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最後まで慣れなかった時間感覚

海外にいて、自分が日本人だなと感じるのは時間感覚についていけない時だ。

その土地の時間感覚に慣れずに、待ち合わせの相手が時間通りに来なくて焦ったり、現地の人と一緒に過ごす中で無意味に流れる時間を勿体無く思ったりする自分の姿に「日本人」であることを自覚する。

日本では、分(ふん)時には秒刻みの時間感覚で生きている。公共交通機関は1分の狂いも許されないし、20:00締め切りのレポートは、1秒でも過ぎたら受け入れてもらえない。集合場所へは集合時間の5分前には着いていることを心がける。

こうして身に染み込んだ時間感覚は、海外に行っても無くならず、私を時折焦らせる。

ラダック人の友人と一緒に過ごすと、相手の時間感覚に合わせるために辛抱が必要だ。

仮に朝7時に起きたとしても、家を出るのは11時。起きてから4時間も何をしていたんだろうかと振り返ると、朝起きて、朝の白湯を飲みながら家族とおしゃべり、手と顔を洗う、朝食を買いに外に出かける、朝食を食べながら家族とおしゃべり、時折かかってくる電話に出て電話の相手とおしゃべり、身支度をして、気づけばもう午前中が終わってしまうじゃないか!という時間になっている。

時間を無駄にした感覚は私が嫌いなことの一つだ。ストレスの原因になる。やらなきゃいけないことがたくさんあるのに、なぜ身支度をぱっぱと済ませて仕事に行かないのか。そうやって不機嫌になる私をみて、友人は陽気に「で、今日はなんの仕事をやるんだっけ?」と私をますます不機嫌にする。

仕事場に行く車の中で、もう時間ないから集中して仕事をやらなきゃと念を押すがその数分後には、道中であった友達とおしゃべりが始まり、なかなか前に進めない。

私にはこうした時間が無駄に思えたり、勿体なく思ったりする。しかし、彼らにとっては必要な大事な時間なのだろう。家族と話す時間、友だちと話す時間、それを先約のスケジュールよりも大切にできることは、「今」を「その場」を大切にできること。先の事を見越して今を粗末にすることを彼らはしない。

こうして私は自分が日本での生活の中でいかに時間を気にして生活しているのかを知る。そして、時間を優先で考える背後にある色んな犠牲にうっすら気づき始めるのだ。

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