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はじまりの日(3)

 大学の卒業式で久しぶりに再会した佳寿美(かすみ)は、少し痩せた印象があったが、今振り返ると、あの時はまだまだ生気に溢れた元気な姿だったのだと実感する。
 職場の宿屋で倒れて緊急入院となったあとは、緩やかではあるが、佳寿美を形作っていたピースが一つずつ、剥がされて灰になっていき、それらはもう、失われるばかりで再生することはないのだと見せつけられる日々が続いていった。
 紗都美(さとみ)が仕事の後に母親の病院を訪ねることも多く、ひどく疲れた様子で帰宅することもしばしばあった。
 妹の愛由美(あゆみ)は、転居先の静岡県で専業主婦として暮らしながらも母親の治療費を稼ぐため、パート勤めをしていたが、妊娠・出産を経て今は育児に専念していた。
「愛由美がさ」
 食器についた洗剤を水で洗い流しながら紗都美がポツリと言った。
「愛由美ちゃんがどうしたの?」
「離婚したんだって」
「え…」
 途方に暮れた顔をしている紗都美の手元にある皿を蛇口から無尽蔵に流れる水が滑り落ちていく。
 静止したままのシルバーリングをはめた紗都美の指が水に溶け出してしまいそうで、菜月は蛇口の水を止めて話の続きを促した。
「どうして?」
「旦那がね、会社の金を使い込んでて、クビになったんだって。訴訟は起こされない代わりに解雇処分になって、旦那から別れてくれって離婚届を渡されたって」
「子供は?」
「愛由美がひとりで育てる」
「でも…愛由美ちゃん住むところとか、仕事とか…」
「それを話し合うために来るの。旦那は離婚届を出したままもう、どこに居るかもわからないって」
「そんな…」
 菜月はどこか縁のない家族の話を聞いているようで温度が消え失せた顔をする紗都美になんと声をかけたら良いか見当もつかず、息苦しかった。
 こういう時に気の利いたことが言えない自分が菜月は心の底から嫌いだった。
 紗都美はまた蛇口を捻り、淡々と食器を濯ぎ始めたが、その横顔には涙を見せない代わりに、未来を閉ざしてしまったような深い翳りがあった。
 菜月は紗都美の疲れた顔を見ていることが耐え難く、もう一度、蛇口を閉め、水を止めた。
「紗都美、洗い物やめて梨のケーキの残り食べようよ」
 紗都美の返事を待たずに、冷蔵庫から紗都美の好きな梨のケーキを取り出した。
 前日の給料日に横浜駅近くの洋菓子店で買ってきたもので、ホールの半分はすでに無くなっていた。
「はいはい、洗い物終了。座って」
「でも、まだ途中…」
「やりかけだって、いいの。後でまたやればいいじゃない。今やれ!って命令も法律もこの家にはないでしょ」
 物事を「やりかけ」状態で放置することにひどく戸惑う紗都美を無理矢理テーブルに座らせた。
 ポットからお湯を注ぎ、紗都美にはインスタントコーヒーを、自分にはティーパックの紅茶を入れた柄違いのマグカップを対角に置くと、その中央に半円となった梨のケーキを置いた。
 白い雲の様な造形美の優れた生クリームの間にコンポートされた梨が艶やかに並んでいる。
「はい、フォーク」
「切らないの?」
「切らないよ、このまま食べるの」
「切ろうよ」
 菜月は紗都美の言葉を無視してフォークをその柔らかい白い壁に突き刺すと、掬い上げるように一角を持ち上げ、そのまま大きく開けた口の中へ運んだ。
「うーん、やっぱり美味しい!」
 紗都美もゆっくりと同じようにフォークを動かして、ケーキを口に運ぶと、ようやく花が風にそよぐような優しく、憂いを帯びた笑顔を見せた。
 菜月は口の中に広がるケーキの甘味と、視覚で捉えた甘ったるい笑顔が全身を溶かしていくような感覚を熱い紅茶で中和した。
 紗都美には笑ってほしい。
 あの夏の川辺で見せた弾ける笑顔でも、梨のケーキを頬張るたびに見せる静かで儚げな笑顔でもなんでもいいから、悲しい未来を見つめるような顔はさせたくない。
 そのためなら菜月はどんなことでもできる気がした。
「愛由美ちゃん、しばらく家にくればいいじゃない」
 菜月はフォークで梨を突きながら、なんでもないことのように言った。
「私たちが物置にしてる部屋を開ければ愛由美ちゃんの部屋として使えるし、そのうち家賃も三等分できれば、みんなハッピーじゃない」
「でも息子もいるんだよ」
「いずれ男手も必要になるかもよ」
「まだ三歳だよ」
「あと十年かけて仕込めばそれなりの立派な男になるでしょ」
 二人は小さなペンダントライトの灯りが照らす食卓で、肩を揺すって笑い合いながら夢中でケーキを削っていった。
「だからね、紗都美、大丈夫だから。紗都美が一人で抱え込まなくて大丈夫。解決策は私も一緒に探すから。紗都美が私を頼ってくれるのをずーっと待ってたんだから」
「うん。ありがとう、なっちゃん」
 菜月は物分かりの良くなった紗都美に向けて、よし、と頷くと、一つ咳払いをし、居住まいを正した。紗都美の方もそれを合図ととって、フォークをテーブルに置いた。
「いくよ」と、菜月が言うと、「うん」と紗都美が頷いた。
「ルームメイトは」
 菜月がアントニオ猪木の「元気ですか!」と同じような言い方で、言い放つと、
「ソウルメイト!」
 紗都美も拳を突き上げてそれに応えた。

