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【長編小説】『月は、ずっと見守っていた』第12章「そばにいる風」
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前回までのあらすじ
高橋は七海の家に通うようになり、二人は親しくなる。七海は過去の写真をデジタルで管理しており、高橋はそれに気づきながらも彼女の過去に触れることはなかった。ある日、七海が突然倒れ意識を失い、記憶が戻り始める。七海は親友・綾香の死に対する後悔と自責の念を告白し、友達との別れを恐れて心を閉ざしていたことを話す。高橋は彼女を心配し、彼女の苦しみに寄り添う。
その数時間後、まだ朝が明けやらぬ蒼い時、七海は目を覚ました。横になったまま、昨夜見た情景が、失っていた綾香との記憶の断片だったことを理解した。
七海は、脳裏に浮かんだ記憶が消え去る前に、それらをしっかりと形にしようと、ベッドから飛び起きた。
部屋には夜の余韻が残り、静かなキーボードの音だけが響く。
過去の出来事が、今、手のひらの中で再び息を吹き返すように、次々と打ち込まれていった。
それぞれの言葉が時系列で整理されるたび、頭が少しずつ軽くなるのを感じる。
そして、『記憶喪失』の領域に入った記憶は、過去の思い出のように風化することはない。復活する時に、失われた瞬間の感情が、鮮烈に倍の濃度で蘇ることを経験して知った。
入力の手を止め、瞼を閉じると、ふと、あの日のことが鮮明に浮かんだ。
二人が、初めて出会ったのは、21歳の時だった。
綾香は身長が170cmと高身長で、優しく人にも好かれる、ほっこりするような雰囲気を持つ人だった。
一方、150cmで負けん気が強く、人付き合いが苦手な七海とは、何もかもが対照的な二人だった。
同じ会社で同い年、出向先は異なったが、研修の時にチームを組み、初めてとは思えないほど意気投合した。
その後、コンビを組んで仕事をすることも多く、社内では「デコボコ・コンビ」と称されていた。
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それまでの七海は、人に弱みを見せないように生きていたが、不思議と綾香にだけは、プライベートな話ができた。
お互い複雑な家庭で育ったことも似ていたこともあり、いつの間にか、女友達の域を超えて、一体感を感じる存在になっていた。
また、社内で異例な職種転向をした七海は、仕事や人間関係で悩みが多く、綾香に聞いてもらう度に、
「大丈夫よ!、七海は十分頑張ってるもの。私はいつも七海を応援しているから」と明るく背中をポンポンと叩いて励ましてくれた。
綾香の「大丈夫!」のおかげで、どんなに辛いことがあっても、彼女と話すことで気分転換ができ、また前に一歩踏み出す勇気をもらっていた七海がいた。
こうやって、文書化することで、綾香との思い出や感情が、ところどころ虫食いのように抜け落ちていることに気づく。
その抜け落ちた記憶の中に、綾香に対する懺悔と後悔の感情が、2つ浮かび上がってきた。
一つは、亡くなる前日に綾香から電話があったが、「どうせ職場で会うし」とコールバックしなかったこと。あの最後の電話で、彼女が何を伝えたかったのか、どんなに考えても答えが出なかった。
二つ目は、綾香を病院に連れて行けなかったこと。
綾香が体調不良を何度も口にした時、七海は「早く病院に行きなよ」と言い、
綾香は「行っているのよ、でもなかなか倦怠感が抜けなくて」としんどそうな顔をして言った。
七海は、知り合いの医師を紹介し、受診にも付き添う約束をしたが、七海の出張で結局付き添えなかった。
その時、綾香は「七海ちゃんが一緒じゃないと不安だし、次にしよう」と予定をキャンセルした。
そしてその一週間後、綾香は職場で倒れ、緊急搬送された病院の誤診で、処置が間に合わず、急死した、23歳だった。
綾香がこの世を去ってから、七海は何年も「どうしてもっと早く私は動かなかったのか」と自分を責め続け、後悔と自責の念に苛まれた日々を送っていたということが思い出された。
おそらく、当時の七海は、綾香の死を受け入れることができなかったのだろう。そのうち綾香とは、喧嘩別れか、または、七海の転勤で、縁遠くなったと記憶の刷りかえをしてしまうほどのダメージだったようだ。
それらを『過ぎた日々の事』だと再認識し、責めることなく、少しずつ整理しながら正しい情報で、思い出に戻していく。
その作業に集中していたのだろう、カーテンの隙間から明るい光が漏れ、伸びをしながら開けると、真っ暗な夜が明けていた。
その後も、七海は自宅でいつも通り仕事をしながら、ベット・ミドラーのアルバム「Forever Friends」を流し続けていた。「Wind Beneath My Wings」のイントロが耳に入ると、「ううっ…」また例の頭痛が襲ってきた。
目の前が暗くなり、突然、大きなスクリーンに映し出されたのは、綾香と最後に行った二人のお気に入りのカフェの情景だった。
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店内のざわめきが心地よく響き、七海は窓際の席で冷たいコーヒーを手に取りながら、綾香に話しかけていた。
窓から見える青い空と海、木々の間を流れるさわやかな海風。
七海は少し緊張しながら、心の中で何度も繰り返していた悩みを口にした。「でも、この異動はかなりイレギュラーだから、社内の人間関係も難しくなるかも…」と気弱に言うと、
