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薄志弱行な人生。理由がないといけないんですか。【取扱説明書②】
こんにちは、Sakiです。
前回、はじめて自分語りの記事を書いてみました。時間が経ってから読み直すと、もっとこう書きたかったな~~みたいな気持ちがあったりして。いつか修正するかもしれない・・・。
なんだか、よそ行きの文章というか、私らしくない文体な気がしている。はじめて書いたから、そんなもんなのかもしれないけど笑
もともとあんまり感情を表に出すほうではない(←これもINFJって感じ。)から、言語化してみたところで言いたいことの1割にも満たないのかもしれない。でも、頭で考えていることをちゃんと文章にして残したいと思う。それが楽しいし、好きだからこうしてnoteを書いているわけです。
タイトルの後ろにつけた【取扱説明書】の文字は、「自分語りの記事」という意味です。これもまたいつか変えるかもしれない笑
私ってこういう人間だよ、こういうことを考えてるよ、こんな過去があるよといったことを書いていって、【取扱説明書】を開けば私という人間が分かるような、そういう記事をたくさん書いていきたいなあと思っています。
薄志弱行な人生
私が今回記事のタイトルにした、「薄志弱行」という言葉にはじめて出会ったのは、夏目漱石の『こころ』でした。Kが遺した手紙を読んだ先生がその内容を説明する場面。
手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺するというだけなのです。
文学を志したきっかけは芥川龍之介の『羅生門』だったのですが、この夏目漱石の『こころ』を読んで、その気持ちに偽りがないことを確信した記憶があります。大学受験のために監獄のような予備校に通っていたのですが、そこはとにかく早慶上智などの上位校に受からせるために学部や学科縛りでの受験を否定するところで。私はそれに反抗して日本文学科縛りで日程を組んだので、予備校の事務員さんに心配されました笑
「大学でなにを学ぶか?」ではなく、「どの大学に入るか?」で通っている現役生・浪人生が多かったので、恐らくあの予備校のなかで学科縛りで受験したのは私だけだったでしょう。
そんな予備校の問題児であった私は、いくらでも語れるほど『こころ』が大好きだったんです。完全にオタク。
理系や美術系、音楽系の友人たちは高校の教科書に載っている「下」のKの自殺に至るまでの場面の抜粋しか読んだことがないという人が大半で、私はそんな友人たちにいつも『こころ』の布教活動をしている。あれを「上」から通して読んでいないなんて、勿体なさ過ぎる。人生を損し過ぎている(←言い過ぎ)。寧ろ「上」が良いのに・・・!!!
私なんて、高校の現代文の先生が漱石を研究している人で、単行本を買わされ、1行ずつ丁寧に精読させられたというのに。『こころ』用のノートを用意しろとその先生から言われ、『こころ』のみで構成されたノートを作ったというのに。読んだことがないとは何事だ・・・!!(一旦黙ろうか???)
私、「上」の先生みたいな人が本当に大好きなんですよね・・・。言動に滲み出る過去とその過去に基づく思想って本当に素晴らしい。人間って変化するものだと私は思っているので、どんな人生を歩んできたか、その人生でどんな苦痛を味わってきたか、どんなことを考えて生きてきたか、どんな体験をしてきたかってその人の思想と言動に大きく影響すると思うんです。大好きです。ありがとうございます(?)
「先生かK、どっちが好き?」と聞かれることがあるけれど、作中でKは先生の目というフィルターを通した状態でしか語られないので、K本人が語るKが描かれない以上、彼が本当はどんな人間かは分からない。だから、どっちが好きかと聞かれたら困るし、「下」の先生も人間って感じで好きだけど、やっぱりあの「下」を経験したからこその「上」の先生だと思うので、う~ん、「上」の先生が好きなんだけどなあ・・・!?と頭を抱えます。その質問はNGです笑
話を戻すと、
薄志弱行というのは、文字通り意志が弱く、実行力や決断力に欠けているという意味。何かを成し遂げよう!という気概がない。それゆえに行動に移せない、あるいは最後まで継続してやり抜くことができない、ということです。
「薄志弱行」。
私は、自分は薄志弱行な人間であると思っています。
昔からなにもかもが中途半端で、手をつけたことは何事も成せていない、いや、考えてみればそもそも成そうとも思っていなかった。気概も競争心も、幼い頃に砂場に置き忘れてしまったようで、どこか、諦め、諦念、身の丈を優先、得て落とすくらいなら拾わない、嫌いになるなら好きにならない、裏切られるなら信じない、そんな人間になっていました。そうやって自分を守ってきました。
6歳くらいからはじめたヴァイオリンも中3で辞めてヴァイオリニストにはならなかったし、11歳からの夢であった役者になるために高校とダブルスクールをして通っていた養成所も途中で失声症になって辞め、役者になることはなかった。(何故失声症になったかはいつか記事にしたい)
