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文通ラジオ第6回目_孤独と向き合う【あづ妙】
文通ラジオ第6回目。今日は、あづ妙がお届けします。
2月に更新をする予定が、心と時間に余裕がない日々を送っていたら、あっという間に3月がやってきました。もう3月も残りわずかとなり、春がもうすぐそこまで来ているような気温と風の香りを感じる日が多くなりました。
みなさんはいかがお過ごしでしょうか。
第5回目のさきさんの文通ラジオを読みました。
わたしのように、自分の事も他人の事もなかなか信じられないという人には共感いただけるかもしれませんが、誰の事も信じられないというのは、とても孤独です。
1人でも孤独。誰かと一緒に居ても孤独。笑っていても、泣いていても孤独。いつも不安で、足元はぬかるんでいて、一歩前に進むのに何分も何時間も時間がかかってしまう。
さきさんが紡いでくれた「孤独」にすごく共感する部分があり、私も一度、自分の孤独について言葉にしてみたいと思い、今こうしてパソコンの前に座っています。
・・・
という、文章を書き始めたのは3月20日のことでした。
あれから4日が経ち、今は3月24日。『今こうしてパソコンの前に座っています』と書いてから、その先を上手く言葉にできず、何も書けないまま時間だけが経ってしまいました。
そんな私3月22日から23日にかけて、大好きなサンボマスターのライブで鹿児島へ行っており、23日に霧島アートの森を目指して約1時間ほど、乗り換えをしながらバスに乗っている最中に、文通ラジオに書く言葉を、まるで誰かに語り掛けるように頭の中で呟いていたのですが、誰かに話しかけるのは、いいですね。
こうやってキーボードを触っていると、どうしても手が止まってしまう瞬間はありますが、話しているときは何故か饒舌に語ることができます。だから、バスに乗っているとき、「今こうして窓を眺めながら頭の中で語り掛けている言葉をそのまま文字に起こせたらいいのに…」って思いました。
音声変換機能じゃなくて、脳内変換機能みたいなのがいつかあったら、もっともっと伝えたい気持ちを届けられるのかも…なんてことを考えていたら、アッという間に森へ到着し、アートを堪能して、またバスに乗って鹿児島空港へ向かい、飛行機で関西まで戻ってきたら、3月24日を迎えていたわけです。
バスのなかで、自分なりにいろんなことを考えて、言葉を紡いだ時間は一体何だったのか。今パソコンの前に座って手を動かしていても、昨日のあの時間に感じたことは、もう形にできそうもありません。
それだけ日々は動いていて、同じように自分の心も動いている。昨日の私が感じていた孤独への想いと、今の私が感じている孤独への想いは全く別物で、「なんだか孤独って生ものみたいだな」と思いました。
冒頭にも書いたように、2月の後半から自分の感情と向き合うことができず、泣いたり、怒ったり、疲れたり、妬んだりと、ネガティブな感情にただ浸食されるような日々を送っていたのですが、ある時を境にそんな気持ちがパチンと弾けて消えてしまい、気づいたら” 元の生活”に戻ることができていました。
ただ、この気持ちをなかったことにすると、また同じことの繰り返しになってしまうと思い、お世話になっているコーチに1ヶ月間書くコーチングをお願いして、今は自分の気持ちをとにかく外に出す時間を作っている最中です。
やっぱり毎日自分に向き合って書くのって本当に大変で、ただ書くだけじゃなく「考えること・見つめなおすこと」が入ってくると、少し苦しいなと思う瞬間もあるのですが、約10日間ぐらいお願いをしているなかで、私が当初抱えていた「孤独」という感情は、人に必要とされない怖さや不安から来ているものであることが分かりました。
私は昔から「誰かから必要とされること」にとんでもないこだわりを持っていて、特に厄介なのが「” 私”として必要とされなければ意味がない」という自分で在ることへの執着がとても強く、人間関係も、何もかも、全部自分で勝手にハードにしてしまう傾向がありました。
昔と比べてこのこだわりは、随分穏やかになったとはいえ、状況やホルモンバランスの関係などが原因で、ふとしたときにニョキッと芽が出てくることがあります。そうなったら、必死に足で芽を踏んづけて、なんとか隠すようなことが多く、とくに2月はそんな日々を過ごしていたように思います。
だから、ちゃんと根っこから原因の芽を抜いてあげなきゃいけない。
そう思いながら今は、毎日自分であることへのこだわりと向き合っているのですが、鹿児島でバスに乗っているとき、前日のライブの余韻でとても心が温かく、思考が全部良い方向に向かっているような感覚がありました。
ライブを観たサンボマスターの三人は、目の前にいる人、ひとりひとりに向けて音楽を届けてくれていると私は思っていて、彼らが歌う「君」という言葉に何度も何度も救われてきました。
鹿児島のライブは整理番号が良く、最前列で見ることができたのですが、目の前にいる唄とギターの山口さんのことを目で追いかけて、いや、追いかけなくても全てが視界に入ってくるような空間を大切にしているなかで、ふとしたときに、突然周りが見えるような感覚になったんです。
感覚が広がるというか、察知できるというか…。
