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困難事例、支援者を支えるOT理論の話。

いつの間にか11月になっていました。一ヶ月に一回はnoteを書こうと思って始めたのですが、やや余裕がなく…。もう来月は今年最後になるんですね。

3連休の初日。久しぶりに何もない休日。というわけで、朝からnoteでも書くかとなった次第で御座います。

皆さんのようにたくさん勉強しているわけでもなく、特別な経験をしているでもない、ただ年数を重ねてるのに臨床しかしてない私みたいな作業療法士だって、まあ思ったことを書き残してもいいじゃないかと…。

下半期に入り、4月から働き始めた療法士の方々も、にっちもさっちもいかん、という経験が臨床で少しずつ出てくる頃でしょうか、それとも、まだそういった事例には先輩達が対応している感じですかね?

専門性を高めるために理論を使ったり、それに付随する様々な評価やツールを使ったり…そんな話はよく聞きます。

一方で、支援者の支えになるというという側面もある、といったような話を他領域の話で聞いて非常に共感しました。

今回は作業療法の話、特に困難事例の話に置き換えて書いてみようかとおもいます。


余計なものはそぎ落とされる

困難事例とは何か、定義が難しいところですが…。

精神科の訪問サービスについての本で“横綱級”困難ケースについてこんなことが書かれています。

当該のケースたちを「手を焼かせる」「話が通じない感がある」「圧迫感を与えてくる」「要求が強い」「要求がわかりにくい」「手に負えない」ととらえていることが多いことがわかります。そして支援する側が「恐怖や怒り、嫌悪感」を抱いたり、「何を支援しているかわからなく」なったり、「達成感が得られなく」なったりと、収集をつけられない状態になっていることも伝わってきます。

精神疾患を持つ人を病院でない所で支援するときにまず読む本 著:小瀬古伸幸

「支援者が専門性を発揮した支援が出来なくなる」ような状態になってしまう事例であると個人的には思っております。

支援者が恐怖心を抱いたり、はたまた何をしているのかよくわからなくなったり。

何をどうとらえて、何をどう支援していいか。

専門性を発揮した支援が出来なくなるということは、実は余分なものはそぎ落とされて、自分が専門職たりうるものは何か、みたいなことを考える機会にはなるかと思います。

評価というよりは理解、そして共感

何をどうとらえて、何をどう支援していいか、わからなくなる。

私自身もかなり経験あります。精神科なんか実習くらいで、特に研修も何もない状態で精神科訪問看護にいきなりいくように言われた時にはまあ…大変でした。(今は訪問する支援者が精神科での実務経験、研修を受けるなどしないと算定できません。)

今、振り返ってみると、難しいケースが多かったように思います。

私は、精神科訪問看護に従事し始める少し前に、作業療法の理論を学び始めていました。

そのタイミングもあって、私の精神科訪問看護は作業療法の理論を使って出来事を振り返ることから始まりました。

評価というとなんか堅苦しいですが、評価は理解すること。

全体像を理解して困り感を共有して、共感すること。

しかし、何ができるかといったときに、その頃の私は今よりも技法も制度などに対する理解も不十分で、ただ話すくらいしかできていなかったような気がします。

でも、今だから言えますが、困難事例の場合は「理解して、共感して話す」が出来れば、その場ではかなり十分なことも多いような気がします。

私の精神科訪問看護の経験を通して、様々なものをそぎ落とされた先に合ったのは、「作業の視点で理解して、共感する」だったように思います。

そして、何より作業療法の理論は「包括的に理解」する仕組みとなっていることが、支援者を支える力になると思います。

上記の記事でも少し書いていただきましたが、作業療法の理論は共感できる範囲が広いということになるのかなと思っております。

支援者が燃え尽きないためのOT理論

大変な状況になればなるほど、ユーザーじゃなくて治療者が潰れずにそこに居続けることを支える……それが本書でも書いたことです。結局何も変わらないかもしれないけれど、投げ出さないで関わりつづけているほうが、ちょっとだけ何かが良くはなるかもしれないというくらいしか可能性がないときに、つまりなんの支えも手がかりもないままでそこに居続けることが大変な時に、支えのひとつには使えるんじゃないか、くらいのイメージですね。

精神分析的サポーティブセラピーPOST入門

これは精神分析を起源とした支持的なセラピーの対談の中のコメントですが、理論が自分の後ろにあることによって、支えにはなるのではないかということです。

こういう、困難事例と出会うとよくあるアドバイスとして、「人と人だからね」とか「寄り添いが大事」とか、何していいかわからない、支援してる側が潰れてしまいそうなアドバイスが平然とされているように思います。

昔、職場の上司から「ノーガードでいく感じがいいところですよね」と、なんか皮肉なんだかよくわからない褒め方をされたことがありましたが、完全なノーガードはただの素人なんです。

専門職の背景には常に自分たちの学問の上で理解がなされていて、それに支えられている、ということが大事だと思います。

作業療法の理論は扱う範囲が広すぎることはデメリットだと思うこともありますが、困難な状況でも支援者の支えになるような現場の状況の理解をもたらすのではないでしょうか。

作業療法士の「ふつうの相談」

今年は東畑さんの「ふつうの相談」にとても影響を受けました。

「ふつうの相談」というと専門性を丸投げして、とりあえず素人のような相談を思い浮かべるかもしれないですがそうではないです。(ただの雑談ではない。)

こういうことだ。普通の相談Bにおいては、理解は学派知においてなされるが、価値判断の局面においては世間知による補正が入る。

ふつうの相談 著:東畑開人

これは世間知と学派知の交渉である「ふつうの相談B」の視点に関する記述ですが、理解は学派知、専門職の知識でなされているということが、大事だと思っています。

介護保険領域だと、困難事例に対して担当者会議をすると、今は何もできない中でも、様々な専門職がああでもない、こうでもないと話を共有することになることがあります。

そこにはそれぞれの専門職としての知識がバックグラウンドとして働いているからこそ、それぞれの視点から理解がなされます。そして支援者がそれぞれの視点で話をすることで、事例をより広い視点で共有できることに意外と意味があるのではないかと思っています。

とはいえ、理論だけに支えてもらうのは無理

支援者を支える理論について思ったままに書きなぐってグチャグチャになってきたわけですが…。

最終的には支援者も誰かにケアしてもらわないと、やはり良い支援はできないというのが私がずっと思っていることです。

困難事例や難しい事例が来たら、まずは誰かに話す。まあ守秘義務もあるので、職場の誰かに話す。安心して話せる人に話す。

話を聞いてもらえる人が一人でもいると全然違いますよね。

オープンダイアローグは対話をするみたいな部分が良く取り出されますが、スタッフをケアする支援職がいるという話を聞いたことがあります。

なんだかんだ我々支援者も人間だもの。誰かに理解して、共感してもらえることが大事だと思います。

下半期も、皆さんで支えあいながら行きましょう。では、また!

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