これらを習い事としてお金を出してくれていた親から感じていたプレッシャーは、
何者かになれ
ということでした。
だから、何かに手を出して、その何かを辞める度に、それは投資に対する罪悪ではないかという考えでいっぱいになったし、何者かになれないのなら、あるいはならないのであれば、彼らから見ればそれは無駄と等しいのだろうという考えでいっぱいになった。
大学で入った部活動も引退する前に辞め、今はフランス語を辞めようとしている。
やる、辞めるの繰り返し。
全てが中途半端で、枝分かれしていて、なにかひとつを極めようだとか、続けようだとか、何者かになろうだとか、そんな気概もない。周りと比べて「あの人より上手くなろう」とか「あの人を追い越そう」とか「一番になってやろう」とか、そんな競争心もない。ただ、好きだから、興味があるから、やってみたいから、というような理由で手をつけて、自分のなかで終わりの瞬間が見つかったら、はい、お終い。と、サッパリお別れして、また次の好きなこと、興味があること、やってみたいことに手を出して。
最近は、大学入学時から興味があった分野の勉強をはじめた。
その頃から数えて、手をつけずにいた時間は約5年間。自分の「やりたい」が消えないようであれば、気持ちに嘘はないと判断し、そのうち勉強をはじめようと思っていたのだ。
加えて、今まではフランス語学習の占めるウエイトが大きかったのも手をつけられなかった理由のひとつ。しかし、フランス語に別れを告げるならその分スペースが空くわけで、「これは勉強しはじめてもいいやつだ!やってみちゃお〜〜」と判断した次第である。ちなみに今勉強してるそれ、どちらかというと理系分野である。ご存じの通り、私はゴリッゴリの文系、日本文学を愛する者。なぜ私はいま解剖生理学をやっているのだろうか???謎である。
と、まあこんな感じで、良く言えば多趣味、悪く言えば全部中途半端なのが、私である。あれこれと手をつけるので、周囲からは「最初の行動力はオバケ」だと言われる一方で、「結局、なにになりたいの?」と、よく言われる。
私には姉がいるが、姉は3歳くらいからピアノを始め、今でもピアノを続けている。20年以上も続けている。私だったら考えられない。私が20年以上続けてきたことといえば、心臓を動かすことくらいで、到底張り合えるものではない。
幼少期に投資された「習い事」を長い間続け、それだけで将来的に食っては行けずとも、その投資に応えたわけであるから、両親はさぞ嬉しいのではないかと思う。その意味で、彼らから見れば、私はほとんど裏切り者であり、失敗作であり、いつ勘当されるのかと思っているくらいだ。
何かを辞める時、私のなかでは既に気持ちに整理がついていて、ほとんど何の未練もなくサッパリ辞めることが多い。しかし、周囲からは「あんなにやりたがっていたのに辞めちゃうの?」という疑問の声があがる。
一度やりたいと思ったことは死ぬまでやり続けなきゃならないのか。
一生をかけて、一度やりたいと思ってしまったことへの責任を取らないといけないのか。
これは私が常に持っている疑問であり、世間一般と自分が食い違っていると感じることのひとつである。
何かひとつを極めなきゃいけないのか。
何者かにならなきゃいけないのか。
意味を成さないのであれば、それは何かをする理由には足らないのか。
単純な好き、興味、やってみたい、知りたい、そんな気持ちでは駄目なのか。
続けられないのに手を出すことは愚かか。
全ての行動に理由は必要だろうか。
理由がなければ行動してはいけないのか。
理由を求めないで欲しいと願うのはいけないことか。
どうか、薄志弱行なままでいさせてはくれないだろうか。
薄志弱行。何者にもなれない。続かない。忍耐もない。単なる好きと興味だけで選び、取り組み、満足したらやめる。あまりに私らしい。これが私なのだ。私は何者にもなれなければ、きっと誰かの記憶に残ることもない。ずっと空虚で、空っぽで、何ひとつ成せず、何者にもなれず、死ぬのである。
なぜ自分は続かないのだろう、なぜ自分は他の人と同じように競争心を持つことができないのだろう、高みを目指そうとしないのだろう、薄志弱行なのだろうと考えた結果、ある結論にたどり着いた。
そもそも自分は先を見据えていないということである。
何者かになるというのは、いま現在から見えない先の結果のことであり、その見えない場所に向かって何かを始める、あるいはそれを続けるということができないのだ。
今の好き、今の興味でしか物を選ぶことが出来ず、今の気持ちがそれを継続したいのであれば、今の時間軸で継続していく。遠い将来、未来を見据えない。計画しない。そういうやり方で、私は生きている。
不確実な未来のためには生きられない
