見出し画像

小さくて、純粋で、濃密なわたしの人生

身体が重かった。頭痛がした。気晴らしにyoutubeを見ていたはずが、どんどん暗い内容のものになっていく。最終的に「自己愛性パーソナリティ障害」の動画にたどり着いて、「わたしはそうなのではないか」などと考え始めていた。身体がだるい。呼吸が浅くなる。このまま布団に沈み込んで1日を過ごしたい。

ダメだ。

ぜんぶ自分の頭の中で起こってることじゃないか。外に出よう。買い物メモをポケットに突っ込んで、重たい身体を無理矢理押して外に出た。

あたたかい。
太陽の光が明るかった。

スーパーに行く道の途中にある公園に入る。いつもは外側から見ているだけだったから狭くて薄暗いと思っていたけど、中に入ると案外広くて明るかった。一番日当たりのいいベンチに座る。ふと目を上げると誰もいないブランコ。絵葉書みたいだ。完璧に絵になる。

何もせず、しばらくそこに座っていた。ときどき空を見上げたり、鳥のさえずりを聞いたりした。硬くなった首筋や背中が解けていく。氷が溶けるみたいにゆっくりと。

視界の左側から、小さい男の子が走ってきた。まだ3歳ぐらいだろうか。
「わぁーー!だれもいないー!あそびほうだいだーー!」
後ろを5歳ぐらいのお姉ちゃんが追いかけてくる。その後ろをお父さんが。

三人は貸切状態の公園でブランコをこぎ、ジャングルジムを登ったり滑り台を滑ったりしていた。階段を登る、滑り台を滑る、走る。また登る、滑る、走る……。小さな身体の中のエネルギーが爆発しているのが見えた気がした。

見るともなくその様子を見ていた。
怪しい人だろうな、わたし。
子どものころ近所の公園に、平日の昼間からいた変なおっちゃんみたいかな。

10分ほどして、三人は帰っていった。
「あそびほうだいだったねーー」
男の子の声が響く。
たった10分で”遊び放題”か。子どもの世界は小さくて、純粋で、濃密だ。

頭を締め付けていたものが緩み、背中が完全に柔らかくなったと感じる。目の奥と脳みその間にあった澱んだ雲みたいなものがなくなって、ここにあるあたたかさと明るさをそのまま感じられるようになっている。


今なら、と思って自分に問う。
「もしありあまるお金があって、好きなだけ時間がかけられるとしたら何をしたい?」


大きな庭のある家で、ハーブと少しの野菜を育てている。
広い庭は柔らかい芝生で覆われていて、季節ごとにさまざまな小さな花が咲く。朝、誰よりも早く起きて、朝露に濡れた美しい庭をゆっくりと歩く。バジルと夏野菜をいくらか摘む。

食パンをうんと分厚く切って、自家製トマトソースを塗る。バジルとピーマンとベーコンを乗せて、チーズをたっぷりかけて焼く。トースターのジジジ……という音とチーズの焼けるいい香りがする。

起きたての夫と息子二人がテーブルにならぶ。
髪質がそっくりでみんなスーパーサイヤ人みたいな寝癖だ。寝ぼけまなこで焼きたてのピザトーストをむしゃむしゃ食べる。口の周りがトマトソースで汚れ、シャツがパンくずまみれになるのも気にせず。わたしはそれを目を細めて見ている。昨日も今日も明日も繰り返されるはずだけど、まるでその光景を初めて見たみたいな感動で見つめている。

銀色のお盆に汚れた食器を重ねる。その重さに、なんとも言えない充足感を感じる。夫と子どもたちが大慌てで出ていく。ドカドカと床が抜けそうな足音が響く。負けないぐらい大きな声の「行ってきます」が聞こえる。

昼過ぎ、友人が訪ねてくる。
今日はよく晴れてるから、と、庭のテーブルに白いテーブルクロスを引き、二人で収穫した木苺のヘタを取る。木製のベンチはギシギシ音がする。ガラスのポットの中でレモングラスの葉が踊っている。カップに注ぐと、初夏の香りがする。わたしたちはいろんな話をし、大笑いし、お茶を飲んだ。
ガラスの容器に赤くつやつやした木苺のジャムを流し込み、一瓶お裾分け。「またね〜」と手を振って別れる。


夕方、子どもたちが泥んこになって帰ってくる。
ランドセルを庭に放り投げて、またさらに泥んこになりに行く。洗濯物を取り入れて、遠くに子どもたちの遊ぶ声を聞きながら、大きな窓のある部屋で洗濯物を畳む。気づいたら西日の中でウトウトとしていた。バリッと乾いた綿の肌触り。


夫が帰ってくる。
ハンバーグの焼ける音と香りが家じゅうに充満している。庭で採れたパプリカとトマトにオリーブオイルをかけてグリルする。ものすごい勢いで掻き込んで、夫と子どもたちはそのまま戦いごっこに流れ込む。ぎゃあぎゃあとドタドタをBGMに、わたしは二階の書斎で今日の何を書き留めておこうかと逡巡する。どの瞬間もジャムみたいに瓶詰めしておければいいのに。


リビングに降りると、夫は子どもたちとお風呂に入っているようだ。
幼稚園で習った歌の変な替え歌と笑い声がひっきりなしに聞こえる。そろそろかな、というころに、バスタオルを広げて子どもたちを受け止める。まだ小さな頭と柔らかい肌。タオルの中でバタバタと暴れる力は日に日に強くなっている。鼻の奥がツンとする。ごろんと膝枕をして、小さな歯の仕上げ磨きをする。お風呂の中でどんな遊びをしたかをずっとしゃべるので、歯磨きが全然進まない。


「星が綺麗だよ」と夫が目を輝かせて言うので、家の明かりを全部消してみんなで庭に出る。
「風邪ひくよー」と言ったが子どもたちは薄いパジャマのまま飛び出していく。小さなくしゃみと鼻をすする音が聞こえる。
「見て。あれがカシオペアで、あれが夏の大三角」と夫が熱心に解説してくれる。結婚前にもこうやって星を見に行ったことがあったな、と思い出す。あれは夏だけど、とてもひんやりした夜だった。あれから15年ぐらい経っているのに、夜空を見上げる横顔は何も変わらない。魔法瓶に入れたシナモン入りのホットミルクを二人で飲む。子どもたちはすぐに星には飽きて、庭を走り回っている。せっかくお風呂に入ったのに、また汗をかき土を持って帰ってきた。「しかたないね」と笑いながらベッドに入る。


寝かしつけを夫に任せて書斎に入る。
お風呂上がりに子どもの成長を感じてちょっぴり寂しくなったことも、星空を見上げる夫に恋人だったころの影を重ねてこそばゆくなったことも、忘れずに書いておこう。手元を照らすランプの光があたたかい。


寝室に入ると、電気をつけたまま三人が寝ていた。
長男の体は全部布団から出てるし、次男は夫の胸を枕にして寝ている。夫は眼鏡をかけたまま、読みすぎてビリビリになった「かいけつゾロリ」を頭の上に開いたままだ。「そりゃあ寝にくいでしょ」と笑いがこぼれる。起こさないように絵本を取り上げようとして、ふと、もったいなくなって手を離す。少し下がって、じっと見つめる。シャッターを切るみたいに、ゆっくりと瞬きをした。

小さくて、純粋で、濃密なわたしの人生。


いいなと思ったら応援しよう!