・というモヤモヤが強くなりました。
2人の出産直後のわたしは、子育てが自分の人生で最優先事項。会社でマネージャー、部長、と縦にキャリアアップするには子どもと過ごす時間を削らないといけないから縦には行けない。かといってこれまで人事・採用しかやったことないから他の部署にもいけず横にも行けない。では外に出て何かできるかというと、その自信もないから外にも行けない。すべての方向の道がふさがっていて、自分のエネルギーの行き場がどこにもない感覚。こんなはずじゃない。もっと自分主語で、もっと自分の強みを生かして輝けるフィールドが必ずあるはずなのに・・・そんなふうに感じていました。
この頃、友達と勢いで思いついたビジネスアイディアを元に一般社団法人を立ち上げたこともあります。子育て中の家族をターゲットにしたようなビジネスアイディアで、勢いで盛り上がって、面白そうじゃん!とやってみることにしたはいいけれど、全然うまく事が運びませんでした。今振り返れば、私自身子育て中でガチガチ、八方塞がりな状態で、「私のように苦しんでいる人をなんとかしたい」という思いで立ち上げたものだったからですね。なんとかしてこの状況を突破したいと思って新しいアクションに取り掛かってみたけれど、そのアクションの内容がより「子育て中のママ」というアイデンティティを強化するような形になってしまい、社団法人立ち上げ後すぐに、これそもそも、私何がしたいんだっけ・・・?みたいな感じになってしまいましたw もっと先に考えとけよという感じで、あまりに浅はかでお恥ずかしいのですが、行動してみて頭をぶつけて絶望してそこから飛躍する、ということでしか、私は成長できないみたいです。
そんな迷走中に、コーチングと出会いました。
厳密には、コーチングというものはもっと昔から知っていました。人事の仕事をずっとやっている中でコーチングは近しい領域のものとして常に近くにはあったのですが、私がそれまでに見聞きしたことのあるコーチングと名乗られているものは、クライアントさんに共感・傾聴して内省を促していくというカウンセリングに近いもの。そういったコーチングを見聞きしてきて、それは自分のやりたいことではないと思っていました。共感や傾聴が得意という自己認識はなかったし、それをやったところでその人の人生は好転するのだろうかという疑問とか、率直に言って、コーチングに対してなんとなく怪しいイメージも持っていました。
ただ、こういうモヤモヤや迷走も経てなんとか現状を変えたいともがいていた時、リクルートの先輩が、同じコーチングスクールで学んでいるということ、このスクールのコーチングは他とは全然違うということをSNSで投稿しているのを見ました。そういうコーチングならちょっと受けてみたい・・・そんなふうに思って、先輩に頼んで、同じスクールを卒業したコーチを紹介いただけることになりました。
コーチングを実際に受けてみて、自分自身がこれまでいかに縛られる必要のないことに縛られてきたのかに気付かされ、これはすごい技術かもしれない・・・と感じました。自分自身も、コーチングを学び、プロコーチになりたい。コーチングを提供する側としてお仕事をしたいと思うようになります。そして自身がプロコーチを目指すなら、学びたいのは自分のコーチも出身だったMindset Coaching School一択だと決めていました。
コーチングスクールでの学び。サポート人材からの脱却
忘れもしない2022年1月1日。「申し込みをしたいのですが空きはありますか?」と、コーチングスクールの事務局にLINEで問い合わせをしたところ、お正月なのに「平井さん、こんにちは!説明会の動画を見て検討してください」と、まったくお正月感のないスピードで即返信がありました。
しかし・・・そのあと20日間くらいずっと「どうかな、少しドキドキするし不安だし」と迷っていました。
ネックは2つ。
まず1つには、働きながら参加しやすいよう、スクールの授業は休日や夜にあるのに、私自身、出産後、休日や夜などに自分のために時間を使ったことがなかったこと。そんな私が、自分の学びのために、子どもとの時間を削っていいのだろうか・・??という迷いがありました。
それからもう1つ。スクールの説明会動画で、学校長である李英俊さんの講義を聞いたら、自分が何もかも捨てて新しい世界に飛んで行ってしまうのではないかと、とても怖くなりました。子どもとの関係性、家族との時間、リクルートでの大好きな仕事、そういう現状の自分が大事にしているものは、一体どうなってしまうんだろう・・・大好きなものとさよならしなくてはいけないのかなと。それくらい、コーチングという技術を手にいれる学びはパワフルなものだということが、説明会の動画をみてよくわかりました。人生が丸ごと変わってしまうことが怖くて、なかなか踏ん切りがつきませんでした。
それでも、大事なものとさよならしなきゃいけないかもしれないけれど、その可能性を含めても新しい自分に生まれ変わりたいという気持ちが、自分の中でじわじわ高まっていました。新しい世界への不安や怖さと共に、一筋の光が見えたようにも感じて、2022年1月21日(自分の誕生日の前日だったので日付まで覚えているw)、さすがにもう決めなくては枠が埋まってしまうかもと思い、もう一度「まだ入れますか?」と連絡したところ「あと一枠です」との返信。
あと1枠・・・これは、よくあるセールストークなの?
