いつまでも続くゴミの道
荘厳なラダックの山々にはあまりにも似合わないゴミの道がバイクで10分くらい走っても終わらない。
早く終わってと心の中でいくら、望んでも祈っても果てしなく続く景色に絶望する。
なぜこうなってしまったのだろうか。
ラダック人の友人は、これまでにラダックに貧困や飢餓が存在したことがないと話す。
それは、ラダックの人びとはいつも分け合って生きてきたから。分け合うこと、助け合うことなど、相手に良い行いをすることが自分の未来や来世の自分の幸せに繋がると信じているからだ。
厳しい自然環境の中でも、人びとが満足できる「充足」した生活をすることができたのは、限られたものをお互いに分け合うことができてきたからだろう。
滞在中に私は何度も、ラダックの人々の「所有」の感覚が私とは大きく違うことを感じていた。「私のもの」というこだわりがあまり見られず、お互いの繋がりを常に意識している。
例えば、家の前の小川は、隣の家の人の小川と繋がっている。だから、洗濯の時は下流で水を使っている人がいないか確認するし、野菜を洗うときは上流で洗濯をしている人がいないか確認する。
分け合うこと。そして、お互いの繋がりを意識して暮らすこと。それが彼らの幸せの哲学の一つなのではないかと私は思う。
しかし、私の目の前に広がるラダックのゴミの道はその変化を物語っているようにも見えた。
繋がりが見えなくなると、たちまち人の行動は無責任になってしまうのだろうか。
自分が食べたもの、使ったものがゴミとなってラダックの山に溜まっていく。
インドやチベットから移民してきた人々がゴミ山の中に家を作り、ある者はペットボトルを拾い集め、ある者はゴミを焼却している。プラスチックも生ゴミもごちゃ混ぜのゴミを燃やせば有害な煙がラダックの薄い空気を汚していく。
そこにはラダックの人々が相互の繋がりを見失い、限られたものを分け合うことを忘れはじめている姿が映し出されているようにも思えた。
同時に、この絶望的なゴミを生み出したのは、ラダック人だけではないのは自明のことだ。
ラダックを訪れる年間の観光客の数はラダックの全人口に匹敵する。
ラダック人と四六時中一緒に過ごしていると、彼らの素朴な生活は、レジャーを目的に訪れる観光客とは大きく異なる。
たった数日の滞在のために観光客が生み出すゴミの量や、消費するエネルギー、水の量は、多くの場合、ラダックの自然環境のキャパシティーを超えているのだろう。
時には、観光客が自国からラダックに持ち込んだものがゴミとなってラダックに永遠に残ることもあるだろう。
しかし、そんなこと気にもとめず、無自覚のままに過ごす人がどれほどに多いことか。
ラダックのゴミ山はラダックの様々な現実を表している。ラダックのことが好きな人にこそ訪れてもらいたいラダックの裏側。
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