これは私の人生観とも等しく、私は先のことを考えられないのだ。5年、10年単位でライフプランを練るなど、到底不可能である。なぜだか知らないが、自分は長生きしないものと心で思っているし、長生きした自分のビジョンがまるで見えない。先日、私よりも年上の方から「人生100年時代って言うからね〜!」と言われたのだが、冗談じゃない。あなたは20代そこそこで死にますと言われたほうが、よほど現実的だと思う。寧ろ、明日死ぬかもしれない、明日生きている保証はどこにもないと思いながら生きているのが私の感覚としては正しく、長くて1、2年の範囲でしか先のことを考えられないのである。あるかどうかも分からない5年後、10年後を想定することができないのと同様に、いつかの不確実な未来のために何かを続けるというのは、私にはできないのである。
目先の行動目標に必要であれば、その行動目標を達成するためにそこまでの期間で継続することは可能であるし、その継続が続いた結果、長めの継続になったということもある。実際、フランス語がそうであった。私は「大学を卒業したら、1年間海外に住んでみたい」という気持ちを叶えるためだけに、今まで7年間フランス語を勉強していたのである。その気持ちを持ち始めたのは4年前くらいだと思うから、そこから数えて実質3年の継続としたほうが正しいかもしれない。
なぜ私がフランス語をはじめたのか、という話は別の記事で書くつもりだが、先に断っておくと、私はフランス語を勉強しはじめた過去の時点からずっと、フランスに興味があったわけでもなければ、フランスが好きというわけでもない。同じ文学でも、フランス文学には興味がないし、好きでもない。だから、「1年間暮らす海外」をなぜフランスにしたのか?フランスである必然性は何なのか?と問われれば、答えに詰まる。
つまり、フランス語は「1年間海外に住んでみたい」が消えなかったために、続けていただけなのである。そして、ワーホリビザで滞在している今、それはもう達成されたも同然である。
だから冒頭で言ったように、今は新しく別の分野の勉強を始めたのだ。帰国後にその分野の資格を取ろうと思っている。
これもまた変と思われるだろうが、「この仕事に就きたいからこの資格を取る」という“仕事を先”とした考えではなく、私の考えでは“資格が先”なのだ。つまり、興味のある分野の勉強をしたいという気持ちがあって、単純なその興味だけでその勉強に手をつけ、目先の目標として資格を取ることを設定した、というだけなのだ。私にとっては資格を取ることがゴールなのであって、資格を使うことはゴールではないのである。もちろん、なにか仕事に活かせたらいいな〜という気持ちはあるが、その資格を使ってする仕事をやりたいという気持ちは現状持ち合わせていない。資格をとった後のことはほとんどどうでもいいし、その資格が役に立つか立たないかもどうでもいい。そんなところに興味はない。私が興味を持っているのは、資格を取るまでの「勉強」である。私は資格が欲しいのではない、勉強がしたいのだ。私にとって資格は勉強の副産物、勉強したことを、身につけた知識を、試すための場でしかない。そのあとその資格を使って仕事をするのかどうかは、その資格を取ったあとの自分が判断することであって、今の私が判断できるものではないのである。
名前のない人生
最後に、「結局、なにになりたいの?」という疑問に答えてみようと思う。
私は結局、なににもなりたくないのかもしれない。名前をつけたくないのかもしれない。薄志弱行のままで、名も無いまま、色もなく、透明で、ふらふらと理由もなく生きている。気持ちの動くままに選び、取り組み、満足したら捨てる。また、選ぶ。繰り返し。そうやって私は生きている。
Saki
あとがき
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今回の記事でちょっとだけ登場した姉。姉とはめちゃくちゃ仲が良い。先日、日本とフランスでSkypeのビデオ通話をしたら、通話時間が6時間を超えた。アホである。Skypeくんが可哀想だ。Skypeくんが低速になるか突然通話が切れるかしてからやっと「通話終わりにする??」という流れになるので、Skypeくんからしたら拷問である。こんな感じで、トークショーを開催するかYouTubeで配信でもしたほうが良いのではないかと思うくらい会話が途切れない。というか、歳がひとつしか違わないので、ほとんど友人のような感覚なのだ。姉は威厳のあるお姉ちゃんではないし、私は可愛らしい年下の妹ではない。「姉妹である」という事実を伝えなければ、姉妹であることがバレないくらい顔も似ていないし、性格も違う。よく「たまたま名字が同じだけの友人関係」だと間違えられる。しかし、人が多いところが苦手とか、人に気を遣いすぎて疲れるとか、長時間労働ができないとか、そういう疲れる系ポイント(?)はほぼ一緒である。味覚もほぼ一緒である。私が苦手な食べ物は、姉も大体苦手である。そのためご飯屋さんは選びやすい。オシャレな高級ランチなど必要なく、サイゼリヤで喜べるところも一緒である。ちなみに、姉曰く、自分にはピアノしかないから、いろんなことをちょっとずつかじっている私はその分いろんな世界をちょっとずつ知っているというのが羨ましいらしい。
それではまた、次回の記事で!
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