もしそうだとしても構わない。これは運命だ、行くしかない・・・!
外出先から夫にLINEで「コーチングスクールというものに入ってコーチングを学びたい。夜とか休日とかも講義があるけど協力してほしい。あと一枠らしいからすぐ決めてほしい」と思い切って連絡して、幼稚園の行事など子どもの用事と重なった時には極力優先すること、スクールを卒業してしっかりとプロコーチとして仕事をしてスクールで学ぶ分の投資を必ず回収することを約束して、即申し込みをしました。
そうして9ヶ月間の学びが始まります。このスクール期間中に、私の人生は全く想像もしていなかった方向に大きく変わっていきました。
いくつかここに書いておきたい、ハイライトがあります。
まず最初は、脱走兵からの脱却。
あの入社2年目の、怖かったリーダーから逃げた出来事は私の中でとっくに終わったことになっていました。しかしコーチングスクール入学してすぐの頃の、学校長・李英俊さんとのセッションで、それは終わっていなかったと気付かされます。李さんに、セッション始まってすぐ「お前、なんで14年もリクルートにいるんだ?とっくに外に出てる頃だろ」と言われました。幼少期、学生時代、すべて含めて私の人生をざーっと数分で聞いていただき、今はサポート人材として会社で重宝がられていて「誰かの意志を支える縁の下の力持ちであることが私の強みです」などと言っている私に対して、「その幼少期は、サポート人材じゃないだろ。お前自身が自分でリーダーシップをとってる。何があった?どこかで牙を抜かれた出来事があるはずだ。思い出せ」と李さんに言われて出てきたのが、あの、脱走兵になった自分のことでした。あの時に私は、自分自身のリーダーシップを殺した。そしてサポート人材として生まれ変わって生きてきた。それはそれで、優しい人たち、素敵な仲間に恵まれたけれど、ずっと本来の自分とは違う何かを感じてきた。それはあの出来事が終わってなかったからだったんだと、李さんとのセッションで気付かされることになります。
もうこの出来事を絶対に自分の中でクリアしようと決めました。そこからカウンセリングを受けてボロボロ泣いて全てを吐き出したり、スクールの仲間が集まる交流会の場で泣きながら自己開示をしたり、そしてもうこの出来事との決別の意図をこめて、その先輩にあてて手紙を書いてみました。これは自分の気持ちの整理のために書いたので、その先輩に実際に渡してはいません。その当時どんな気持ちでいたか、どうして欲しかったのかを書いて、そしてこれからはもう私の人生に絶対に関わらないでください、というような結びの手紙。書き終えたらかなり気持ちがスッキリしていたことを覚えています。そんなプロセスがあって、もう大丈夫、やっと飛躍できる。そう思えるようになりました。
2つめのハイライト。ガチガチワーママからの脱却。
いいお母さんでいないといけない。子どもに寂しい思いをさせてはいけない。そんな強い書き込みが私の中にあって、いつだって子どもを最優先にしてきました。すごくすごくきつく自分を縛っていたので、出産後6年間、夜に飲みに行ったり送別会などにも行ったことがなかったし、休日も1人で自分のために外出するといったらお葬式くらいだったと思う。
そんな私が、スクール仲間と話している時に、「サントリーホールで、アリス・紗良・オットという憧れのピアニストの演奏会があるのですごく行きたい、行ってみようかな」と話したところ「いいじゃん、行ってみなよ!」と強くプッシュしてもらったことがありました。
おそるおそる夫に初めて「夜に出かけたい」と話をしたところ、とても前向きな反応で拍子抜けしました。夫は大学時代オーケストラをやっていたからサントリーホールにはとても詳しくて「ピアニストの手元が見たいならこの席に座るといいよ」などアドバイスをしてくれましたし、子供たちもまったく平気でした。
家族を大事にすることは変わらないけれども、家族を大事にするために自分のやりたいことを犠牲にしなくてはいけないというのは嘘。家族と自分の自由の両方を大事にしていいし、できると思えるようになりました。
ちなみに、全く想定外だった&面白かったのが・・・
わたしが自分自身の自由に許可をし始めると、夫の人生も緩やかに変わり始めたのですw
ここ1年くらいの彼を振り返ると、
・社内の手挙げ制度で自ら機会をつくり昇格
・登山道具を一式買い換え
