見出し画像

自分の発信が誤解を生んだかもしれない、と思ったことからの気づき。

note3記事めです。
まだ自分が書くことにいっぱいいっぱいで他の方の記事を読みに行けていませんが、ちょっとずつ慣れます…!
(あ、でもいいねを押してくださっている方の記事はなるべく読みに行ってます。ありがとうございます!勉強させてもらいます先輩!)

そんな私が発信について書くのもなんなんですが。
ちょっと誤解されているのでは?と思ったことがあってもやもやしたため、ここに思いや、そこから感じた学びをまとめておきたいと思います(自分のため)。

文章を書くときに誤解が生じないか常に気を付けてはいますが、それでも100%誤解が生まれないとは限らないですよね…しかも誤解されたかもしれないと気付けるかどうかもわからない。

なんでか?
相手によって同じ文章を読んでも受け取り方はひとそれぞれだからだと思います。

前につらくなったときは、「誤解を生むくらいなら文章書かないほうがいいんじゃないか」と思って一旦書くのやめてみたりもしました。

でも、敢えて今回はちょっとこれを逆に考えてみます。

例えば自分じゃない人の文章を読んで何か不快感を感じたとする。でもちょっと立ち止まって考えてみる。

「その相手はそういうつもりで書いたのか?」

もしかしたらその人の伝えたいことがうまくこちらに伝わっていないかもしれないですね。だって100%誤解を生まない文章を書くのは難しいんだから。

と考えたら、書く方ももちろんなるべくちゃんと考えて発信するとよいと思うけれど、受け取る側にも多角的な視点が必要なのかなと考える。

最初はこう受け取った。
でももしかしたらこういう見方もできるかもしれない。
いや、こういう見方もあるな。

いくつか出せたそのときには、不快な文は不快ではないかもしれない。相手のことを無駄に嫌いにならずに済むかも。
あと、ものすごく共感したときも同じ。100%信じてみたけれど、本当にそうなのかちゃんと考えたい。妄信は何事も危険と思っている。柔軟性はいつも残しておきたい。

世の中にはいろんな情報がある。
あっちではこう言っていたのに、こっちではああ言っている。
ねえねえどれが正しいの?

正直どれも正しい。発信者の信じているものだから。発信者にしてみればそれは正しい。
でも、自分にとっては違っているかもしれない。生き方、環境、性格、いろいろ違うんだから当然の話。
だから、目にしたその情報を信じるかは自分次第。

自分にとっての正しい選択を選べる判断力は、ちゃんと鍛えておきたいなと私は思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?