見出し画像

はじまりの日(6)

 菜月がそうめんと天ぷらを台所に引き上げている間に、紗都美と愛由美は出かける身支度を整えた。これから姉妹は愛由美の青い軽自動車で母親を見舞う予定になっていた。
「匠、ねぇ、起きてって、匠!」
ダイニングテーブルに面したソファの背もたれから覗き込むと、愛由美がすっかり床で眠りこけてしまった息子を揺すり起こしているところだった。
匠は窓から射す午後の陽光を浴びながら優雅な寝息を立てていた。
「寝ちゃったの?」
「はい、今朝早かったから仕方ないんですけど」
「おばさんに匠くんの顔、見せたいよね」
「えぇ。母に会わせたいんですけど、今日は色々話すこともあって…」
「それなら私が見てるよ」
「でも、せっかくの休日じゃないですか。悪いです。病院の看護師さんにちょっとの間見ててもらおうと思っていたので…」
「これから一緒に住むんだから、私も早く匠くんと仲良くなりたいの。子守経験があんまりないから愛由美ちゃんが心配かもしれないけど、悪い言葉とか汚い言葉を使わないように気をつければ大丈夫だよね」
愛由美は昔の紗都美によく似た柔らかい笑顔を浮かべ、「悪い言葉って、」と体を揺すった。
菜月に説得され、
「それじゃあ、お言葉に甘えて、匠をよろしくお願いします」
と、愛由美はちょこんと頭を下げた。
匠の処遇が決まるのと同時に紗都美が玄関から愛由美を呼んだ。
菜月も二人を見送るために玄関まで出て行った。
三和土で靴を履くと、姉妹は合わせたようにくるっと上がり框にいる菜月の方を振り向いた。黒目がちで愛らしい目が印象的な、よく似た顔がふたつ、こちらを向いて並んだ。
小柄で愛らしいこの姉妹を佳寿美は今の自分と同じように幾度となく、玄関先で見送ってきたのだろうと、菜月はその見知らぬ記憶に思いを馳せた。
「匠をよろしくお願いします」
ぺこっと頭を下げる愛由美に向かって菜月は笑顔で頷いた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
夕方には帰ってくるはずの二人と束の間の別れであることを約束する言葉を交わした。
愛由美が先に玄関の引き戸を開けて外へ出た。
紗都美は敷居をまたいでもう一度こちらへ振り向くと、
「いってくるね、なっちゃん」
と、引き戸に手をかけ、微笑んだ。
「うん、気をつけて。おばさんによろしくね。いってらっしゃい」
菜月も片手を振って見送った。


 姉妹を見送った一時間後、昼寝から目覚め、庭を走りまわる匠を窓際に座って眺めていたときだった。
窓の横に置かれた固定電話機が予告もなく鳴った。
 菜月は横着をして体をよじって手を伸ばし、受話器を取ると、それは、警察署からの電話だった。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?