・家族全員分のスキーを買う
・カメラのごついレンズを買う
・一生使える高級な鍋や調理器具を買う
・1人でテント泊で北アルプス/南アルプスを縦走
・1人で京都のお寺に宿泊
・山梨・長野に別荘が欲しくてSANUを契約
・パーソナルトレーニングでマイナス10キロ??近く減
・父親と2人で登山、本音の対話
など・・・・これまでの彼ではあまり考えられなかったことを立て続けにサクサクやっていて、横で見ていてとても気分がいい。
わたしが自分の自由を自分で制限していた頃は、知らない間に彼の自由も勝手に縛っていたかもしれない。自分が自由にやりたいことやっちゃダメだと思ってたけど、逆だったんです。それぞれに自分の好きなことを思いっきりやって、お互いに応援し合って、一緒に過ごす時間も思いっきり楽しむ。そんな夫婦の在り方に変わっていったことも、スクールで学んだことが起点となった出来事でした。
そして3つ目のハイライト。リクルート卒業と、ピアニストとして生きるという決断。
趣味のゴールの一つとして、子どものときやっていたピアノをまたやってみようかな・・・とふと思い立ちました。
実家には長い間使っていない電子ピアノがあります。新しく買うと高いし、実家から持って来れないかな?とふと夫に話したのが全ての始まりでした。夫が「いいじゃん、電子ピアノじゃなくてアップライトでも買ったら」と言い出しました。さすがにアコースティックのピアノを買うことは全然考えもしなかったのでこれはすごく驚いた・・・!
とはいえ、朝でも夜でも時間を気にせず弾きたいしと思って、電子ピアノをまずは買おう!となり、楽器屋さんへ。
25年ぶりくらいにピアノを触ると、自分でも驚いたことに、
ああ、わたしはこんなにピアノを求めていたんだ・・・・!
こんな感情がすごくあふれてきて、あろうことか楽器屋さんで涙が出ました。自分の中にいろんな音楽がたくさん流れていたことを思い出したようでした。心の底から、また弾きたい、と思えました。
そこから友人の伝手でピアノの先生を紹介してもらい、平日の昼間にもこそこそレッスンに通っていました。同僚からは、「なんか最近非公開の予定多いけど、どうしたの?」と聞かれて、「自分のワーク時間ですよ〜」などと話したりもしている中で、なんで自分の人生なのに、自分の好きなように時間を使えないんだろう?という違和感が募るようになりました。スケジュールをフルオープンにして、誰にも隠し立てせず堂々とやりたいことをやって生きていきたい。そんなふうに考え始めると、もう止まりませんでした。14年勤めたリクルートを退職しようと決めたのはこの頃です。
決めたらじっとしていられない性格なので、友人に信頼できる転職エージェントの方を紹介してもらい、上司にも時間をもらって転職先が決まらないうちから退職交渉を始めました。ピアニストを目指すこと、プロコーチとして仕事をすること、そして人事としても仕事をすること、この3つを両立できる環境に身を移したいと上司に話すと、そんなに決めてるなら引き留めても無駄だねと言われました。
そこから転職活動を始め、当初は「人事の仕事もして、プロコーチにもなって、ピアニストも目指します」ということをまっすぐに面接で話していました。しかしそうすると面接官の反応は、まあ当たり前といえば当たり前なのですが、悪いのです。自社の仕事だけにフルコミットするつもりのない人を採用する面接官はそりゃあんまりいません。
次第に私は嘘をつき始めます。プロコーチになること、ピアニストを目指すことを隠し「人事の領域でがんばります!」と。そうするとどんどん面接に通り始めました。
いくつか、ここに決まったらいきたいなと思える企業のカードが出揃った時のこと。それらの志望企業すべてに、最終面接手前でバタバタと全落ちしました。
ここではたと我に帰ります。
自分のやりたいことを隠して、嘘をついてまで何をやってたんだろう?これからは誰にも隠し立てすることなく堂々と思いっきり、やりたいことをやって生きようと決めたのに。こんなキャリア選択の仕方はクソやろうだと思いました。もう一度嘘をついて転職活動をやり直すという選択肢はあり得ないと思いました。
そこで転職はせずに、フリーの人事コンサルとして独立することを決めました。これまでリクルートでやってきたような、就職や転職のシーンにある人と組織の上下関係をぶっ壊して、人が本音で自分の人生を選択できるような採用活動ができる組織を、1社でも多く増やしたい。
