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日記 9/22


模試を受けた。結果としては全体的に点数を下げてしまった。周りに耳を傾けて甲の教科は良かったけれど乙の教科は—という話を何度も聞いて平静を保ったり焦ったり、した。
私は普段国語が得意な方なのだが、自己採点をする前にわかるほどうまくいかず、一通り落ち込んだあと、ナイーブな思考はやめよう、とラーメン漫画であった気がするセリフを繰り返した。思うに落ち込むという行動は受け身のようなものだ。ショッキングな出来事をやり過ごすには良い手段なのだが、それは「やり過ごす」だけであって反省には繋がっていないな、とようやく気づいた。17年間生きている。17年間なんて大した年月ではない、という意見はこの年代の精神の成形への重要性を理解していない。なんて思ってもいないことを書く。

オフィーリアを見た。絵画のオフィーリア。
スマートフォンでオフィーリア、と検索すると沢山のオフィーリアの画像が出てくる。教養がないので作品の背景や示唆することなんて知らない。川に仰向けで横たわる女性。水死体のよう。寝ているだけかもしれない。
彼女の頭上には草花が流される彼女を迎え入れるアーチのように描かれている。
なぜか、ふとこのオフィーリアを思い出した。
高校一年生のときに車輪の下を読んで、そこに書かれていた比喩として知った気がする。
車輪の下は全然理解できなかった。ネットで解説を見たがピンとこなかったし、主人公が死んだのも(ネタバレ注意)偶然でしかなかったように思える。何かが違えば彼は苦しみながらでももう少しは生きていたのではないかと思う、がそんなことは誰にだって言えるかもしれない。この感想も朧げな記憶なので全くの検討違いかもしれないし、もしかしたら誰かの感想を自分のものとして記憶しているだけかもしれない。オフィーリアのように主人公が死んだのは確かだったはず。
水死体も美しい瞬間がある。僕にも美しい瞬間があったはずで、そう思うと少し悲しくなる。私が死んだときも何か絵画に喩えるなどしてほしい。高橋由一 「鮭」とか。私もいつか死ぬので。
是非。さようなら。


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