ものに依存しない人たち
いつも感じることだが、ラダックの人たちにお土産を渡しても期待するような反応はしてくれない。
喜ぶでも、驚くでもなく、あっさりと受け取り、一言ありがとうと言うだけだ。
こういう場面でいつもラダックの人たちのものへの執着のなさを感じる。
ラダック人の友人がいたずらに、私に車を運転させようとする。運転したことがない私は、「私が運転したら車を壊してしまうよ。」と言いながら断る。
それに対する彼の答えがなんともラダック人らしい。「全てのものはいつか壊れるよ。それに、いくらものを所有しても、人間が死んだら、あの世になんにも持っていけない。だからそんな心配はいらないよ。」って。
そういえば、ラダックの人々の家には驚くほどものがない。必要最低限のもので彼らは「豊かに」暮らしている。
ものはいつか壊れてしまうのに限りない物欲に支配され、振り回されて生きていくことの虚しさ。死んだら持っていけないものを得るために身心を削って働く矛盾。
日本での生活でそう感じることが多かったが、ラダックの人と関わると、彼らが周囲の環境に大きく振り回されない内面の安定感を持っていると感じる。自分が所有しているものが、自分の豊かさや幸せと必ずしも繋がっていない。それを知っていることが彼らの強さであり、時に羨ましくも思うのだ。
ラダックの変化はしばしば悲しい現象として捉えられる。私も、観光開発や資本経済の流入によってラダックが大きく変化していく様子は見ていて苦しく思うことがある。
しかし、一方でラダックの著しい価値観の変化の中で、ラダックの人たちが本当に大切なことを悟っているかのような発言や、振舞いに出会うと、私は心から「ラダック」を感じる。
激動の変化の中でも、安定した心を持ち続けることができるラダックの人たちの強さを私はとても嬉しく感じるのだ。
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