こうしてコーチングスクールの在籍期間中に大きな転機をいくつもくぐり抜けて、2022年10月頭のこと、無事にプロコーチのcertificationをいただくことができました。
表現者としての挫折
退職してからは、リクルートの先輩の紹介でいくつか人事コンサルのお仕事をいただきながら、ピアノの練習に明け暮れる日々を過ごしました。
そして人前で演奏する機会も自身でつくり、増やしていきました。
プロのオーボエ奏者の幼なじみに協力してもらって自主企画の演奏会をやってみたり。
同じく表現の仕事を志す仲間と、月1回、自分たちが好きなことで挑戦している姿を発表していく「KEIKOBA」という舞台を立ち上げたりもしました。
ただしそうしてピアノを人前で弾くという機会が増えていった中で、ピアノに久しぶりに触れた時の「また弾きたい!」という純粋無垢な気持ちから、だんだんおかしな方向に変わっていったのです。
「早くピアニストと名乗れるレベルにならないといけない」
「人の心を動かすような演奏をしないといけない」
そんなふうに、いつの間にか、いもしない誰かの期待に応えるためにピアノと向き合うようになってしまっていたように思います。
そのことを薄々自覚しながら、それでも走り続けていたある日の演奏会で、ひどい失敗をしました。初っ端から暗譜が完全に吹っ飛んで、何も弾けなくなり、なんとか弾き始めるも全く立て直せない。
そこから3ヶ月くらいは、全ての目標を見失い、何も手につかずに、ぼーっと生きていました。自分が今爆速で進もうとしているこの道は、きっと何かが間違っている。何かを見直すべきタイミングだというメッセージなんだろう。そんなふうに考えていたこの頃にちょうど、後に人事責任者になる(株)ヘラルボニーと出会いました。
人事パーソンとしての目覚めと、挫折
ヘラルボニーとの出会いは、友人がシャツを着ていたことから。何そのシャツ、すごくかっこいいねと話すと、友人はヘラルボニーのストーリーを教えてくれました。
これまで障害というものとはほとんど接点がなかった私は、こんな世界があることを、恥ずかしながら全く知りませんでした。ヘラルボニーの異彩作家さんたちのアート作品。その良さをそのまま生かした、めちゃくちゃかっこよくてかわいいプロダクトの数々。そして作家さんのストーリーなどもたくさん調べて、作家さんたちは、ただ描きたいから描いているんだろう、ということに思い至った時、深い深いリスペクトを抱きました。それは、「誰かのために表現しないといけない」と急いでいた浅はかな自分とは全く違う、極限までピュアな表現のあり方だと思いました。
こうした異彩作家さんへのリスペクトとともに、これをビジネスとして成立させているヘラルボニーという集団に、強い強い関心を持ちました。障害という、人々がまっすぐ扱うことを躊躇してしまうような領域にまっすぐ向き合っていること。その裏にはきっと色々な反発や否定的な声、そんなものもあるかもしれない。それでも、障害ということへの認知を書き換える挑戦に、圧倒的に純粋な熱量で向き合っているチームであるに違いないと思いました。
なにより衝撃的だったのは、「異彩を、放て」というヘラルボニーのミッション。直感的に、なんてかっこいいんだろう!と心を奪われました。
私が持っている人事としての知恵を、こんなすごいチームの皆さんのために役立たせていただくことができないだろうか・・・そんなふうにまで思うようになって、友人にたまたまその話をしたら、「代表の松田さんとつながってるよ!聞いてみてあげる」と言うのです。
そして松田さん宛にこんなメッセージをしたためて、友人に託しました。
そこからとんとん拍子に話が進み、当時のHRチームの皆さんや、代表の松田兄弟と面談をさせていただく機会を得ました。そして業務委託でHRチームでお仕事させていただくことに。
ただし私は、ここまでに書いてきた通り新卒採用がメインキャリアの人間です。労務系の実務、中途採用、人事制度の運用もやってきたけれど、どれもこれも苦しい時期ばかりで自信が持てずにいました。でもこれからは新卒採用だけやる自分ではなく、人事のことならなんでも自信をもって扱えて、人・組織のことなら事業責任者や経営者とフラットに渡り合える自分に成長したい。事業部と候補者、事業部と人事マネージャー、そういう人の間で板挟みになってしまった過去の自分にはもう戻らない。ちゃんと持論と意志を持てる人事パーソンになろう。そのために学んで武器を手に入れよう。そんなふうに思って、「壺中人事塾」という人事パーソンのための塾に通い始めました。
