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ナナメに生きる

私は今までまっすぐに生きることしか知りませんでした。
いや、まっすぐ生きているなんて感覚すらなかったのかもしれません。
ただ、息苦しいなとだけ思いながら学生時代を過ごしていた記憶があります。

どうしてあの人は真面目に生きないのだろう、
どうしてあの人は私と相容れないのだろう、
──きっと心から話し合えば分かり合えるはずなのに。

理解ができない人に出会うとそんなことが頭を巡り、
「じゃあこちらが下手に出れば、それをみて向こうも何か歩み寄ってくれるのではないか」なんてことを考えていたものだから、中学校でも高校でもアルバイトでの接客でもこれが思いやりと自分で信じたものを相手に押し付け、自分に課し、いつしか自分を主張する術を忘れていってしまいました。これは、真面目な人によくあることだと思います。ここでは、相手(他人)を考えるあまり自分のことをどう見ればいいのかわからなくなった私のことをつらつらと書いていきたいと思います。


まず初めに、相手のことを考えすぎるようになったきっかけから書いていきたいと思います。子供には家庭と学校しか社会がありません。つまりはその二つで起こったことなのだろうと今振り返ってみて私は思います。

家庭環境は恵まれたものだったと思います。教育を十分に受け、美味しいご飯を食べ、よく眠り、すくすくと成長できていました。しかし、小さい頃から母親にこんなことを言われ続けていました。

私の母(筆者の祖母)は子供に厳しかった。だからそれを見て、自分の子供にはそんな教育はしたくない。〇〇(私)のお父さんは、よく怒るけれども、絶対にああはなってはいけないよ。

子供は単純です。それを聞いてただ首を縦に振るだけでした。しかし、子供からすれば厳しい鞭と甘い飴があれば飴を舐めたくなるのは当然です。母の言葉を聞いて、いつしか私は父親が怒るのは世間的に悪いことだからそうしないためにはどうすればいいのか考えるようになっていました。これが、「怒る」という自己主張を抑え、穏やかにいようという考えに繋がっていくわけです。刷り込みというものは怖いもので、それだけが生き方だと思ってしまうが故に自分を苦しめてしまうのですね。

そうした考え方が学校でも繋がってくるわけです。子供なのだから軽い気持ちでした言動は数多くあると思います。私も例外ではなく、その場の雰囲気でやってしまったこと言ってしまうことはあったわけですが、それについて深く考えなければいけないという風に思考が固まってしまっている訳です。自己主張は許されないからです。周りのクラスメイトから言われた小さなことでメンタルをやられ、さらに拗らせていってしまいました。この時の「小さなこと」は明らかに私が拡大解釈をして考えすぎた挙句に、自分の中で大きなことにしてしまっていただけです。

こうして家庭-学校と行き来する中で、他人の目を気にするだけの自分軸無し無し人間が作られていってしまう訳です。


さて、こうした経緯があることを言った上で、それに気づいたきっかけを述べていきたいと思います。

一つ目は、人に頼れない(頼るのが苦手)と気付いたことです。自己主張をしないという考えはいつしか自立しなければという考えに変わっていきます。そうして自分でやりくりして、苦労して、けれども自分でなんとかできてしまうから人に頼るなんてことを知らないできました。でもいつかは壁にぶち当たり、自分でなんとかできるラインを越えたものがやってきます。そうしたときに目の前が真っ暗になるんです。

人に頼れる人であるならば、そんな時に目の前に人の背中が見え、その背中をトントンと叩くことでその人と一緒にその暗闇を照らすことができるのだろうけど、そもそも人に頼ることを知らず、暗闇で人を認識できない人間にはどうすればいいのでしょうか。その暗闇の中でもがき、より自分を追い詰め、自分の内へ内へと迷い込んでしまいます。

けれども、周りの人間からすればいとも簡単なことでつまずいているだけだったりもします。私の場合は単なる経験不足によるつまずきだったので、経験者に聞けばなんらのりこえられない壁ではなかったのです。初めてそれを知った時、肩に載った荷物が
ふと軽くなり、少しその暗闇に光が入ったような気がしました。

二つ目は、ストレートに自己主張をする場面で全く言葉が出てこないということです。決して間違ってはいけないのは、意見を持っていないということではないということです。意見はあります。こうしたらいいと私は思っています、と頭の中で考えることはたくさんあります。しかし、言葉が達者な人の前では途端に自分の意見が弱々しくなり、いざ意見を述べようとしても弱々しい言葉でしか口から出てこないのです。その達者な人の顔色を伺うからです。

苦しいです。正直、自分の思っていることを言葉にできない苦しさは人間的な苦しさがあると思います。人の営みができないということですから、根源的に苦しんでしまいます。自分は劣っている人間だと思うことも少なくありませんでした。でも全然そんなことを考える必要はなかったのです。


ナナメに生きようということを考え始めたのは、ラジオを聴き始めてからでした。オードリーのオールナイトニッポンを聴き、ナナメの夕暮れを読み、ああそうかと徐々に分かりかけてきました。そもそも2時間喋り倒すなんか絶対ムリだし、そのうち言葉が枯れてしまいそうなものを、なぜずっと話し続けられるのか不思議でたまりませんでした。それに人に暴言を吐いたり、バカにしてもなんだか全く嫌気がないのがおかしくて、何が何だかわからなくなりました。

え?こんなにじぶんのおもってることいっていいの??

そんなことに近いことを思った記憶があります。もう一度書きますが、不思議でたまりませんでした。それでラジオにハマったのはいうまでもありません。

そして気づく訳です。

まっすぐすぎる!

ナナメに生きてみようよ、と思い立つ訳です。多少、嫌なことがあればムッとしたっていいじゃない。心の中ならだれもわからないんだし。嫌いなやつを叫んだっていいじゃない。一人でいる時は自分しか聞いていないんだから。もっと、心の中にあるタンとかガスとかヘドロとかどんどん出して行ってもいいじゃない。誰も見ても聞いてもいないんだから。

一人でいるときは嫌だったこと、ムカついたことを抑えることはなくなりました。ガハハと笑い飛ばし、ヘッと鼻で笑い、私はこんなに楽しいけどお前は残念だね、なんて思うようになりました。そして、素知らぬ顔をして次の日いい子で人と話すのです。

ああ、随分気が楽になった。そう思いました。今までまっすぐに生き過ぎていて、一人でいる時すら自己主張を抑え込んでいたのは気付きませんでした。その蓋を開けるとぐつぐつと主張が煮えているわけです。だからひとりになるとその蓋を開け、蒸気が出ていくのを眺めている訳です。そうして少しづつ主張をするということのやり方を思い出していくことができました。


私の場合、まっすぐに生きることが性格と合っていなかったということです。ナナメに歩いた方がより前に歩けたというだけの話です。だから、単なる一つのお話でしかないですが、一つの自己主張でもあります。自分がなぜ苦しいのかさえ分からないでいた私はいません。ただただ、生きていくことにナナメに向き合っているだけです。

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