綾香は少し怖い顔をして答えた。
「七海!何言ってるの~?!あなたがやりたかったことじゃない!誰でもできることじゃないから、やってみなよ!」
その言葉に力を込めて、綾香は優しい微笑みで七海を見つめた。
その笑顔に、七海は胸が温かくなった。
いつだって、綾香はこんなふうに力をくれる存在だった。
「そうだね、やってみなきゃわからないよね」と七海が答え、
しばらくおしゃべりをした後、
綾香は「私、病院行かなきゃならないから、先に出るね」と席を立ち、
店を出ていった。七海は「気をつけてね、ありがとう」といつものように見送り、アイスコーヒーを一口含んだ。
その時、店のエントランスに立った綾香が笑顔で「大丈夫!七海は七海のままで大丈夫だから、応援してるよ!」と手を振りながら大声で言った。予期せぬ出来事に、七海は思わず吹き出してしまう。そして、大きな声に驚いた他の客は、一斉に綾香と七海を交互に見て、一瞬の沈黙の後、微笑みながら見守っていた。
そう、あの時聞けなかった、そして長い間、聞きたかった綾香の言葉がハッキリと耳に届くと、スクリーンは静かに暗転した。
気が付くと、デスクに突っ伏して、頭に鈍い痛みがわずかに残っている。
背もたれにもたれかかりながら、今見たシーンを再生してみる。
随分忘れていたことがあると、それを丁寧に思い出していく。
そう、このCDは、綾香から「私たち、ずっと仲良しでいようね、どんなことがあっても」と言いながら手渡されたものだった。
綾香に出会うまで、人を信じることができなかった自分にとって、彼女との時間はかけがえのない宝物だった。
どんな時も支え合い、励まし合ってきた。
七海はそのアルバムを再生し、深呼吸をした。「ありがとう、綾香。」そう言って、再び涙が零れ落ちた。
あの時の綾香の優しい表情を思い出し、七海は胸の奥に何かが込み上げ、思わず肩を震わせた。まるで電流に打たれたような衝撃が全身を駆け巡り、その感覚が止まらない。目の前がぼやけ、涙がさらに溢れ出した。
七海は、綾香からCDを贈られた後、しばらくして綾香を失うことになった。七海は、ただ愛情をもらうばかりで、何も返せなかったことを強く責め、薄情な人間だと思い込み、次第に女友達との関係も避けるようになった。
だが、記憶の中で綾香は優しく微笑み、むしろ七海を心配しているようにも感じられる。再び「Wind Beneath My Wings」を聴いたとき、それまで哀しい歌だと思っていたその歌詞が、実は「あなたは私のヒーロー、見なかった世界を見せてくれる、だから感謝しているよ」という意味だったことに気づく。綾香が七海に与えてくれた愛や支えが、この歌に込められていたのだ。
七海は、綾香の死を知らされたあの日から心の扉を固く閉じ、泣けなくなっていた。涙を流さないことで、壊れてしまいそうな自分を守っていたのだろう。
しかし今、長い間押し込めていた感情が蘇り、胸の奥から次第に溢れ出してきた。
これまでの分なのだろうか、深く、そして長く、涙が止まらず、七海は床に座り込んだまま号泣した。
流れる涙をぬぐうこともせず、ただその時の悲しみや痛み、後悔、すべての感情をひたすらに感じ続けた。
涙も枯れるほど泣いたのだろう、泣き疲れて顔を上げると、窓の外には真っ青な空が広がっていた。
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その空は、綾香が好きだった色だ。
何度も一緒に見上げたあの空が、今もそこに広がっていることに、七海はふと安心したような気持ちを抱いた。
それは、まるで綾香がまだどこかで見守ってくれているような気がした。
思わず「綾香ちゃん、そこにいるの?」と首をかしげながら聞くと、空に虹がかかるのが見えた。
ベランダに出て虹を見上げると、まるで今も綾香が傍にいるかのように、あのカフェで聞いた彼女の声で「大丈夫!七海は七海のままで大丈夫だから、応援してるよ!」耳元で聞こえてきた。
その時爽やかで柔らかな風が髪を撫でるように吹いた。まるで、綾香の手のように…
綾香は姿を消したけれど、きっと風になって、今も私を見守ってくれているような気がして「綾香らしいな」と思った。
そして、『綾香が教えてくれた「愛すること」「諦めないこと」を胸に前に進んでいくよ!』と呟いて、
空に向かって大きな言った。「大丈夫!諦めないから!」
思わずその笑顔がこぼれ、心からの希望が湧き上がってくるのを感じた。
To be continued
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次回配信予定日:1月19日(日)
内容予告(変更のこともありますご了承ください)
七海は少しずつ記憶を回復し、過去の出来事を思い出し始める。ある日、彼女は若い頃の手帳を見つけ、その中に「COBOL」や「C言語」の学習内容を発見。頭痛と共に記憶が蘇り、プログラマーとして働いていた自分を再認識する。その後、記憶の回復を喜ぶ一方で、躁うつ病の再発を不安に思い心療内科を訪れるが、医師からは安心される。
一方、彼女の記憶の中で洵との関係が徐々に明らかになるが、ある日、過去の恋人アディの影が彼女を混乱させる。記憶が鮮明になるほど、洵の姿がアディと重なり、心の葛藤が深まる。洵は彼女の変化に戸惑いながらも、必死に支えようとするが、七海は一人になりたいと頼む。
これ以前のお話は、こちら