自分がこれまで人生の中でふわふわと考えてきたことを、とても美しく整然とした図や言葉で表現している先達の理論や調査結果などに圧倒されたり、自分よりもよく学びたくさんのことを知っている同志に大きく刺激を受け自分の未熟さを思い知ったり・・・講義の回を重ねるごとに、私は、人事という仕事の奥深さ、わからなさ、面白さに吸い込まれていきました。そして私はもしかして、何かこの人事という領域に、真っ直ぐに向き合うために生まれてきたのかもしれない・・・という、自分のキャリアを貫く筋のようなものに触れることになりました。
実は、こんなふうに、自分が人事という仕事にどこかで深く向き合うことになるのかもしれないということは、10年近く前から感じていたことでした。とある機会に、あなたは人事の人として生まれてきたのだと手紙に書いてくれた先輩がいたのです。
リクルート在籍時代、ある会社に人事ポジションで転職したいと思ったことがあり、その会社の書類選考が「あなたのことをよく知る人にあなたの推薦文を書いてもらってください」というお題でした。そのときに先輩に書いていただいた手紙です。
とても愛ある言葉で私の人となりを表現してもらっているので、その手紙の全文をここに掲載させていただきます。
平井咲子さんの推薦文
この推薦文を書くにあたって、わたしは2晩ほどぐっすり眠れませんでした(2日前に推薦文を書く依頼を受け・・・)。推薦して、彼女が本当に転職することになってしまったらどうしよう・・という自分勝手な気持ちと、何としても応援したいなという気持ちが揺れ動き、それでようやく覚悟を決めて、この推薦文を書くことにしました。でも、できることなら、もっともっと一緒に仕事がしたいし、私たちにとって本当にかけがえのない大切な仲間なので、もし可能なら数年後にお返しいただけるのなら、とっても嬉しいです(勝手なことを言ってスミマセン・・・)。
平井咲子さんは、ものすごい泣き虫です。嬉しいことがあると、ぼろぼろと大きな涙がこぼれてきます。自分のことでは泣きません。仲間とか、家族とか、学生とか、転職者とか、そういった自分以外のひとたちのことを思って泣きます。「あなたは、そんなもんじゃない。きっともっとできる。もっとあなたらしく生きられるよ!」・・・声に出しているところを聞いたことはありませんが、そんな気持ちで人に向かい合っているのがわかります。まっすぐな目で、満面の笑みで、信じぬくから、彼女に真正面から対峙された人は、何かが自分の中でぽろりとむけるみたいで・・・それまで自信を失っていた人も、何かを見失っていた人も、少し傲慢になっていた人も、その人らしい顔になっていきます。いい顔になるまでに数年かかることもあるみたいですが、でも、ただひたすら信じて、待っています。
そうした人たちが大切に扱われないと、とても怒ります。例えば採用広報の仕事で、仲間たちそれぞれの持ち味をWEB上で紹介するという企画を進めていたときに、WEB制作者が書いてきたコピーを見て、めずらしくめちゃくちゃ怒っていました。「この人の持ち味はこんなもんじゃない!!」そして、夜なべして自力で懸命に修正した文章は、その人たちの持ち味をみごとに表現しきっていました。
自社の新卒採用の仕事では、不合格者であっても、誰もがかけがえのない持ち味を持っているのだから、皆が自信を失うことなく社会に出て行ってほしい・・・というものすごい使命感を持って、不合格者にもきちんと「あなたはこういう良さがある」というフィードバックをしよう!ということにこだわっていました。ともすればきれいごとに終わってしまうこうした取り組みも、心の底からの使命感があるからこそ、約1200名の仲間たちが共鳴して、一緒に取り組むことになったのだと思います。圧倒的な当事者意識と、最後までやり抜く姿勢は、後輩ながら頭が下がる思いです。たくさんの勇気をもらいました。でも、無理しないで体に気をつけてほしいです。
人の事に、まっすぐに向き合うために生まれてきた。人事のプロになって、世の中の「人事」の在り方を、あるべき形に先導していくために生まれてきた。そう思えてならないので、寂しい気持ちをこらえて推薦いたします。私たちの大切な平井咲子さんが、どうか世の中のために、活かされぬくことを、心から願っております。