 菜月が大学の女子寮に引っ越してきたのは入学式を翌日に控えた日のことだった。
〈703〉と表札のついた部屋の前にはダンボール箱が積まれていて、確認すると実家から送った自分の荷物であることがわかった。
 まずは新居となる自分の部屋の中を見たいという気持ちが急いた菜月は、積み重なるダンボール箱を見なかったことにして、部屋の鍵を挿した銀色のノブを回した。
 しかし、ガチャっと音がしただけで扉は開かなかった。
 すると、バタバタと足音が近づき、内側から自動で扉がゆっくりと自分に向かって開いた。
 ひょっこりとドアの隙間から覗き出た、黒目がちな瞳と目が合った。
 そして、その小動物にも似た顔から、澄み渡った空に響く鳥の声のような涼やかな声で、
「あなたがソウルメイトさん?」
と、聞き慣れぬ言葉を唐突に投げてきた。
「は?」
「あ、ごめんなさい、どうぞ、入って」
 なんだか人の家に入るような気持ちになり、思わず「お邪魔し…」と言いかけて、相手のペースに乗せられていることに気づいた。
 不愉快ではなかったが、菜月は少しだけ警戒した。その警戒をよそに、
「私、真野紗都美です。教養学科に入学します。今日からよろしくね。私たち、ソウルメイトみたいだから」
 紗都美と名乗った小柄な女の子は、肩までの茶色い髪を揺らして笑った。
白い顔は、ほとんどすっぴんのようで、少し前に流行ったオーバーサイズの白いニットを着ていて、高校では別のグループに属していたような、なんだか綿あめのようにふわっとした第一印象の女の子だった。
「瀬戸菜月です。私も教養学科だから、よろしくね。で、さっきから言っているソウルメイトってなに?」
「あぁ」
 紗都美は可笑しそうにくるっと振り向くとベッドの足元に這いつくばった。
「菜月ちゃん、ここ、見て!」
 下から見上げるようにして紗都美は手招きした。
 菜月は仕方なく紗都美の横に膝き、紗都美の指差す方を覗き込んだ。
 すると、ベッドと机の間のわずかな隙間の壁に「ルームメイトはソウルメイト!!」と油性マジックで書かれていた。
「さっきね、掃除してたら偶然見つけたの。それで、私のソウルメイトってどんな人なのかなってドキドキしてたんだ」
「そこに私が現れたってことか」
「うん。きっと前にこの部屋を使ってた先輩たちはすごく仲がよかったんだろうね」
 紗都美はポジティブな推論をとても楽しそうに菜月に伝えた。
 後になって、この「紗都美の推論」は彼女の癖のようなものなのだと理解することになるのだが、「思慮深い」という表現はまだこの時、菜月の辞書にはなかったのだ。
 菜月が気にも止めないような出来事や風景を紗都美は目敏く感知し、愉快そうにいくつもの推論を共有してくれた。その度に、きっとそうだ、そうじゃないと肯定と否定で言い合いになったが、そのおかげで二人はいつも同じ景色の中を歩いてこられた。
「じゃあさ、早速だけど、サトミって呼んでいい?」
 一瞬きょとんとした紗都美だったが、すぐに口元を緩めると、
「うん!もちろん。じゃあ、私は『なっちゃん』って呼ぼうかな」
と、またやわらかい笑みを見せた。
 完全に紗都美のペースに呑まれた菜月は、抵抗することもなく、それを受け入れた。それはまるでわあために包まれるように心地よい感覚だったのを覚えている。
「じゃあ、それで。ルームメイトは」
「ソウルメイト」
 それから二人は荷ほどきをする間も、コンビニに夕食を買いにいく間も、お互いのことを喋りつづけ、狭い部屋の中、左右の壁につけられる形で置かれたベッドに入り、やがて東の空が白みはじめるまで、くだらない身の上話を披露しあった。
 それからというもの、紗都美が失恋した夜、菜月が就職試験の不採用通知を受け取った夜、二人同時にインフルエンザに罹って動けなかった夜…幾多の夜をこの見知らぬ先輩が残した誓いにも似た言葉を守るように唱えては、それぞれが抱える不安や悲しみを有耶無耶にして宙に投げ捨ててきた。
 ラムネが舌の上で甘く溶けていくように、即効性のある合言葉を二人はいつまでも大切にしたまま、大人になったのだ。

つづく

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