有害無益な活動を強要することを教育とは呼ばない
まずはこちらの記事を読んでいただきたい。
記事の内容を要約すると,いわき市の小中学校で児童や生徒たちが医療従事者支援のために,折り鶴と桜の花びらをかたどったメッセージを送った,というものである。
私はこの記事を読んだ瞬間,「何を考えているのか」と唖然とした。医療従事者支援の方法として有害無益なことを,こともあろうに私の出身の小学校(いわき市立御厩小学校)と中学校(いわき市立内郷第一中学校)が行っていたからなおさらである。
これの何がまずいのか,簡単に書いておきたい。
何より,感染症対策の観点から誤っている
この少し前,児童や生徒がこのプロジェクトを始めたという記事が掲載された。そこでは,内郷一中の生徒が教室に集まり折り鶴を作成している様子を写した写真が添付されている。
知っての通り,新型コロナウイルスというのは感染力の強いウイルスである。このようにしてプロダクトを作成する行為,そしてそれを医療機関に寄贈する行為が何を意味するかは,ほんの少し想像力を働かせればわかることである。それをわかってやっているのならバイオテロリストと変わらないし,わからずにやっているのなら単純に愚かしい。
もし児童や生徒の中に感染者がいたら,教室の中で感染が広がったら,そしてこうしたことが原因となって医療機関で感染が広がったら,どう責任を取るつもりなのか…学校側は少しでも考えたことがあるのだろうか。(まあ,少しも考えていないか,極めて軽く見ているからこそ,こんなことが平気でできるのであろうが)仮に記事の通り生徒会の発案であるとしても,本来であれば教員が全力で止めなければならないはずであるし,何かをやるにしても感染リスクがない,または著しく低い企画にとどめるべきであった。
「なんとなくよさそうだったら,やってもいい」ことにはならない
では,なぜこんな企画が通ってしまったのだろうか。改めて考えてみるに,「こういうことならできそうだし,やることがよさそうだ」というくらいの単純な発想なのだろうと思う。記事にある,内郷一中生徒会が「新型コロナウイルス感染拡大防止に尽力している医師や看護師の皆さんに感謝の気持ちを届けたい」と発案したというのは,おそらく事実であろう。
生徒からそのような発案があったとして,なぜ,「その行為が感染を広げるリスクを増大させないか」という思考プロセスを経ていないのだろうか。ことは感染症である,ウイルスである。志村けんや岡江久美子をはじめとして多くの人たちの命を奪った未知の感染症である。感染リスクを増大させる行為は安易に行ってはならないことくらい,子どもでもわかることだ。またこうしたことを考えることで,リスクコミュニケーションを学ぶ格好の機会となったかもしれない。それが行われないままにこのような企画が通ってしまうことは極めて遺憾であるし,日本の教育機関を蝕む病理現象の一端を示しているように思われる。
この「なんとなくよさそうだから,やってもいいじゃん」という空気に対しては,全力で反論しなければならない。それができていないから,複数の死者や重傷者を出しても運動会の組体操はなくならないし,歴史研究において完全に否定されているはずの江戸しぐさは教科書からいまだになくならないのである。学校の教員が思考停止に陥っていると言われても仕方ないであろう。
医療従事者のためにまずできることは,感染を広げないこと
実際のところ,医療従事者でない人間が医療従事者のためにできることというのはそう多くはない。だが何よりも大切なのは感染を広げないこと,感染が疑われる場合はしかるべき手順に従うこと,不用意に医療機関を訪問しないことであり,そうしたことで医療従事者の負担を減らすという形での支援は十分可能である。他にも,医療機関に対する募金やクラウドファンディングなどの方法でもよいだろう。
医療機関に応援のメッセージを送るなら送るで,静止画や動画の形にして完全オンラインで行うのであればよかったのではないだろうか。それを検討せずに感染拡大リスクの高い方法をとった今回の件において,学校側に重大な過失があると評価せざるを得ない。
感染症において一般市民がすべきこと,すべきでないことという基本に立ち返り,あるべき支援の形を教育機関にはもう一度考え直してもらいたい。切にそう願う次第である。