この時の転職活動は面接で不合格になり、あっけなく終わりました。でもそんなこと以上に、私にとってはこの手紙が、本当に本当に、心の底から素晴らしい宝物になりました。
この手紙をいただいてから約10年の間、私は折に触れてこの手紙を何度も何度も何度も読み返して、何度も勇気をもらってきました。でも最後の段落で書いてくださっていることは、ずっとずっと、しっくりきていなかったのです。ほとんど新卒採用しかやったことがなく実務経験も少ないのに、そんな私が人事のプロなどと名乗っていいはずがない。人事の在り方を先導するなどおこがましい。何度読んでもこの段落だけずっと受け取れずにいました。
でも、人事塾での学びを経て、やっと、私は人事のプロとして胸をはって生きていこうと思えるようになっていました。そんなふうに思えるようになった頃、業務委託でサポートしていたヘラルボニーから、正社員として入社して人事の責任を担ってほしいというオファーをいただきました。最初は正直迷いました。リクルートを辞めてから、複数の会社の人事に携わりながらたくさんの会社の人事を自分の思うあるべき形に変革していきたいという思いを持っていたので、一つの会社に所属するイメージを持っていなかったのです。でも、ここでこういうオファーをいただけたということは、まずはヘラルボニーにぐっとコミットしてやりきってみなさいというお告げかもしれないと思い、他の人事関連の仕事を複業で継続させていただくことに了承をいただいて、2023年11月、(株)ヘラルボニーに入社しました。
こうして満を持して入社して張り切っていろんな施策をやり始めました。評価制度の見直し、中途採用強化、人材マネジメントポリシーの策定・・・ただしだんだんと、思うようにコトが進まない現実に直面し始めます。私自身が人事責任者として周囲のメンバーの信頼を得られていないまま一気に色々なことを変えようとしてしまったり、経験がなくわからないことを自分一人でなんとか対処しようとしてしまったり・・・思いだけが空回りして焦るような日々。入社した後も続けたいと思っていた複業も進められる余力がない。これでよかったんだろうか・・・そんな違和感を抱えていた頃、コーチングの師匠である李英俊さんに会いに行った時、「おまえ、日本の採用なんとかするって思いはどこ行った?」という一言をもらうことになります。
それから数ヶ月、いや入社したばかりだし、たくさんの人に迷惑かけるし・・・と悩みながらも、最終的にはへラルボニーを退職させてもらうことになりました。
採用コンサルタントとしての自立。そして「経営者の相棒」立ち上げへ
このブレにブレてブレまくった自分の人生をちゃんと軌道に乗せて、まっすぐいい仕事をしたい。そのために、コーチングの師匠である李さんのコーチングを受けさせてもらうようお願いして、半年間伴走いただけることになりました。
李さんにコーチングを受けさせていただいた期間に明るみに出た自分のマインドのエラーは、大きくは2つありました。
まず1つは、誰かの期待に応え続けないといけないと思っていた自分。リクルートという看板がなくなって、何の後ろ盾もない自分になった時に、仕事を断ることで生きていけなくなると思い込んでいたと思います。なのでどんなお話でも断らずになんとか頑張ってやってみよう、そこで成果が出るまでは自分を削っていくしかない。そういうマインドの状態にありました。
そしてもうひとつ、採用という領域を誰でもできる仕事だと捉えていた自分。人事の全領域をできるようにならないと「人事のプロ」ではないという思い込み。人事の仕事はとても幅広いですが、採用はその中でも簡単で誰でもできること・・・という、過去の自分や過去に共に戦った仲間たち、今も採用現場で四苦八苦している人たちにとっても、とんでもなく失礼な思い込みの中にいました・・・
過去に掲げた、愛ある採用担当でありたいという思い、人と組織の上下関係をぶっ壊してフラットに握手できるような採用活動をしたいという思い、そういうものを胸を張って体現する生き方を選ぶこと。それに関係しないような、どんなに頑張っても成果を出せるお約束のできない仕事は断ってもいいということ。こういうことに許可を出せたことは、李さんのコーチングを受けさせていただいた結果としての大きな変化だったと思います。
