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お金と私の関係

お金は何かと交換するための手段である。

水が欲しければ、お金と水を交換する。
この水に対して、これだけのお金を払うことが妥当であると納得するからお金を払う。水とお金の価値は対等でなくてはならない。

お金はものだけでなく、サービスと交換することもある。
お金を交換の手段として使うとき、受けるサービスは支払ったお金と同等の価値を持つことが前提となる。

「旅行」はお金とサービスの交換の繰り返しである。

ホテルでも、スパでも、レストランでも、トレッキングでも、ドライバーにも、ガイドにも。
支払ったお金と同等の価値のサービスを要求する。

でも現実的に国や宗教、文化を超えて目に見えないサービスと、目に見えるお金の交換は実はかなり難しい。

祖母と一緒にバリ島のリゾートホテルに泊まっていると、いろんな文句が始まる。

部屋がカビ臭い
シャワーからお湯が出てこない
イスラム教のお祈りを呼びかける早朝のアザーンがうるさい

環境・文化・宗教的な背景を無視して「日本人」の価値観でサービスの価値を測る。時間感覚が違う社会の中で、ドライバーが5分前に到着していないことに不機嫌になったってどうしようもない。

私は、ロンボク島の村ツーリズムでもお金を払った。

でも、村で私を迎え様々な体験をさせてくれた彼らは私の大事な友だちでありガイドではない。
私は「客」として村を訪れたが、「友だち」「家族」として村を去った。

最後にお金を払うとき、私は自分が滞在中にしてもらったことに対するお金ではなく、大事な友だちのこれからの活動への応援の気持ちからお金を渡した。

国を超えて、宗教を超えて、文化を超えてできた大切な友だちの価値と同等の価値をお金で表すことはできない。村でもらった無数の愛情を数字で表すことなんて私にはできない。

今の私の生活にお金は不可欠なものとなっている。
でも、「交換」の手段ではないお金の使い方ができたらもっと心地よい生活になるのではないかと思った。

買ったお野菜ではなく、作ってくれた農家さんの毎日を、レストランで食べたお食事ではなく真心込めて作ってくれた人の家族を、買った洋服ではなく世界のどこかで作っている人の生活を、誰かを応援するつもりでお金を使う。

そうしたら消費社会の中でも幸せなお金の使い方ができるのかもしれない。
そう考えた時、やはり誰が作ったのかわからないファーストフードでの食事やファストファッションはできないと思った。

私にとってお金は交換の手段ではなく、人を応援する手段にしたい。

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