言葉で表現するのがすごく難しいのですが、みんなの顔が見えるというよりは、「私の後ろにも、隣にも、人がいる」って感じです。
それまでは目の前で繰り広げられている、サンボマスターのライブを自分の視点だけで楽しんでいる感覚があったのですが、突然、私の後ろにも、隣にも人がいて、それぞれがこの空間を楽しんだり、大切にしたりしているんだと思うと、なぜか泣きそうになって、素直に「人がいるっていいな」って思いました。
ここに来てる人がみんな孤独を抱えているかどうかは分からないけど、とある曲が流れたとき、みんなの歌声で山口さんの声がかき消される瞬間があって、そのときに、心がじんわりと温かくなって、「うわ~みんな生きてる!」みたいな(笑)
とにかく嬉しかったんです。自分の周りに人がいて、みんなが生きてて、楽しそうで。
もちろん、普段の私の周りには、自分を大切にしてくれる人や、仕事でお世話になってる人がいて、私もそういう人たちとの関係性を公平に、そして大切にしている自負はあります。
それでも孤独を感じてしまうのは、私が私であることに固執し続けたり、時折、世界に自分だけがぽつんと取り残されているような気になったりと、自分から多方面に向いてるはずの「繋がり」という線が誰にも届いていないような気がすることもあったんです。
でも、ライブが終わってホクホクとした気持ちを抱えながら、「それぞれが一人で生きていて、社会にはひとりひとりの人生が集まった塊があるだけ。だから、孤独は当然なんだ」という気持ちも感じ、少し心が軽くなりました。
だから、鹿児島に行く前にさきさんの文通ラジオを読み返しながら、「私も孤独について書こう」と思っていたときは、自分が抱えている孤独について書こうと思っていたのですが、実際書いたのは、少し晴れ晴れとした感情で紡ぐ「孤独との向き合い方」であり、「生きるってこういうことなんだな」って大袈裟じゃなしに感じています。
生きていたら、ちゃんと人生は動いているし、ちゃんと感情は変わってくれる。その機会を自分でキャッチして咀嚼することも大切だなあと思いました。
・・・
ここからは少し余談なのですが、バスのなかで色々な考え事をしているときに、「そっか次に私が行くサンボマスターの公演は金沢か」と思い、嬉しくなったと同時に思い出したことがありました。
今から約5年前の2019年11月3日。この日は金沢の片町にあるエイトホールでサンボマスターの対バンツアーが開催される日でした。
私は2019年の11月1日に金沢に引っ越しをする予定だったので、「サンボのツアーが金沢で開催。それも引っ越した2日後なんて運命だ!」なんてことを考えていたほどです。
当時の引っ越し先をさきさんは知ってくれていると思うのですが、エイトホールから歩ける距離に家があったので、「大好きなサンボのライブに家から歩いていけるなんて!」と、家の審査が通ってからは本当に浮かれながら日々を過ごしていたように思います。
ただ、現実は引っ越す予定だった1週間前に仕事をクビになり、どう頑張っても1週間では金沢に引っ越せる精神ではなくなったので、引っ越しの日を伸ばすことになり、結果的にサンボのライブにも行けずじまいでした。
運よく、知り合いで公演のチケットを探している人がいたので譲ることができたのは、唯一の救いだったように思います。それからはコロナのことや、参加していたプロジェクトの運営でバタバタとしており、気づいたら2024年になっていました。
行きたかったライブに行けなくなって5年が経とうとする今年、やっと金沢で開催するサンボのライブに行けることになったのですが、もしあの時、仕事が続いていて、金沢のエイトホールでサンボのライブを観れていたら、きっと私はさきさんには会えていなかったんだろうなって思ったんです。
本来引っ越す予定の2週間後の11月15日になんとか金沢に引っ越した私は、とにかく知り合いがゼロだったので、「何か繋がりを…」と思い、偶然見つけた金沢のライターの集いに参加しました。そこで知り合ったのがさきさんです。
よく思えばあれは紛れもなく「孤独」が原因での行動で、家にいてもすることがないからとアルバイトを探し、そこで今お世話になっているコーチにも出会いました。
よく考えると、私の孤独は人生において衝動と深く結びついているような気がします。だから出会えた人がいる。そう思うと、孤独という感情は生きているからこそ感じるもので、なんだかそこまで悪くない感情のような気もしてきました。
もちろん、苦しい、辛いという感情が付いてくるので、まるっと愛してあげることはできないけど、「孤独」を理由に行動したり、どこか開放的になれる自分がいるのなら、私にとって孤独は原動力なのかもしれません。
孤独だったからさきさんにも出会えたのは紛れもない事実で、一時的な孤独を紛らわせるために向かった場所で出会えたさきさんと、こうして5年が経った今も言葉を交わして、大切な話ができていると思うと、「良かったな」って素直に思えている自分がいます。
長く書いていると終わりが見えず、どうやって締めようか迷ったのですが、孤独が原因でさきさんを始めとする大切な人に出会い、心地が良いと思える場所にまで出会えたと思うと、今日ばかりは、孤独に「ありがとう」を伝えよう。そんな気持ちになりました。
では、今回はこの辺で。読んでくださったみなさん、ありがとうございます。
▶次回更新:2024年4月中(担当_さき)