その結果、いま私は、クライアント様の新卒採用を主にサポートしています。再度の独立にあたって、これまで個人で活動していて屋号もなかったのですが、「ShakeHands」という屋号を決めました。リクルートの採用チームの仲間内の言葉で、内定承諾(意思決定)のことをshake handsと言っていたので、そこから拝借しました。人と組織の本音の握手を1つでも多く増やしていこうと思っています。まだお手伝いできているのはまだ3社。でもリクルートを辞めてからやっとまともに、自分の強みを生かして人の役に立てる仕事ができているように感じます。それでもまだたったの3社。もっとたくさんの会社に関わっていけるように、ゴールは決して下げずに未来を見据えながら、でも足元は目の前のクライアントさまに対してしっかりと成果を出せるよう向き合いたいと日々力を尽くしています。
加えて、「こういうことがやりたかった!」と本音で思える、象徴的な取り組みを旗揚げすることもできました。「経営者の相棒」というプロジェクトで、これは高校生や大学生が経営者に帯同する、昔からある「かばんもち」のような企画です。学生は5日間経営者に帯同し、経営会議、社内のミーティング、お客様との会食など、普段は見ることのない経営者の素顔を見ることになります。ただし見ているだけだと受け身になってしまうので、並行して、経営者が普段心の底から困っているテーマを学生に渡して、その課題に対して若者のインサイトを踏まえたアウトプットを出してもらうということも5日間の中で同時に進めています。リクルートという看板はなくても、学生の成長を応援できる企画を進行できていることがとても嬉しい!これも自分自身コーチングを受けなかったら生まれなかった取り組みであることは間違いないと思います。
プロコーチとして出会った、運命のクライアント
プロコーチとしてもスクール卒業後お仕事をしてきて、経営者、会社員、獣医師など、さまざまなキャリアの方のコーチングをさせていただいてきました。中でも印象的なクライアントは、経営者で5人のお子さんのママ(5人て!)、宮下正子(みやした まさこ)さん。
まさこは長野県飯島町に住み、(株)紡縁社という会社をご主人とともに経営しています。私と同い年、39歳。ご主人はこの会社の社長であり、東京の有名な料亭をはじめ様々なお店で修行を積んできた料理人。まさこは役員という立ち位置で、同町にある千人塚公園キャンプ場の指定管理を請け負う事業を中心に営んでいます。
私の複業の関係で以前少しだけお付き合いをしていたご縁があって、私がコーチングスクール在籍中だった期間に、スクールでの学びの一環としてのモニターセッションに協力してくれました。スクールを卒業してプロコーチになった時に一番最初に連絡をして、平井の最初のコーチングクライアントになってくれたのがまさこでした。
コーチング契約は通常、約6ヶ月ほどの期間をかけて、人生のあらゆるテーマについてのゴール設定と達成に向けた伴走をしていきます。この自分史の締めくくりとして、まさことの6ヶ月を振り返ってみました(かなりかいつまんでいるので、ここに書いていないテーマも色々とあります)。
コーチングが始まった時点では、まさこは「私は夫のサポート役」「これまでの人生、自分の判断で決めたことなんかない」という状態でした。初回セッションで印象的だったのは「キャンプ場の指定管理を受ける前は、主人が立ち上げて経営する飲食店を手伝っていた」「キャンプ場の経営が始まってからも、主人と一緒にまちを盛り上げるイベントをしたりして」など、「主人が」「主人と一緒に」といった、ご主人を主語にした話があまりにも多かったこと。そこに強い違和感をおぼえ、コーチングはまさこのための時間なんだから、まさこを主語にした話をしよう、という趣旨のことを話しました。
いきなり現状から飛躍したゴール設定なんてしなくてもいい。とにかく自分主語で好きなことをたくさん挙げてみてと話すと、ネイル、美容室、長い間会えてなかった大切な人たちに会いにいくことなど、堰を切ったようにたくさんの好きなこと、やりたかったことが出てきます。そんなにたくさんあるんだから、まずは、自分主語で好きなことをたくさんやってきてと伝えたのが初回セッションでした。自分が好きなことを好きなようにやっても人に迷惑はかからないし、逆にそれで人が喜ぶことすらあることを、まずは体感して欲しかったのです。
