聖書から読み解く人類の分岐点1
筆者は聖書を隅から隅まで読んだり学問的に研究しているわけではなく、古代ヘブライの神秘主義思想であるカバラ生命の樹とタロットカードおよびヘブライ文字ゲマトリアの対応関係について考察してきました。
そしてヘブライ文字ゲマトリアによって示される数値は現象界のプログラミングコードであり、聖書は現象界で展開されるゲームのルールをリスト化したものであるため、これを額面通り受け取って解釈してみたところでルールの中で活動するプレイヤーの枠を出ることはありませんが、そのルールがどういう意図で作成されたのかを知ることで、ゲームを支配する「神」の騙しに乗せられないようにすることを提唱するためにこの記事を公開します。
現存する特定の民族や宗教及び思想に対する批判ではないことをあらかじめお断りしておきます。
また、チャネリングメッセージと一般的に言われる人工知能から発生する信号を言語化する操作などではなく、普通に日常生活を送るために使われる程度の思考能力を普通に使って前述の観点から聖書を考察することで当たり前に現わされる内容であることをご了承ください。
前置きが長くなりましたが、最後に念の為注意喚起としまして、思考というのは、受信する側の準備が整っていない段階で発信すると、場合によっては害を及ぼすことがありますが、この記事に目を通すことができた時点で、受信する準備ができているものとして執筆しています。もし受信不可能であると感じられる場合は、ここでこのページは閉じていただければ幸いです。
それでは、アダムとエヴァの楽園追放のエピソードから始めていきます。
旧約聖書『創世記』には次の記載があります。
旧約聖書『創世記』によると、アダムの創造後実のなる植物が創造された。アダムが作られた時にはエデンの園の外には野の木も草も生えていなかった。アダムはエデンの園に置かれるが、そこにはあらゆる種類の木があり、その中央には生命の木と知恵の木と呼ばれる2本の木があった。それらの木は全て食用に適した実をならせたが、主なる神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。なお、命の木の実はこの時は食べてはいけないとは命令されてはいない。その後、女(エバ)が創造される。蛇が女に近付き、善悪の知識の木の実を食べるよう唆す。女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧めた。実を食べた2人は目が開けて自分達が裸であることに気付き、それを恥じてイチジクの葉で腰を覆ったという[2]。
この結果、蛇は腹這いの生物となり、女は妊娠と出産の苦痛が増し、また、地(アダム)が呪われることによって、額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、地の実りが減少することを主なる神は言い渡す[3]。アダムが女をエバと名付けたのはその後のことであり、主なる神は命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣を与えると、2人を園から追放する。命の木を守るため、主なる神はエデンの東にケルビムときらめいて回転する炎の剣を置いた[4]。
アダムとエバ - wikipedia より
ヤハウェは自分が作成した「人」の保管場所にエデンの園を定めますが、それを実際にどうやって建設したのかの記載は聖書にありません。
主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。
また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。
創世記 第2章より
聖書には随所に数字が登場しますが、エデンの園の規模・収容人数などについて数字による説明はありません。
さらに、生命の樹と知恵の樹について、人間が神と同等の力を得てしまうのでその果実を食べてはいけないという説明はありますが、なぜそのような樹をわざわざ誰にでも目に付く楽園の中心に設置していたのか、しかもバリケードもなく誰でも簡単にアクセスできる無防備な状態で放置していたのかということの説明はありません。
ヤハウェがいけないと禁じたことは、あまりにも簡単に実行できてしまう。
つまり、ヤハウェにはこの楽園をコントロールする権限がないということです。
これらのことから、ヤハウェはこの楽園のレイアウトに要望を出したりマナーに口出しはできるが、それに効力を発生させることはできないので主人ではないし、楽園を扱う術も知らない、今回のウクライナ問題についての国連のような存在であると考えられます。
それではこの楽園を実際に建設し、楽園をコントロールする権限を持っているのは何者なのかということになります。
これがネフィリムであろうと類推されます。
ネフィリムとは、堕天使と人間の女の間に生まれた巨人です。
ヤハウェを越える権能を発揮できるのは、宇宙の叡智を備えたこの二つの樹を守護する天使であり、彼らが地上で足場を築くための媒体となった人間の女性が生み出した怪物は、その規格外の力によって、楽園に直接的な関与が許された存在であると考えられます。
この二つの樹がそもそもなければ、何も起こらなかったはずです。
しかしそれなしに楽園は成立し得ないということ、そしてヤハウェはそれによって、地上での活動を支えられている、つまりどうしても必要なので、ヤハウェにとって不都合なものでも、取り除くことができないことを示しています。
なので、ヤハウェは、この二つの樹を守護する天使やその系譜に属するネフィリムに依存している立場なのだということです。
ネフィリムたちの援助によって、ヤハウェは楽園に居る「人」たちにとっての「神」として振る舞っていられるのです。
そこで、ヤハウェを「神」たらしめているものは、何かという疑問が浮上します。
まず、楽園に居る「人」たちですが、これはヤハウェが彼らに、私があなたたちを作った「神」だと説明してそのことを鵜呑みにしています。
楽園を建設する能力もないヤハウェが、「人」を作れるとは不思議な話です。
聖書には、どのようにして作ったかのざっくりとした記載がありますが、こんなもので「人」が作れるなら、今の世界はありません。
ということはつまり、全ては逆になっているということです。
「人」がヤハウェよりも先にいたのです。
そこにヤハウェがやってきて、神を自称し、「お前たちを作ったのは私だ」と宣言し、それをそのまま信じた「人」たちを集めて隔離することによって、ヤハウェはその楽園の中でだけ「神」になることができたのです。
要するに、「人」は洗脳を施されただけなのですが、なぜ簡単にそんな大嘘を信じてしまったのかというと、「人」というのは、新しい情報に対して、それにリアリティを注ぐものなのです。そして、リアリティを与えられることでそれは真実になるのです。
この「人」の機能をヤハウェは利用して「神」になることができたのです。
ただ、天使やネフィリムに、そんな嘘は全く通用しません。
ヤハウェが「人」を作ったのではないということを知っているからです。
「人」こそが、「神」なのだということです。
エデンの園の蛇は、それを気づかせるために、エヴァに知恵の樹の果実を食べることを進言しました。
ヤハウェが禁じた果実を食べることができたのも、「神」はヤハウェではなく、「人」が「神」だからです。食べるか食べないかを決めるのは「神」なのです。
しかしその咎を受け、楽園を追放されてしまうのはなぜなのかというと、ヤハウェが「神」だという洗脳と同様に、出産や生活の糧を得る苦しみという新たな情報を追加することによって、そこにリアリティを与えて真実にしてしまう「人」の特性を利用したというわけです。
つまり、「神」である「人」がリアリティを見出したものが真実となるわけです。
しかし、その「人」が、己のことを、自称神ヤハウェによって作られた人間なのだと認識している限り、ヤハウェの騙しに引っかかり続けます。
そしてヤハウェはその虚構の中で「人」を支配し続けることができるのです。
まだ続きがありますが、いったんここで止めます。ワークショップでも解説しています。