ネイルもきれいにして髪型も変えて、自分の好きなことに時間を使う感覚を取り戻したまさこ。今度は仕事におけるゴール設定に向き合うために、仕事において自分は何者なのか?という問いを考えていきました。彼女の仕事の履歴をたくさん遡って聴いていくと、千人塚公園の指定管理者になるということも、彼女自身の意志でとってきた話だったといいます。「自分の判断で決めたことなんかない」なんて、そんなの真っ赤なウソ、マインドのエラー。自分の意志で行動してきたファクトをたくさん取り戻す中で、自分がいいと思ったまちの魅力を全力で伝えてきた生き様が見えてきました。
その生き様に、まさこは自分自身で「ローカルブースター」と名前をつけました。その時コーチとして思ったことは、もう、ご主人が主人公だった人生に、何があっても戻ってほしくないということ。そこでSNS不精なまさこに、セッション中に文章を書いてもらい、ローカルブースターというアイデンティティに気づいたこと、何かあったら地域のことは私にどんどん相談してほしいということをFacebookで発信するところまで見届けました。
その発信を契機として、様々な機会がまさこに舞い込むことになります。町で活動しているママグループの会、町のイベントの相談、そして極め付けは町の観光協会の理事のお誘い・・・まさこは観光協会の理事になりたい!なんて一言も言ってません。どれもこれも、まさこ自身が想定していたわけではないのに舞い込んできたことでした。
こうして活躍の場を広げたまさこは、「ローカルブースター」というアイデンティティすら、今の自分からすると違和感を感じると言い始めました。では何者なのか?もう一度考え直した時、やっぱり私は、経営者だと。覚悟が決まりました。経営者として、日本各地にその場の魅力を全力で叫ぶオーベルジュを、料理人である夫と共につくる。そんなゴールをつくったのがセッションの最終回でした。
コーチング契約が終了して約10ヶ月ほど経った今、まさこは、夫と共に会社経営をしながら、自分の法人を立ち上げる準備の真っ最中。自分自身で好きな仲間に出会って、女性が活躍している地域特産品づくりの団体のリブランディングなど、好きなテーマの案件にすでに取り組み始めています。
何のために仕事をするのか?
最後に。
この文章を書いていて、もうそろそろまとめに入ろうといういま、私はプロコーチとして、また人事として、これから何のために仕事をしていきたいんだろう?とあらためて言葉にするとしたらどんなことになるだろう?と考えたとき、過去に自分が書いたメモのことを思い出しました。
2024年7月、Mindset Coaching Academy主催、プロコーチのバトルイベント「The Human Element」でコーチング事例についてプレゼンテーションをする機会をいただきました。登壇前の1,2ヶ月はずっとずっとこのイベントのことが頭から離れなくて毎日ざわざわしていました。本当に生きた心地がしなかった。
私はコーチとして何を伝えたいんだろう?何のためにコーチとして仕事をしているんだろう?
わからなくて、プレゼン資料も何度も直して、考え続けて、本番3日前くらいにノートに書き殴ったメモです。
あなたにも、あなたにも、勇気をもって心の底からすきなことで生きていく道がありますように。
これが今の私の、本音の願いなんだろうと思います。そのために力を尽くして生きていきたいと、心の底から本音で思えます。
これまでの道のりは、
この人はこんなもんじゃない!と怒りたくなるほどに、本来の素晴らしさや本音の欲求が開花していない人。
志高く、一旗あげてやるという野望、希望にあふれる若者たち。
さまざまな制約条件を取っ払って、自分を主人公にして輝きたい女性リーダー。
こういう人たちのために力を尽くしてきました。
すべての人は才能にあふれている。
人が本音で生きる姿は、こんなにも美しい。
そんなことを信じながら、これからも私は、ヒトというこの世で最も素晴らしく最も難解な存在に対峙して生きていくことを決めています。
ここまで40000字ほど・・・長くなりましたが、お付き合いくださり、ありがとうございました!!ここまで読んでくださったあなたとはすでに、朝日をみるまで飲み明かしたような気分です、ありがとうございます!